第3話 庭師《バーチヴァン》は密命を帯びる

 闇の御方カランルクラル様の宮殿の玉座の間に足を踏み入れたゼヒルギュルは、束の間、息を止めた。


 宝石がモザイク模様を描く円蓋ドームは、満天の星空よりも眩く煌めいて色とりどりの光を降り注がせる。──その煌めきを浴びてしどけなく横たわる彼女の主の姿に見蕩れて、時が止まる思いがしたのだ。


(なんて、お美しい)


 たとえ深い傷を負ったお顔を闇色の魔力ギュチとばりで隠していても、カランルクラル様の美はそれほどの力がある。跪くまでの一瞬で、ゼヒルギュルの目には整った顎の線がくっきりと焼き付いていた。


 玉座の間には、魔神シェイタン魔力ギュチが満ちている。両目を損なわれたために視覚を失ってはいても、その魔力ギュチに触れる範囲のことは、自身の掌の中のことのように何もかも分かるのだとか。


 深く頭を垂れると、ゼヒルギュルの真紅の髪が床に広がった。美しい主の掌中に弄ばれる想像を巡らせれば、そのまま崩れ落ちそうな思いだけれど──そこは堪えて、彼女は声を甘く上ずらせた。


「お庭のはつつがなく終わっております。花も木々も、いっそう色鮮やかに──」

「そうか」


 短く答える主の声は、不機嫌そのもの。もちろん、尖った声に切りつけられる心地も甘美なものだけれど、不機嫌の理由に思いを馳せると、深く激しい憤りが込み上げてくる。


「《災厄フェラケト》の差し金でございましたね。姑息で卑怯な真似です」


 ゼヒルギュルは、闇の御方の宮殿の庭師だ。美しい花々が常に咲き乱れる庭園を整えておくのが彼女の務め。

 嵐や陽射しから植栽を守るべく水や風を操ることもあれば、庭を荒らすを追い払うこともある。そして、の中には主を狙うほかの魔神シェイタン先鋒せんぽうや、生存圏を広げようと目論む人間の軍勢も含まれる。


 先ほど、この宮殿は招かれざる客、あるいはの来訪を受けた。

 宮殿の主が出向くまでもない毒蜂龍バラルス・ユランの小隊ごとき、と呼ぶまでもない。庭師に対応できるていどの、割とよくある出来事ではあった。


 ただ──よりによって、闇の御方がちょうどの時に、というのは不審なことだ。


神殿タプナークと結んだのだろう。宮殿が手薄になるとの情報を流して、時間稼ぎをしようとしたか」


 うんざりとした声音で、主はゼヒルギュルの推測を肯定してくださった。


 ほんの数日前のこと、闇の御方の宮殿は、その主人と因縁のある《災厄フェラケト》なる魔性イブリスに襲われた。否、主はその襲来を正しく察知して迎え討ったのだから、決して不覚を取ったわけではない。


 かつて御目を損なわれた雪辱を果たすべく、ゼヒルギュルたち側近は遠ざけて、おひとりだけで戦うことを選ばれたのだ。誇り高い魔神シェイタンの、あるべき姿だ。


 結果は──思った通りにとは、いかなかったようだけれど。御身体だけでなく、矜持までも深く傷つけられたであろう主を思うと、ゼヒルギュルの心も引き裂かれるように痛んだ。


(私が傍にいれば……!)


 後悔に歯噛みしながら、ゼヒルギュルはより深く平伏した。主を守れなかった罪を詫びるなら、地に伏すどころか地中に埋まりたい。庭の草花の肥料になってしまいたい。


「そもそも《災厄フェラケト》を逃がしたのはわたくしの落ち度でもございました。まことに申し訳ないと──」

「下がれと命じたのは私だからそれは良い」


 ゼヒルギュルの言葉を遮って、かり、と硬い音が響いたのは、主の白い歯が宝石の欠片をんだ音だ。


 《災厄フェラケト》の襲撃によって砕かれた玉胎晶精ターシュ・ラヒムたちの貴石は、成長するまでに注がれた魔力ギュチをふんだんに蓄えている。食されることでカランルクラル様の糧になれるのは、彼ら彼女らも本望だろう。というか、はっきり言って羨ましい。


(とはいえ、御目が戻るのはいつになることか……)


 主の欠けるところのない美貌を、早くまた見たいのに。良質の玉胎晶精ターシュ・ラヒムを揃えて育てるには、いったい何年かかるだろう。


 ゼヒルギュルは力ある魔性イブリスではあるけれど、玉胎晶精ターシュ・ラヒムのように主の欠けた身体を補うことはできない。それがもどかしくてならなかった。小魔ペリふぜいに対抗心を抱くのはおかしなことだとは承知しているけれど、波立つ心を宥めるのは難しい。


「──庭が落ち着いたなら、お前に命じることがある」

「はい。何なりと……!」


 だから、物憂げな御声をいただいて、ゼヒルギュルは声を弾ませた。囁き声のような衣擦れの音が、主が身体を起こして彼女へと身を乗り出してくださったのを教える。


「《災厄フェラケト》が玉胎晶精ターシュ・ラヒムを連れ去った。屑石の──水晶の娘だ。あれは身を隠す術を知らぬから、お前ならば探し出せよう。──神殿タプナークの庇護を得る前に、連れ戻せ」

