一章 神殿への道

第1話 街道《ヨル》は新たな世界へ続く

 チャクルたちは、数日かけて闇の御方カランルクラル様の宮殿を守る深い森を抜けた。変わった形のキノコや、ウサギの親子を見つけるたびに歓声を上げては、エルマシュに怒られる道中だった。

 逃亡中の身の上をもっと自覚しろ、というのは、もっともなことなのだけれど。でも、見るものすべてが初めてなのに、大人しくしていろなんて無理な話だった。


 窓枠に切り取られることなく、頭上の一面に広がる星空。

 太陽が上るとともに、変わっていく空の色、開いていく花、さえずり始める鳥。

 足もとを滑らせる苔や落ち葉だって、何もかも整えられた宮殿にはないものだったから新鮮だった。


 鳥、獣。虫や蛇。魔性のものや異形のもの。

 綺麗なもの、醜いもの。毒があるもの、恐ろしいもの。


 チャクルひとりだったら、きっと心細くて一歩も動けなかっただろうけど、エルマシュが手を引いてくれるから楽しかった。

 手足に細かな傷を負うことさえ新しい経験だった。魔力ギュチを操って傷を塞ぎ、疲れた体を癒す技もエルマシュが教えてくれた。で生きる小魔ペリには必須の技だと言われれば気合が入った。


 そしてついにそろそろ森を抜ける、というところでエルマシュはチャクルに告げた。


「近くに泉がある。身体を洗おう。人間の服も用意してある」


 森の中を進むうちに、絹の長衣アンタリはぼろぼろになっていた。そもそも、強い魔力ギュチの争いの余波をだいぶ喰らってもいたし。

 エルマシュが背負う荷物から出してマントペレリンを被ってしのいでいたから、清潔な服を着られるならとても嬉しい。確かに水のせせらぎも近くから聞こえてくる。


 でも、素直に飛びつくには大問題があった。


「え、一緒に!?」

「ひとりずつだからな? 勘違いするなよ!?」


 顔を赤らめたチャクルを一喝するエルマシュの大声が、木々の枝を揺らして葉を落としたのだった。


      * * *


 小さな魚がつんつんとつついてくるくすぐったさに身を捩りながら、チャクルは久しぶりの水浴びを満喫した。


(生き返る……!)


 の世界は新鮮な驚きに満ちていたけれど、水を思うように使えないのだけは難点だった。ほつれた髪も土埃つちほこりまみれた肌も、清らかな水で洗い流されて張りと輝きを取り戻し始めている。


 エルマシュは、チャクルよりもよほど手早く水浴びを終えて、今は見張りに専念してくれている。泉からは背を向けてくれているはずだけれど──壁も衝立ついたてもない開けたところで裸体をさらしている気恥ずかしさにどきどきしながら、チャクルはふと、声を上げた。


「ねえ、そういえば使い魔ハベルジを見かけなかったね」


 使い魔ハベルジ──カランルクラル様が偵察のために放つ、魔力ギュチで造った大鴉オオガラスのことだ。

 雲ひとつない青空を見上げても、眩い太陽を翳らせる巨大な黒い翼は見えない。今に限らず、森の中を進んでいる間も、ずっと。

 手中から逃れた玉胎晶精ターシュ・ラヒム──特に、この上なく貴重な黒い金剛石エルマシュのことを、カランルクラル様が見逃すはずはないと思っていたのだけれど。


 チャクルの疑問に答えるエルマシュの声は、淡々としたものだった。


「根暗野郎は今、療養中だ。玉胎晶精ターシュ・ラヒムに傷を負わされたなんて口が裂けても言えないし、側近どもにも悟られるわけにはいかない。──だから、ひとりで傷を癒してるんだろうし、使い魔ハベルジを飛ばす余裕もないだろう」

「根暗……」

「事実だろ?」


 少し前まではこよなく慕った御方について、とてつもなく失礼なことを言われるのは、まだ慣れない。

 チャクルが信じていた世界は、たぶん本当は見えている通りではなかった。受け入れないと分かっているのに、気持ちがまだ追いつかないのだ。


(カランルクラル様、大丈夫かな……)


