一章 神殿への道
第1話 街道《ヨル》は新たな世界へ続く
チャクルたちは、数日かけて
逃亡中の身の上をもっと自覚しろ、というのは、もっともなことなのだけれど。でも、見るものすべてが初めてなのに、大人しくしていろなんて無理な話だった。
窓枠に切り取られることなく、頭上の一面に広がる星空。
太陽が上るとともに、変わっていく空の色、開いていく花、さえずり始める鳥。
足もとを滑らせる苔や落ち葉だって、何もかも整えられた宮殿にはないものだったから新鮮だった。
鳥、獣。虫や蛇。魔性のものや異形のもの。
綺麗なもの、醜いもの。毒があるもの、恐ろしいもの。
チャクルひとりだったら、きっと心細くて一歩も動けなかっただろうけど、エルマシュが手を引いてくれるから楽しかった。
手足に細かな傷を負うことさえ新しい経験だった。
そしてついにそろそろ森を抜ける、というところでエルマシュはチャクルに告げた。
「近くに泉がある。身体を洗おう。人間の服も用意してある」
森の中を進むうちに、絹の
エルマシュが背負う荷物から出して
でも、素直に飛びつくには大問題があった。
「え、一緒に!?」
「ひとりずつだからな? 勘違いするなよ!?」
顔を赤らめたチャクルを一喝するエルマシュの大声が、木々の枝を揺らして葉を落としたのだった。
* * *
小さな魚がつんつんと
(生き返る……!)
外の世界は新鮮な驚きに満ちていたけれど、水を思うように使えないのだけは難点だった。ほつれた髪も
エルマシュは、チャクルよりもよほど手早く水浴びを終えて、今は見張りに専念してくれている。泉からは背を向けてくれているはずだけれど──壁も
「ねえ、そういえば
雲ひとつない青空を見上げても、眩い太陽を翳らせる巨大な黒い翼は見えない。今に限らず、森の中を進んでいる間も、ずっと。
手中から逃れた
チャクルの疑問に答えるエルマシュの声は、淡々としたものだった。
「根暗野郎は今、療養中だ。
「根暗……」
「事実だろ?」
少し前まではこよなく慕った御方について、とてつもなく失礼なことを言われるのは、まだ慣れない。
チャクルが信じていた世界は、たぶん本当は見えている通りではなかった。受け入れないと分かっているのに、気持ちがまだ追いつかないのだ。
(カランルクラル様、大丈夫かな……)
みんなの無残な姿を見て、チャクル自身の意志であの御方に逆らってなお、そんなことを思ってしまう。危険を冒して助け出してくれたエルマシュに対して、とても失礼なことだ。
「うーん……分からないけど」
だから、胸に走ったちくりという痛みは無視して、チャクルは曖昧に言葉を濁した。何となくぱしゃんと水面を弾いて、揺れる波紋を眺めながら。
「じゃあ、このまま逃げ切れそう、なの?」
「ま、ほかにも手は打ってあるしな。今のうちにできるだけ距離を稼いでおきたいところだな。ほかの
力ある
(
チャクルには信じられないし、カランルクラル様が人間を恐れるはずはない、とも思う。それでも、
チャクルの沈黙を納得と捉えたのだろう、エルマシュがごそごそと身動ぎする気配がした。
「着るもの、ここに置いておくぞ。造りはそんなに変わらないはずだ。お姫様の肌には痛いかもしれないが、我慢してくれ」
「分かった。ありがとう」
宮殿から逃がした
(うん、快適!)
