第441話 女王の手紙
薄く光る液体の入った瓶を指先で抓むように持ちながら、小さく溜め息を溢すエミリア。
「はあ……」
ジョンには黙っていたが、エミリアは〈万能薬〉を所持していた。
どうしてエミリアがそんなものを持っているかと言うと、月面都市で椎名から譲り受けた
マジックバッグのなかには〈
その魔法薬のなかに問題の万能薬が紛れていたのだ。
椎名は善意のつもりなのだろうが、エミリアからすると扱いに困る劇薬のようなものだった。
「この薬を渡すのは簡単だけど、問題はどう説明するかなのよね……」
万能薬を〈円卓〉のメンバーに渡し、シェリル王女に使うのは簡単だ。自分も同じ病気で苦しんだだけに、どうにかしてあげたいという気持ちもある。しかし、問題はそう単純な話ではなかった。
何度も言うようだが、万能薬は霊薬以上に稀少な薬だ。市場に出回ったことは過去に一度しかなく、世界中の人々が欲して止まない幻の秘薬だ。そんなものを使用すれば、間違いなく大きな騒動になる。
黙っていてもらうにしても、相手は一国の王女だ。彼女が不治の病で伏せっていることは多くの人間が知っている。人の口に戸は立てられぬと言ったように、突然病気が完治すれば疑われることになるだろう。
素直に〈楽園の主〉から譲って貰ったと公表するのも手だ。しかし、そうするとギルドには世界中から問い合わせが殺到することになりかねない。万能薬を必要としている人々は、シェリル王女だけではないからだ。
不治の病で苦しんでいる人たちは他にも大勢いる。藁にも縋る思いで愛する人のため、大切な人のため、万能薬を求めてダンジョンに潜り続けている探索者だって世の中にはいるのだ。
王女だからと特別扱いすれば、余計な火種を招くだけだろう。
実際、エミリアに使用された万能薬を巡っても、ちょっとした騒ぎに発展しかけたのだ。
ギルドが矢面に立たされるだけなら良い。
しかし、椎名にも迷惑を掛けることになりかねないとエミリアは危惧していた。
「〈黄昏の薬神〉の件だけでも手一杯の状況なのに……」
霊薬の件で、既にギルドには問い合わせが殺到していた。〈黄昏の薬神〉の台頭で多少は市場に出回るようになったとはいえ、需要をまったく満たせていないのが現実だからだ。
そのため、霊薬を調合できる〈黄昏の薬神〉を引き入れたいと考えている国や組織は少なくない。それをギルドと〈教団〉が抑えていると言うのが実情だ。
聡い者は夕陽が楽園と繋がっていることを察しているが、欲が絡むと人間は平然と愚かな行動にでる。〈教団〉が朝陽と夕陽を〈聖人〉に認定した意味を正しく理解せず、バカなことを考える愚か者が世の中にはいると言うことだ。
だからギルドは、いま手が足りていない。
そこに万能薬の件が加われば、どれほどの騒ぎに発展するか、想像に難くない。
「騒ぎは、霊薬の比ではないわね」
どれだけ大金を積んでも、霊薬を欲する人々は大勢いる。万病を治すと噂される万能薬であれば、尚のことだ。どんな手を使っても手に入れようと考える愚か者が大勢現れるはずだ。
それだけならまだいいが、万能薬の件を切っ掛けに一般の人々まで騒ぎが波及する恐れがある。
既にその兆候はでていた。楽園に対するデモ活動だ。
元々、ギルドや探索者に向けられていた不満の声が、標的を変えて楽園へと向かい始めていた。
楽園の存在を危険視している訳だが、なんのことはない。彼等は羨ましいのだ。
持たざる者の嫉妬。時代の流れに取り残された人々。自分たちの行いを正当化し、相手を貶めることで平静を保っているのだろう。
人間は弱い生き物だ。そうすることでしか、自分を保てない人間もいる。そして、そう言った弱い人間を食い物にする人間がいる。ただ、それだけの話だ。
しかし、自分たちの行いを正しいと思い込んでいる人間ほど厄介なものはない。決して彼等は過ちを認めることはないからだ。
エミリアの時は〈皇帝〉の一件があったから、各国も万能薬の件に触れようとしなかった。下手に欲を出せば〈
しかし、手に入らないと思っていたものが手の届く距離に現れれば、手を伸ばす者も出て来るだろう。だからシェリル王女のことを知っていても、エミリアはすぐに動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
「まさか、こんなにも早くシェリル王女の容態が悪化するなんて……」