 みんなの無残な姿を見て、チャクル自身の意志であの御方に逆らってなお、そんなことを思ってしまう。危険を冒して助け出してくれたエルマシュに対して、とても失礼なことだ。


「うーん……分からないけど」


 だから、胸に走ったちくりという痛みは無視して、チャクルは曖昧に言葉を濁した。何となくぱしゃんと水面を弾いて、揺れる波紋を眺めながら。


「じゃあ、このまま逃げ切れそう、なの?」

「ま、ほかにもしな。今のうちにできるだけ距離を稼いでおきたいところだな。ほかの魔神シェイタンや人間の領域に入れば、カランルクラルも手を出しづらい」


 力ある魔神シェイタンたちは、それぞれに居城を構え、その周辺の魔性イブリスや人間を従えている。必要以上に世界を乱さないため、穏やかに睨み合う彼らの領地の隙間を埋めるように、人間の王たちもじわじわと勢力を伸ばしていると聞く。


魔神シェイタンを討ち取った人間もいるって、本当かな……?)


 チャクルには信じられないし、カランルクラル様が人間を恐れるはずはない、とも思う。それでも、魔神シェイタンの一角たる御方はそう軽率に秩序を乱さないだろう、とは言えるかもしれない。


 チャクルの沈黙を納得と捉えたのだろう、エルマシュがごそごそと身動ぎする気配がした。


「着るもの、ここに置いておくぞ。造りはそんなに変わらないはずだ。の肌には痛いかもしれないが、我慢してくれ」

「分かった。ありがとう」


 宮殿から逃がした玉胎晶精ターシュ・ラヒムを連れての逃避行を想定していたのか、エルマシュはとても準備が良かった。


 つた模様の素朴な刺繍を施した長衣アンタリの素材は、生成りの麻。少し丈が短い代わり、その下に、ゆったりとしたズボンシャルヴァル穿くのが宮殿での装いとは違うところだ。でも、屋外で長く動くなら、このほうが動きやすいだろう。


(うん、快適!)


 そもそも、屑石の身には、絹の衣裳よりもこれくらいの質素なものが似合っているかも。汚れを洗い落とした爽快さも相まって、チャクルは新しい装いに満足した。


「似合ってるな」

「でしょう!」


 それに、エルマシュだって着替えた彼女を見て頷いてくれた。気を良くしてくるくる回るチャクルに、彼はを出す。


は、覚えているか?」

「私とエルマシュは、羊飼いの兄妹。山から下りて、毛糸と乾酪チーズを売ったところ。これから、天蓋市場カパル・チャルシュに行って、そのお金で婚礼衣裳を縫うための絹を買うの」

「よし」


 すらすらと答えたチャクルは、合格をもらえたようだった。


 笑って頷いたエルマシュは知らないだろう。

 婚礼衣裳、という単語がチャクルをどれだけときめかせているか。いっぽうで、兄妹、という役どころにどれだけ落胆しているか。


(勝手なのは、分かっているけど、ね……)


 玉胎晶精ターシュ・ラヒムの同族というだけで助けてくれるエルマシュは、とても優しい。きっと、それ以上を望んではいけないのだ。


      * * *


 人間にはあり得ない、輝く色の髪はスカーフチェヴレに隠して。チャクルたちは人間の隊商や旅人が行きかう街道にそっと紛れ込んだ。


「地面が平らだと歩きやすいね」

「だろう。……あまりきょろきょろするなよ」

「はぁい、


 演技を忘れていませんよ、の証明のため、取り決め通りの呼び方でエルマシュの注意に応じながら。それでもチャクルは、周囲の人間たちの格好や持ち物や、馬車や荷車なんかの乗り物から目を離せない。


(人間は弱いから寄り集まって生きるって──でも、すごい活気……)


 魔性イブリスに怯えて暮らす哀れな生き物だと、カランルクラル様の側近たちは蔑むように語っていたものだけれど。

 実際、この場に魔性イブリスや魔獣が現れたらひとたまりもないだろうに。闇の御方の宮殿の住人たちと比べれば、纏う服も装飾品も質素なものなのに。


(喧嘩をしてる人たちもいる、けど……)


