第2話 饗宴《ジヤフェト》の夜は果てて

 目を丸くしたチャクルの前に、宿の女将おかみが次々と大皿を置いていく。


 塩漬けのオリーブ、野菜の酢漬けトゥルシュ、くり抜いた茄子に味付けした米を詰めて煮込んだ詰め物ドルマ。──これくらいなら、カランルクラル様の宮殿でも、口直しとして出されることがあったけれど。


 それ以外の料理の料理のが、チャクルの視覚と嗅覚を強烈に刺激する。


 つまりは、香辛料を纏った肉の香ばしさ。滴る脂は空気にも漂って、息をするたびに喉の奥に絡みつくよう。

 ひと口大に切ってシシュに刺して焼いたもの。ひき肉を丸めた団子キョフテ。豆に脂を吸わせた煮込み《ファスリエ》もあれば、ぶつ切りにした内臓を豪快に揚げ焼きしたものもある。


 羊、牛、鶏──こんなにたくさんの種類の肉料理が山盛りになっているのを見るのは初めてだった。


(美味しそう、だけど……!)


 脂と香辛料のかぐわしい匂いに気圧されるように、チャクルは少し後ずさりした。強い魔性イブリスは、食べ物に頼らなくても命を保てるもの。チャクル自身がみんなに呆れられたように、のは優雅じゃない。無作法なのだ。


 なのに──エルマシュは、無造作にシシュを取って肉塊にかぶりついている。唇を濡らす脂をぺろり、と舐める舌が赤くて、なぜかどきどきしてしまう。


「ご主人様から魔力ギュチをもらえなくなるんだから、自力でどうにかしなきゃならないのは当然だろう? でも、魔泉セビルは大方、強い魔性イブリスが抑えている。なら、後は食べ物で摂取するしかない」


 言い終えると、エルマシュはまたひと口、肉をかじった。白い歯が断ち切った繊維から、肉と香辛料の香りがひと際高く立ち上る。良い匂いではあるけれど──チャクルにとっては、同時に恐ろしい匂いでもある。


「で、でも! 玉胎晶精ターシュ・ラヒムがこんなに食べたら──肉とか、脂とかっ」

「宮殿でも、乳酪バターやクリーム《カイマク》はたっぷり食べてたろ? あれも脂だよな?」

「それは……っ、何か、違うもの。えっと……ほかの命の魔力ギュチが混ざると──」


 乳酪バターやクリーム《カイマク》なら、チャクルだって大好きだ。でも、肉の脂とは違う、はずだ。


 万物には魔力ギュチが宿る。土でも水でも草木でも。

 けれど、生きているもの、生きていたものは、そうでないものより強い力を持っている。


 玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、自らの肉体に注がれた魔力ギュチを石に貯め込んでしまう。カランルクラル様の純黒の魔力ギュチを湛えるべき石に、牛だの羊だの鶏だののそれが混ざったら──


「石が濁る、か? そんなのは迷信だ。俺の石を見ただろう?」


 エルマシュの褐色の指が、彼の胸もとを撫でる。

 すべての光を呑み込むような漆黒の──いっぽうで、それでもどこまでも眩く輝く金剛石が、彼の石。あんなに綺麗な石を抱いているのに、無造作に肉を口にする姿は、チャクルにとっては本当に怖い。そして、もったいない。信じられない。


「だって、エルマシュは金剛石だし。……きっと、だから」


 屑石が金剛石の真似をしてはいけない、と。俯くチャクルの鼻先を、また良い香りがくすぐる。彼女が躊躇う間にも、エルマシュは手も口も休めていない。衣を纏った揚げ物タヴァを摘まんだり、肉団子キョフテを平パンに挟んだり。


(お腹空いたら食べたいね……)


 玉胎晶精ターシュ・ラヒムらしからぬ食い意地で「みんな」に嗤われていたチャクルには、空腹の辛さは、分かる。

 カランルクラル様の宮殿を逃れてから、エルマシュはどれくらい外の世界を彷徨さまよっていたのだろう。肉を食べて魔力ギュチを得ることに、最初は抵抗もあったのだろうか。


(エルマシュは、今までどうやって生きて来たんだろう……?)


