第2話 饗宴《ジヤフェト》の夜は果てて
目を丸くしたチャクルの前に、宿の
塩漬けのオリーブ、野菜の
それ以外の料理の料理の圧が、チャクルの視覚と嗅覚を強烈に刺激する。
つまりは、香辛料を纏った肉の香ばしさ。滴る脂は空気にも漂って、息をするたびに喉の奥に絡みつくよう。
ひと口大に切って
羊、牛、鶏──こんなにたくさんの種類の肉料理が山盛りになっているのを見るのは初めてだった。
(美味しそう、だけど……!)
脂と香辛料のかぐわしい匂いに気圧されるように、チャクルは少し後ずさりした。強い
なのに──エルマシュは、無造作に
「ご主人様から
言い終えると、エルマシュはまたひと口、肉を
「で、でも!
「宮殿でも、
「それは……っ、何か、違うもの。えっと……ほかの命の
万物には
けれど、生きているもの、生きていたものは、そうでないものより強い力を持っている。
「石が濁る、か? そんなのは迷信だ。俺の石を見ただろう?」
エルマシュの褐色の指が、彼の胸もとを撫でる。
すべての光を呑み込むような漆黒の──いっぽうで、それでもどこまでも眩く輝く金剛石が、彼の石。あんなに綺麗な石を抱いているのに、無造作に肉を口にする姿は、チャクルにとっては本当に怖い。そして、もったいない。信じられない。
「だって、エルマシュは金剛石だし。……きっと、特別だから」
屑石が金剛石の真似をしてはいけない、と。俯くチャクルの鼻先を、また良い香りがくすぐる。彼女が躊躇う間にも、エルマシュは手も口も休めていない。衣を纏った
(お腹空いたら食べたいね……)
カランルクラル様の宮殿を逃れてから、エルマシュはどれくらい外の世界を
(エルマシュは、今までどうやって生きて来たんだろう……?)
みっともなく鳴りそうなお腹を抑えて、気を紛らわせるように考えていると──エルマシュが、チャクルのほうへ身を乗り出してきた。太陽みたいな金色の目が、間近に迫る。
「
「そう、なの……?」
確かに、カランルクラル様はそんなことを言っていた、かもしれない。
それに、チャクルにも心当たりがある。カランルクラル様の宮殿で、彼女だけがいつも空腹だった。
(私も……石に
麻の生地の下に隠した結晶を指でなぞる。見栄えのしない彼女の石を晒さないで良いのも、人間の衣装の良いところかもしれない。
「だが、だからこそあいつに逆らう力を持てた。綺麗な宝石に溜め込むだけじゃなく、自分の意志で力を振るえるように、なれた。お前も、同じだ。できそこないで、だけど、だからこそ特別な
でも、それだって別にチャクルの力ではないし、エルマシュと同じだなんて思えない。思ってはいけない、と思う。
「私は……
「うるせえな。良いから食っとけ」
ない、と。チャクルが言い切ることはできなかった。
「ぶ──っ」
面倒臭そうに眉を寄せたエルマシュが、
(肉……脂……!)
舌に感じる肉の味は、嗅覚で感じるよりもずっと強烈だった。
まだ熱い脂が口の中で躍って、目から火花が散りそう。口腔から鼻に抜ける香辛料の香りも、突き刺さるよう。
呼吸を確保するために懸命に咀嚼すると、噛むたびにひき肉が崩れて、刻んだ
「どうだ?」
目をぱちぱちとさせるチャクルに、エルマシュは悪戯っぽく問いかけた。答えは分かっていると、言いたげに。
「美味しい……」
考える間もなく、チャクルは期待通りであろう言葉を漏らしていた。
(肉、食べちゃった……)
いけないことをしてしまったかのような、背徳感はあるけれど。でも、否定なんてできるはずがない。
「パンに肉汁を吸わせるのも美味い。内臓は、まだ抵抗があるか?
「うん……全部食べる……」
エルマシュに勧められるまま、チャクルは夢中で食べ続けた。食べても笑われない──それどころか嬉しそうに見守ってもらえるということが、何よりのご馳走だった。
焼いた肉の歯ごたえも、柔らかい
不思議な食感の内臓にさえ手を出すチャクルに、エルマシは
「だいたいの生き物は、食って生きてるからな……。色んな命を少しずつもらって糧にしている。それに慣れれば、ご主人様に飼われるのが一番だとは、思わなくなるようになるかもしれない」
「うん……」
チャクルが食べている間に、エルマシュも同じくらい食べていたし、何ならまだまだ満腹にはほど遠いようだった。
(
でも、チャクルのほうは、甘味の
エルマシュのことが好きだ。とても綺麗で、眩しい存在だから。
希少な金剛石の同族だから、尊敬している。カランルクラル様の宮殿から助け出してくれたから、砕けたチャクルの石を繋ぎ止めてくれたから、感謝している。
それは、チャクル自身の気持ちだと思いたいけれど。でも、石を直す時に彼にたっぷりと
この気持ちが、強い存在の
(ものを食べて、エルマシュの
彼の口振りは、それを望んでいるかのようでもあった。
(迷惑、なの……?)
チャクルを見るエルマシュの眼差しは優しかった。でも、それは幼い仲間を見守るものでしかないような気もする。
エルマシュの想いを尋ねることができないまま呑み込んだ
* * *
晩餐を終えると、チャクルとエルマシュはそれぞれ別の寝台にもぐりこんだ。
宿に入っていった人間の数を思い起こすと、この広さの部屋をふたりだけで使うのは贅沢なのではないかと思う。ほかの部屋では、出身地や行き先を同じくする者同士でもっとぎゅうぎゅうになっていそうだ。
(うっかり石を見られたら危ないから、かな?)
(……お金って、どうやって手に入れるんだろう?)
量も種類もたっぷりの料理を頼んでいたことといい、エルマシュはお金というものをたくさん持っている気がする。そもそもそれがいったいどんな形をしているのかもチャクルには分かっていないから、どう尋ねたら良いかも分からないのだけれど。
「ね、これからどこに行くの……?」
だから、寝具に包まったチャクルが口にするのは、もっと別の、そしてこれはこれでとても大事なことだった。
暗闇と少しの距離を隔てたところから、エルマシュは短く答える。
「
「神殿……どの神様の?」
人間は、色々な神というものを信じるらしい。たぶん、かつて存在したとても強い
噂に聞く神というものは、チャクルたちにとってのカランルクラル様のようなものだと、何となく思うから。
(カランルクラル様から逃れたのに、神を──別の
チャクルの疑問を読んだように、エルマシュが首を振る気配がした。
「神がいるわけじゃない。弱い人間や
「ふうん……?」
「追われる者に安全な住処や
疲れと眠気でとろけそうな頭では、言われたことをうまく呑み込むことができなかった。何だか色々あるんだなあ、というだけで。
だって、チャクルは外のことを知らないから。そういうものなのか、驚くべきことなのかの区別もつかない。
「
「……そう」
ただ──エルマシュが尊敬を込めて語った名前は、どうやら女性を表すようだ、とは分かった。だから、胸にさざ波が立つ。
(
エルマシュが寝息を立て始めたのとは裏腹に、チャクルの目はすっかり冴えてしまった。
久しぶりの寝台は嬉しいはずなのに、明日もたくさん歩くのは分かっているのに。安らかな眠りは、もう遠い。色々なことを、考えてしまうから。
(
眠れない理由が、エルマシュがすぐそばにいるから、だけなら良かったのに。
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