 これもまた宮殿ではあり得なかった怒鳴り声のやり取りには、首を竦めるけれど──人間の営みというのは何だか楽しそうな気がする。


 と、牛に荷車を曳かせた男が、チャクルに向けて何かを放った。


「綺麗な嬢ちゃん、ひとつやるよ」

「あ……ありがとう!」


 チャクルの手の中に納まったのは、真っ赤なザクロエナールだった。

 これから市で売る予定であろう商品を、くれたのだろうか。ものの売り買いには必要だというお金というものを、チャクルは持っていないのだけど。それに、何より──


(私が……綺麗?)


 あの人間は、何か勘違いをしていたのではないだろうか。それとも、変わった好みだったとか?


 聞き慣れない褒め言葉に首を傾げる間に、ザクロエナールを積んだ荷車は先に進んでいく。

 と、足を止めてしまったチャクルの背を、エルマシュの手が軽く叩いた。


乾酪チーズ堅実ナッツばかりじゃ飽きただろう。代わりにもらっとけ。宿に着いたらを取ってやるから、もう少しの辛抱だ」

「……うん!」


 おやつもご馳走も素晴らしい響きだから、チャクルは目を輝かせて頷いた。


 森の中を進む間は、エルマシュが携行していた食べ物だけで過ごしていた。贅沢を言えないのは分かっているけど、固くて甘くないものばかりのは辛かった。


(あれ、でも、人間の世界にご馳走ってあるのかな……?)


 ザクロエナールを一粒ずつ摘まんでは、甘酸っぱい果汁を楽しみながら。チャクルはまた不思議に思った。

 でも、エルマシュに尋ねようにも口が塞がっていたから、宿に着くまでのお楽しみにしておくことにした。宿、というからには人間の街に入るのだろうし。そこでもまた、新鮮な景色が広がっているのだろうと思ったから。


      * * *


 木材と石材を組み合わせて作った人間の家々は、頼りない気もしたけれど、中に入ってみるとけっこう居心地が良かった。星空を見上げて、落ち葉を寝具にしての野宿は、その時は楽しくても身体には疲れが溜まっていたのかもしれない。


 とにかく──敷物を敷いた床に足を投げ出して座ったエルマシュは、杯を傾けながら切り出した。


「──玉胎晶精ターシュ・ラヒムは、魔力ギュチを貯め込む性質がある種族なんだろう、そもそもは。食べ物にありつけなくても、になるように。その貯蔵庫として、貴石を核にすると効率的だ、っていうのが最初だったんだろう、たぶん」

「う、うん……?」


 エルマシュが飲んでいるのは、ラクという強い酒だ。ハーブの香りに混ざる強い酒精に、見ているだけでも酔ってしまいそう。

 いっぽう、チャクルが握りしめる杯には、温めた発酵黍ボザが入っている。ほんのり甘く、散らした炒りひよこ豆粉が香ばしい。ごく弱い酒精が強張った筋肉をほぐしてくれるかのようで──その味わいは、良いのだけれど。


「それが、貴石の価値に注目されて強い魔性イブリスに囲い込まれるようになった。まあ、玉胎晶精ターシュ・ラヒムにも利点がある取引だったわけだ。強者に庇護されれば安全だからな」

「そうなんだ……?」


 でも、エルマシュは何を言い出そうとしているのだろう。酔っているにしては声はしっかりしているし、眼差しも真剣そのもので。


(大事な話、なの……?)


 チャクルが思わず背筋を正したところで、エルマシュも軽く身を乗り出した。夜の室内、蝋燭のわずかな灯りのもとでも金剛石の目は眩しくて、射抜かれるような気持ちになってしまう。


「だから、主の庇護から離れた玉胎晶精ターシュ・ラヒムには重大な問題が起きる」

「そ、それって……?」


 緊張に、ごくりと唾を呑み込んだ時──部屋の扉が開いた。同時に、香りが漂って来る。別の意味で口の中に湧いたチャクルに、エルマシュは重々しく告げた。


「腹が減るんだ」

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