楽園との交流が進み、霊薬と同じように少しずつ他のマジックアイテムも市場に出回るようになれば、状況は変わってくるはずだ。だから、それまでは様子を見ようと考えていた。
こんなにも早く、王女の病状が悪化するとは考えていなかったからだ。
「どうぞ」
扉をノックする音が聞こえ、エミリアは万能薬ををマジックバッグに仕舞いながら返事をする。
「お客様をお連れしました」
「ご苦労様。あなたは下がっていいわ」
ぺこりとお辞儀をして退出するギルド職員。
職員に案内されてやってきたのは、青い騎士服に身を包んだ黒髪の女性だった。
彼女の名は、クリステル。アジア風の顔立ちからも察せられるように日本人の母親を持つ日系のイギリス人で、〈円卓〉の〈
席次は第八席。クランの起ち上げに関わった初期メンバーの一人でもあった。
「お招きに
「事情は聞いているわ。シェリル王女の件よね?」
「はい……。楽園との仲介をお願いできないかと考え、相談に参りました」
挨拶もそここそに、早速本題に入るエミリア。
クリステルの口から返ってきたのは、予想通りの答えだった。
王室が〈円卓〉に依頼をしたのは〈レッドグレイヴ〉と〈トワイライト〉の関係を知ってのことだろう。
しかし、
「〈トワイライト〉に話は通したの?」
「既に何度も打診をしております。ですが、色よい返事を頂けず……」
これもまた、予想通りの答えが返ってくる。
霊薬や万能薬と言ったマジックアイテムを欲する者は後を絶たない。そのことをギルド以上に熟知しているのが〈トワイライト〉だ。
これまで〈トワイライト〉はそう言った要望をはね除けてきた。
相手が大統領だろうと国王だろうと例外なく、一律に外部からの要請を無視し続けてきたのだ。それは一度でも応じてしまえば、
たかが人間一人の命。そのために〈トワイライト〉が動くことはない。
病に伏せているのが、一国の王女であってもだ。
(だとすると、やっぱり万能薬をこのまま彼等に渡すのはまずいわね)
勝手な真似をすれば、メイドたちは良い顔をしないだろう。
その結果、椎名に迷惑を掛けるようなことになれば尚更、彼女たちは黙っていない。だとすれば、やはり落としどころが必要だとエミリアは考える。
必要なのは
「シェリル王女の病は、私が煩っていたものと同じよ。万能薬であれば、完治する可能性は高いと思うわ」
「でしたら――」
「でも、あなたたちは
イギリス王室が、どの程度の覚悟をしているのかを知る必要があった。
「お金で買えるようなものでないと言うことは、あなたも理解しているわね?」
「……はい」
厳しいことを言うようだが、楽園を納得させられるだけの物を差し出さなければ難しいと言うのがエミリアの考えだった。
そして、それが出来なければ、エミリアも協力したくても出来なかった。シェリル王女を助けてあげたいと思う一方で、椎名を裏切ることもエミリアには出来ないからだ。
「王室が所有する土地を一部、譲渡する用意があると伺っております」
その答えは、半ば予想したものだった。
恐らくはグリーンランドやサンクトペテルブルクの一件から、楽園が地球の土地を欲しているとでも考えたのだろう。
しかし、
「でも、その話は既に〈トワイライト〉に持ち掛けたのでしょう?」
ここにクリステルがいると言うことは、交渉がまとまらなかったことを意味している。彼女の苦い表情を見れば、大凡の事情は察せられる。にべもなく断られたと言ったところだろう。
しかし、そうするとエミリアにもお手上げだった。
レッドグレイヴが〈トワイライト〉に吸収される前なら少しは交渉の余地があったかもしれない。しかし、いまのイギリスに楽園の欲するものを提示できるとは思えないからだ。
これは別にイギリスを侮っている訳ではなく、どの国でも同じことだ。
アメリカでさえ、楽園と対等な交渉は難しいのだから――
「やはり、代表はすべてお見通しなのですね。でしたら、これを……」
観念した様子で一通の手紙を取り出すクリステル。
手紙に押された封蝋の印を見て、エミリアは目を瞠る。
それは、イギリスの
即ち、その手紙の差出人は――
「女王陛下から〈楽園の主〉に宛てた親書です。せめて、これだけでもお渡し願えませんか?」
病に伏せているシェリル王女の祖母――現イギリス女王であった。
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