第2話 闇の王《カランルクラル》は貴石を愛でる

 思った通り、玉胎晶精ターシュ・ラヒムが寛ぐための広間にはまだ誰もいなかった。チャクル以外の「みんな」は、夕べも夜更かししておしゃべりしていたらしい。


 それでも、朝早くても、召使の小魔ペリは彼女たちのためにお菓子を用意してくれている。

 今日のは、蜜を湛えた蜂の巣を山と積んだ大皿だった。黄金の蜂蜜アセルは豪奢な噴水のように滴って、皿に盛られたケーキやパイに染み込んでいる。


(しっかり食べないと一日が始まらないよね!)


 そんな、人間のようなことを考えながら、チャクルは取り分け用の小皿にケーキをまずはふた切れ乗せた。付け合わせに、濃厚なクリームカイマクや果物の甘露煮ホシャプをよそうのも忘れない。


 弾む足取りで、クッションを積んだ長榻ながいすに腰を落ち着ける。

 滴る蜂蜜が、長衣アンタリに垂れないよう、素早く大きく口を開けて魅惑的な生地を頬張ると──


(うん、甘い! 美味しい!)


 口の中に広がる甘味の複雑な調和を、チャクルはうっとりと目を閉じて堪能した。

 粗挽あらびきの粉を使った生地そのものはざっくりとして、だからこそ蜜をよく吸い込んでいる。練り込んだ松の実やナッツは香ばしく、上に散らしたケシの実はぷちぷちとした食感が楽しい。

 蜂蜜だけでももちろん十分に美味しいけれど、クリームカイマクの重さも楽しみたいし、甘露煮ホシャプで甘さを足すのも良い。


(次はどうやって食べようかな……!?)


 チャクルはわくわくと指を皿の上でさ迷わせた。──けれど、決断する前に呆れたような溜息が降って来る。


「チャクル、食べてるの? 朝から、そんなに?」


 冷たい目でチャクルを見下ろすのは、玉胎晶精ターシュ・ラヒムの同胞のイルディスだ。金糸の刺繍が彩る、濃紺の長衣アンタリの胸もとに輝くのは、深い色の青玉。


「だ、だって。お腹が空いたんだもの」


 同族の序列でも上位に位置する存在からのお小言に、チャクルは慌ててケーキが乗った皿を隠そう。

 でも、無駄だった。チャクルがかけた長榻ながいすは、すでに同族たちに囲まれていた。


玉胎晶精ターシュ・ラヒムががっつくなんてみっともない」

「そうだよ。まるで、カランルクラル様の魔力ギュチが足りていないみたいじゃない?」


 紅玉のクルムズ、翡翠のイェシュル──宿した貴石と同じく美しい仲間たちは、纏う衣装もその貴石の煌めきに相応しい色と豪奢なものだ。男女の別を問わず、とても綺麗。存在自体が放つような輝きに、目が痛くなってしまいそう。


「ご、ごめん……」


 みんなの言う通り。

 玉胎晶精ターシュ・ラヒムは空腹を感じることがあまりない、らしい。だからこそ広間に用意されているのはいつも甘味ばかりだし、みんなも摘まむていどで満足しているらしい。


 宮殿を構える強い魔神シェイタン──カランルクラル様に養っていただいておきながら、いつも食い意地が張っているのは確かに変、なのかもしれない。


(本当に……? みんな、我慢してるんじゃない……?)


 幸か不幸か。チャクルは長いこと悩んだり、反論を考えたりする必要はなかった。


「ね、チャクルなんか放っておこ。カランルクラル様よ」


 誰かのひと声で、広間に集まっていた玉胎晶精ターシュ・ラヒムたちは一斉に跪いた。さやさやと鳴る衣擦れの音に、チャクルも慌てて倣う。ふた切れ目のケーキを堪能するのは、また後で、だ。


 ぴんと張り詰めた空気に、静かな足音が響く。

 玉胎晶精ターシュ・ラヒムたちのそれよりは重たげな衣擦れの音は、床に長く裾を引く上衣カフタンが奏でるもの。細かな宝石と金糸銀糸で彩られているけれど、見る者に残す印象は何者も寄せ付けない漆黒、が何より強い。


 だって、広間にお姿を見せてくださったのは、闇の王と呼ばれる魔神シェイタン、カランルクラル様なのだから。その御方が纏う魔力ギュチも当然のように闇の色、だからただそこにいるだけでも辺りがその色に染まるように感じられるのだ。


(カランルクラル様が、お傍に……!)


 精緻なモザイク模様が描かれた床を見つめるチャクルの視界を、漆黒の上衣カフタンが過ぎる。一瞬だけ夜の闇に包まれたようで少し怖く息苦しく、けれど幸せだと思う。白昼に夜をもたらすほどの力がある方が、チャクルの主人なのだ。


 衣擦れの響きが少し変わって、カランルクラル様が長榻ながいすに腰を下ろしたのを伝える。微かな空気の乱れで、手招きされたのが、分かる。


「私の愛しい宝石たち。こちらへおいで。お前たちの石がどれだけ育っているかを見せておくれ」


 涼やかな声に誘われて、玉胎晶精ターシュ・ラヒムたちは次々に仮の玉座にはべった。

 最前列に並ぶのは、もちろん希少な貴石を抱えた子たちだ。


「ますます青が深くなったね、イルディス。クルムズの石は炎のよう──イェシュル、なんと澄んだ翠だろう」


 特に名を呼ばれる名誉を賜った子たちは、くすぐったそうにくすくすと笑っている。

 魔力ギュチを注がれ方も、頬や首筋に口づけたり、抱き上げて唇に触れたりと、濃密な触れ方でとても羨ましい。


(ああ、いつ見てもお美しい……)


 屑石の分を弁えて、後ろのほうで彼女の番が来るのを待ちながら、チャクルは主の姿にうっとりと見蕩れる。


 闇の御方の御名に相応しく、背に流れる御髪おぐしは夜を絹糸に紡いだような艶やかな黒。いっぽうで肌は白く透き通って、太陽を浴びたことがないかのよう。貴石たちの成長ぶりに綻ぶ唇、細い顎の線、しなやかな首筋──何もかもが、美しい。


(お顔がすべて見られたら良いのに)


 ただ──カランルクラル様の御顔の上半分は闇に包まれている。目隠しや仮面をしているということではなく、文字通り、そこだけ夜の帳が降りたように黒く暗く、何も見えないのだ。純黒の魔力ギュチを操る御方がその御力を一点にこごらせるとそうなる、らしい。


 カランルクラル様は、以前、敵対する魔神シェイタンに両の御目を損なわれたのだ。この御方が後れを取るなんて、どれほど強大な相手だったのだろう。それとも、よほど卑怯な騙し討ちでもされたのだろうか。カランルクラル様の宮殿では、その憎い魔神シェイタンのことを、嫌悪と怖れを込めて大敵デュスマンとか災厄フェラケトとか呼んでいる。


 人間とは違うから、たとえ眼球が失われてもカランルクラル様が不自由することはない。とはいえ、誇り高く美しい御方が傷を晒すことを良しとするはずがない。そして、魔力ギュチによって負わされた傷は癒えにくい。損なわれてしまった美貌を、かつてと同じく輝かせるには──例えば、ご自身の魔力ギュチをたっぷりと注いだ魔石を、義眼として嵌め込めば良い。


 チャクルたちはみんな、カランルクラル様のとなる宝石を生み出すために養われているのだ。

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