 みっともなく鳴りそうなお腹を抑えて、気を紛らわせるように考えていると──エルマシュが、チャクルのほうへ身を乗り出してきた。太陽みたいな金色の目が、間近に迫る。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムとしては、俺はできそこないだぞ? 根暗野郎カランルクラル魔力ギュチをたっぷり注がれても、石の成長は遅かった」

「そう、なの……?」


 確かに、カランルクラル様はそんなことを言っていた、かもしれない。

 それに、チャクルにも心当たりがある。カランルクラル様の宮殿で、彼女だけがいつも空腹だった。


(私も……石に魔力ギュチを溜めにくい体質だったんだ……?)


 麻の生地の下に隠した結晶を指でなぞる。見栄えのしない彼女の石を晒さないで良いのも、人間の衣装の良いところかもしれない。


 ひび割れを黒い金剛石で埋めたことで、彼女の水晶は漆黒の幾何学文様アラベスクを秘めたようになった。無色透明のただの水晶よりは綺麗になったけれど。エルマシュとの繋がりを示すようで愛しく誇らしく思いはするけれど。


「だが、だからこそあいつに逆らうを持てた。綺麗な宝石に溜め込むだけじゃなく、自分の意志でを振るえるように、なれた。お前も、同じだ。できそこないで、だけど、だからこそ玉胎晶精ターシュ・ラヒム──」


 でも、それだって別にチャクルの力ではないし、エルマシュと同じだなんて思えない。思ってはいけない、と思う。


「私は……屑石チャクルだもん。ただの水晶で。そんな特別なんかじゃ──」

「うるせえな。良いから食っとけ」


 ない、と。チャクルが言い切ることはできなかった。


「ぶ──っ」


 面倒臭そうに眉を寄せたエルマシュが、肉団子キョフテを彼女の口に押し込んだのだ。


(肉……脂……!)


 舌に感じる肉の味は、嗅覚で感じるよりもずっと強烈だった。

 まだ熱い脂が口の中で躍って、目から火花が散りそう。口腔から鼻に抜ける香辛料の香りも、突き刺さるよう。

 呼吸を確保するために懸命に咀嚼すると、噛むたびにひき肉が崩れて、刻んだ玉葱ソガンの甘味が脂と溶け合って──呑み込んでもなお、肉の重さと香辛料の存在感がお腹の中で暴れている。


「どうだ?」


 目をぱちぱちとさせるチャクルに、エルマシュは悪戯っぽく問いかけた。答えは分かっていると、言いたげに。


「美味しい……」


 考える間もなく、チャクルは期待通りであろう言葉を漏らしていた。


(肉、食べちゃった……)


 いけないことをしてしまったかのような、背徳感はあるけれど。でも、否定なんてできるはずがない。


「パンに肉汁を吸わせるのも美味い。内臓は、まだ抵抗があるか? 羊足パチャのスープならいけるか? 脂が完全に溶けてとろっとしてるぞ」

「うん……全部食べる……」


 エルマシュに勧められるまま、チャクルは夢中で食べ続けた。食べても笑われない──それどころか嬉しそうに見守ってもらえるということが、何よりのご馳走だった。

 焼いた肉の歯ごたえも、柔らかい煮込みファスリエも、濃厚なスープも。みんな美味しい。

 不思議な食感の内臓にさえ手を出すチャクルに、エルマシはラクの杯を傾けながら呟いた。


「だいたいの生き物は、食って生きてるからな……。色んな命を少しずつもらって糧にしている。それに慣れれば、ご主人様に飼われるのが一番だとは、思わなくなるようになるかもしれない」

「うん……」


 チャクルが食べている間に、エルマシュも同じくらい食べていたし、何ならまだまだ満腹にはほど遠いようだった。玉胎晶精ターシュ・ラヒムの変わり種は、とても大食漢なのかもしれない。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、魔力ギュチをくれる相手に懐く、って……)


 でも、チャクルのほうは、甘味のカヴンに伸ばそうとしていた手を止めてしまった。


 エルマシュのことが好きだ。とても綺麗で、眩しい存在だから。

 希少な金剛石の同族だから、尊敬している。カランルクラル様の宮殿から助け出してくれたから、砕けたチャクルの石を繋ぎ止めてくれたから、感謝している。


 それは、チャクル自身の気持ちだと思いたいけれど。でも、石を直す時に彼にたっぷりと魔力ギュチを注いでもらったのも、事実。

 この気持ちが、強い存在の魔力ギュチに酔ったからこその、彼が言うところのだとしたら。


(ものを食べて、エルマシュの魔力ギュチが薄まったら──この気持ちも、なくなってしまう?)