そもそも、屑石の身には、絹の衣裳よりもこれくらいの質素なものが似合っているかも。汚れを洗い落とした爽快さも相まって、チャクルは新しい装いに満足した。
「似合ってるな」
「でしょう!」
それに、エルマシュだって着替えた彼女を見て頷いてくれた。気を良くしてくるくる回るチャクルに、彼は問題を出す。
「役どころは、覚えているか?」
「私とエルマシュは、羊飼いの兄妹。山から下りて、毛糸と
「よし」
すらすらと答えたチャクルは、合格をもらえたようだった。
笑って頷いたエルマシュは知らないだろう。
婚礼衣裳、という単語がチャクルをどれだけときめかせているか。いっぽうで、兄妹、という役どころにどれだけ落胆しているか。
(勝手なのは、分かっているけど、ね……)
* * *
人間にはあり得ない、輝く色の髪は
「地面が平らだと歩きやすいね」
「だろう。……あまりきょろきょろするなよ」
「はぁい、兄さん」
演技を忘れていませんよ、の証明のため、取り決め通りの呼び方でエルマシュの注意に応じながら。それでもチャクルは、周囲の人間たちの格好や持ち物や、馬車や荷車なんかの乗り物から目を離せない。
(人間は弱いから寄り集まって生きるって──でも、すごい活気……)
実際、この場に
(喧嘩をしてる人たちもいる、けど……)
これもまた宮殿ではあり得なかった怒鳴り声のやり取りには、首を竦めるけれど──人間の営みというのは何だか楽しそうな気がする。
と、牛に荷車を曳かせた男が、チャクルに向けて何かを放った。
「綺麗な嬢ちゃん、ひとつやるよ」
「あ……ありがとう!」
チャクルの手の中に納まったのは、真っ赤な
これから市で売る予定であろう商品を、くれたのだろうか。ものの売り買いには必要だというお金というものを、チャクルは持っていないのだけど。それに、何より──
(私が……綺麗?)
あの人間は、何か勘違いをしていたのではないだろうか。それとも、変わった好みだったとか?
聞き慣れない褒め言葉に首を傾げる間に、
と、足を止めてしまったチャクルの背を、エルマシュの手が軽く叩いた。
「
「……うん!」
おやつもご馳走も素晴らしい響きだから、チャクルは目を輝かせて頷いた。
森の中を進む間は、エルマシュが携行していた食べ物だけで過ごしていた。贅沢を言えないのは分かっているけど、固くて甘くないものばかりのは辛かった。
(あれ、でも、人間の世界にご馳走ってあるのかな……?)
でも、エルマシュに尋ねようにも口が塞がっていたから、宿に着くまでのお楽しみにしておくことにした。宿、というからには人間の街に入るのだろうし。そこでもまた、新鮮な景色が広がっているのだろうと思ったから。
* * *
木材と石材を組み合わせて作った人間の家々は、頼りない気もしたけれど、中に入ってみるとけっこう居心地が良かった。星空を見上げて、落ち葉を寝具にしての野宿は、その時は楽しくても身体には疲れが溜まっていたのかもしれない。
とにかく──敷物を敷いた床に足を投げ出して座ったエルマシュは、杯を傾けながら切り出した。
「──
「う、うん……?」
エルマシュが飲んでいるのは、ラクという強い酒だ。ハーブの香りに混ざる強い酒精に、見ているだけでも酔ってしまいそう。
いっぽう、チャクルが握りしめる杯には、温めた
「それが、貴石の価値に注目されて強い
「そうなんだ……?」
でも、エルマシュは何を言い出そうとしているのだろう。酔っているにしては声はしっかりしているし、眼差しも真剣そのもので。
(大事な話、なの……?)
チャクルが思わず背筋を正したところで、エルマシュも軽く身を乗り出した。夜の室内、蝋燭のわずかな灯りのもとでも金剛石の目は眩しくて、射抜かれるような気持ちになってしまう。
「だから、主の庇護から離れた
「そ、それって……?」
緊張に、ごくりと唾を呑み込んだ時──部屋の扉が開いた。同時に、とても美味しそうな香りが漂って来る。別の意味で口の中に湧いたチャクルに、エルマシュは重々しく告げた。
「腹が減るんだ」
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