「御意。必ず、仰せの通りに……!」


 目の前に落ちた主の影に口づけしながら、ゼヒルギュルは勢い込んで頷いた。


      * * *


 玉座の間を辞したゼヒルギュルは、宮殿の中に幾つかある尖塔を目指した。

 魔性イブリスたるもの、人間のようにいちいち地面を歩いて移動などしない。屑石の玉胎晶精ターシュ・ラヒムの行方を探すなら、上空から見たほうが早い。それに、彼女の力は高所から使うとより効果を発揮するのだ。


 塔の上階を目指して石段を登りながら、ゼヒルギュルは主の命令を噛み締めていた。


(《災厄フェラケト》について、何も仰っていなかったけれど──)


 それはつまり、察しろ、ということだろうと彼女は理解した。二度も主に屈辱を舐めさせた存在について、あの御方にわざわざ語らせるなど、僕としてはあってはならないことだろう。


(言葉にされずとも分かります。そして、決して口に出したりはいたしません)


 主が沈黙する理由は何か。あえては言わない本当の望みは何か。察することもできないほど、ゼヒルギュルは愚かではない。


 《災厄フェラケト》の最初の襲撃の後、主の一番のお気に入りだった黒金剛石の玉胎晶精ターシュ・ラヒムが、欠片ひとつたりとも見当たらなかったのは不思議なことだ。が無事であったなら、闇の御方の御目は、少なくとも片方はすぐに復活していただろうに。


 もちろん、金剛石を宿せる玉胎晶精ターシュ・ラヒムは希少だから、《災厄フェラケト》に攫われたのかもしれない。でも、それなら闇の御方の宝物を盗み出したことを吹聴する者が現れたはず。


 そして、今回の襲撃だ。

 ひとりだけ連れ去られた玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、取るに足らない屑石の娘。青玉や紅玉、美しく強い主の魔力ギュチを湛えた貴石が数多いる中で、わざわざ盗み出す価値があるとは思えない。──同族のよしみで情がある、というのでもなければ。


 そこから導き出されるのは、冒涜的な結論だ。


 《災厄フェラケト》の正体は、あの黒金剛石の玉胎晶精ターシュ・ラヒムだ。


 主の美貌を損なっただけでは飽き足らず、二度までも深い傷を負わせた。

 せっかく育ったほかの貴石たちまで失われることになったし、屑石とはいえ同族を惑わせて主を裏切らせた。


(カランルクラル様の寵愛をあれほど受けておきながら……!)


 小魔ペリふぜいにそむかれた主の屈辱はいかばかりだろう。ゼヒルギュルたちに真実を告げないのも当然のこと、下賤からの憐みや労わりなど、あの御方にとっては恥の上塗りにしかならない。


 許せない、と思う。金剛石だろうと何だろうと、粉々にして宙に撒いてやりたい。でも──それをしてはならない。主の意を、正しく汲まなければならない。


(《災厄フェラケト》が何者か──私は知らないことになっている。でも、逃げた玉胎晶精ターシュ・ラヒムを見つけ出したなら、カランルクラル様にお返しするのは当然のこと……!)


 重要なのは、黒金剛石はいまだ健在だということ。屑石の娘と一緒にいると思われると言うこと。


 主のになり得る至高の宝玉を、一刻も早く届けて差し上げなければ。時期を違えて宮殿から去った玉胎晶精ターシュ・ラヒムがひとつところにいるなんて、奇妙な偶然だけれど──まあ、あり得ないことはないだろう。


(石さえ無事なら、手足は折ってもいでも良いでしょう。娘のほうは、目の前でやっても良い)


 残酷な想像に高揚すると、ふわ、と甘い香りが零れた。そして、真紅の花弁がゼヒルギュルの髪から舞い落ちる。──違う。彼女の髪が、先から花弁へと変じ、さらに寄り集まって燃えるような蝶のはねかたどっていく。


 花弁の翅を羽ばたかせて、ゼヒルギュルは塔の窓から軽やかに宙に躍り出た。

 遠目には巨大な真紅の蝶にも見えるだろうか。翅を形作るのが無数の花弁だと気付くのは、同じく空を飛ぶ鳥くらいだろう。まあ、その前に彼女の香りにあてられて地に墜ちるかもしれないが。


 ゼヒルギュルは、毒花の魔性イブリス。闇の御方の庭園の庭師であると同時に、彼女自身が美しい花。

 そして、色鮮やかな花弁と妙なる芳香だけでなく、毒も茨も備えている。


(街道を塞ぐ邪魔な人間をみんな始末したら──立っていられる小魔ペリどもはさぞ目立つでしょうね?)


 そして、逃げた玉胎晶精ターシュ・ラヒムの居場所を見つけ出したら、より強い毒で昏倒させれば良い。美しく強い主が、彼女を選んで命じてくださったのは当然の理由があるのだ。


 軽やかな笑い声と毒の香りを撒きながら、ひらひらと、ふわふわと。紅い花弁の蝶は、風に乗って空を翔けた。

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