 彼の口振りは、それを望んでいるかのようでもあった。


(迷惑、なの……?)


 チャクルを見るエルマシュの眼差しは優しかった。でも、それは幼い仲間を見守るものでしかないような気もする。

 エルマシュの想いを尋ねることができないまま呑み込んだカヴンは、よく熟しているはずなのに甘いとは感じられなかった。


      * * *


 晩餐を終えると、チャクルとエルマシュはそれぞれ別の寝台にもぐりこんだ。

 宿に入っていった人間の数を思い起こすと、この広さの部屋をふたりだけで使うのは贅沢なのではないかと思う。ほかの部屋では、出身地や行き先を同じくする者同士でもっとぎゅうぎゅうになっていそうだ。


(うっかり石を見られたら危ないから、かな?)


 玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、うっかりすると人間にも攫われてしまうくらいに弱い小魔ペリなのだ。チャクルの水晶はともかく、エルマシュの黒金剛石を目にしたら、悪い心を起こす者もいるかもしれない。


(……お金って、どうやって手に入れるんだろう?)


 量も種類もたっぷりの料理を頼んでいたことといい、エルマシュはお金というものをたくさん持っている気がする。そもそもがいったいどんな形をしているのかもチャクルには分かっていないから、どう尋ねたら良いかも分からないのだけれど。


「ね、これからどこに行くの……?」


 だから、寝具に包まったチャクルが口にするのは、もっと別の、そしてこれはこれでとても大事なことだった。


 暗闇と少しの距離を隔てたところから、エルマシュは短く答える。


神殿タプナークだ」

「神殿……どの神様の?」


 人間は、色々な神というものを信じるらしい。たぶん、かつて存在したとても強い魔神シェイタンをそう呼んでいるのではないかと思うけれど。

 噂に聞く神というものは、チャクルたちにとってのカランルクラル様のようなものだと、何となく思うから。


(カランルクラル様から逃れたのに、神を──別の魔神シェイタンを頼るの……?)


 チャクルの疑問を読んだように、エルマシュが首を振る気配がした。


「神がいるわけじゃない。弱い人間や小魔ペリの拠り所だ。そうだな……力なくとも寄り添えば生きていけるといいう、その在り方を信仰している、とも言える」

「ふうん……?」

「追われる者に安全な住処や生業なりわい斡旋あっせんすることもある。お前が安心して暮らせる場所もあるだろう」


 疲れと眠気でとろけそうな頭では、言われたことをうまく呑み込むことができなかった。何だか色々あるんだなあ、というだけで。


 だって、チャクルはのことを知らないから。そういうものなのか、驚くべきことなのかの区別もつかない。


聖白母ベヤザンネに会うんだ。のお姿を見れば、お前の考えも変わるかもしれない」

「……そう」


 ただ──エルマシュが尊敬を込めて語った名前は、どうやら女性を表すようだ、とは分かった。だから、胸にさざ波が立つ。


聖白母ベヤザンネ……お姿を見れば、って──綺麗な人なの? それとも、魔性イブリス?)


 エルマシュが寝息を立て始めたのとは裏腹に、チャクルの目はすっかり冴えてしまった。

 久しぶりの寝台は嬉しいはずなのに、明日もたくさん歩くのは分かっているのに。安らかな眠りは、もう遠い。色々なことを、考えてしまうから。


神殿タプナークに着いたら、置いて行かれる? もう一緒にいられないのかな? 安心して、って──私だけみたいな良い方だった……)


 眠れない理由が、エルマシュがすぐそばにいるから、だけなら良かったのに。

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