第432話 ドライアドの酒
楽園の屋敷には、宮殿のように巨大な大浴場がある。温泉と言う訳ではないのだが世界樹の魔力を含んだ水を沸かしたもので、疲労回復だけでなく傷の治療や病気の快復。魔力の回復まで様々な効能が付与されているものだ。
霊薬や万能薬ほどの効果はないが、体調を整えるには最高のお風呂だった。
「はあ……良い湯だ。骨身に染み渡る」
まあ、そんな効能などなくても、お風呂は良いものだ。
こうやって肩まで湯船に浸かっていると、日本人に生まれて良かったと心の底から思う。お風呂のないシャワーだけの生活とか、まったく想像ができないからだ。
風呂は体調を整えてくれるだけでなく、心にも余裕を持たせてくれる。良い仕事をするには、心身共にリラックスすることが大事だ。そのために、お風呂は欠かせないと考えていた。
ただ、あれだな。
「主様。よろしければ
風呂のなかでもメイド服を着用し、出入り口に控えるメイドたち。
そして一緒に湯船に浸かり、お酒を勧めてくる裸のレギル。
俺は一人でゆっくりと風呂に浸かりたいのだが、彼女たちがそうはさせてくれない。楽園にいる間は何をするにもメイドたちが一緒で、世話をされるのが俺の仕事だからだ。
とはいえ、いつもなら風呂の中までついてくることはないのだが、最近はずっと屋敷を留守にしていたからな。監視の目が厳しいというか、どこに行くにもメイドたちがついてくる。
自業自得でもあるので、しばらくは諦めるしかなさそうだ。
心の中で溜め息を漏らしつつ、黄金の盃に酒を注いで貰う。
「うん? いつもの酒じゃないな」
口にするまでもなく、においで気付く。
いつもの酒と比べて、酒から漂う香りが少し物足りなく感じたからだ。
「はい。神樹の酒の問い合わせが多く、なにか代わる商品が用意できないかと考え、〈庭園〉と開発した新商品のお酒です。このようなものを主様にお出しするのはどうかと思ったのですが、できれば感想をお聞かせ頂ければと」
神樹の酒と言うのは、世界樹の実から作った酒のことだろう。
知り合いに配る程度なら十分過ぎる量はあるのだが、販売するとなると需要を満たすほどの数が供給ができない。いまある酒はイズンが貯め込んであった実を使ったもので、その実を使い切ってしまうと材料の補充が難しいからだ。
年に何度か実をつけるとはいえ、一度に収穫できる量は多くない。だから酒を造るとなると、安定的に材料を確保するのが難しいのだ。世界樹の実には、酒以外にも使い道があるしな。
例えば、万能薬。ありとあらゆる病を癒す薬だが、この薬にも世界樹の実が使われている。だから商売の道具には使えない。そのため、代わりになるものを開発したのだろう。
「悪くないんじゃないか? でもこれ、なにを材料にしたんだ? 味わいや風味は世界樹の実に近いみたいだけど……」
魔力も含まれているようだが、世界樹の酒ほどの効能はなさそうだ。
だけど、味は世界樹の酒に近い。
記憶のなかに、この味をだせる素材は思い当たらなかった。
「フフ、主様でも分からないことがあるのですね」
いや、分からないことだらけだけど?
むしろ、俺が自慢できるのは錬金術くらいで、メイドたちに
身の回りのことは、すべてメイドたちにやってもらっているからだ。
料理や洗濯と言った基本的なことは勿論、レギルに養って貰わなければお小遣いにすら困る。
『本当に自慢になりませんね』
アカシャの容赦のないツッコミが入る。
しかし、このくらいで俺がダメージを受けると思ったら大間違いだ。
伊達に三十年以上もダンジョンに引き籠もっていない。メイドたちに世話をされるのは、もはや俺にとって日常の一部と言っていい。もう、そう言った次元はとっくに通り越していた。
「
リンゴのようなカタチをした実を、湯船に浮かぶ盆の上に置くイズン。
見た目は世界樹の実に似ているが、色が違う。
世界樹の実は別名〈黄金の林檎〉と呼ばれるように金色に輝いているからだ。
だけど、この実はメイドたちの髪のように
「なあ、これってもしかして……」
「はい、ドライアドの実です」
もしかしてと思ったら、想像通りの代物だった。
ドライアドはモンスターではなく精霊だ。魔力の豊富な森を住処とする人型の精霊で、イズンのように人の言葉を介すことは出来ないが意思疎通は出来る。世界樹の大精霊にして精霊の母でもあるイズンの眷属で、実は〈庭園〉でもドライアドたちが働いていた。
「ああ、イズンの眷属だもんな。でも、こんなに味が良かったっけ?」
そのため、世界樹の実に味が似ているのは頷けるのだが、こんな味だったかと首を傾げる。魔法薬の材料になるし味も悪くはないのだが、ここまで奥深い味わいではなかったからだ。
それに色も銀色ではなく、青白い見た目の果物だったはずだ。
「イズンの
その手があったかと驚かされる。
イズンの
潜在能力を限界以上に引き出し、英雄の如き力を授ける世界樹の祝福。
この権能の対象は人間に限らない。その気になれば自分の眷属――精霊たちを強化することも可能だった。
しかも、こう言った能力にお決まりの人数制限がない。百人でも、千人でも、それこそ一万人でも際限なく〈祝福〉を与えることができる。まさにチートと呼ぶべき能力だ。
さすがは〈
「なるほどな。それで、この味と言う訳か」
「はい、いまイズンの祝福によって強化されたドライアドたちが〈庭園〉の果樹園で働いております」
「ドライアドって、いまどのくらいいるんだ?」
「凡そ二千と言ったところですね」
二千か。多いのか少ないのかよく分からん。
だけど、ドライアドの樹が一本あたり百ほどの実を付けると考えて、レギルがどの程度の販売本数を考えているのか分からないが、それでも需要を満たせるほどとは思えなかった。
「足りないんじゃないか?」
「需要を満たすことは難しいと考えています。ですが、それでよいのです」
世界樹の実で出来た酒は香りが芳醇で味も素晴らしいが、それだけで高価な値がついている訳ではない。物珍しさと稀少価値が〈神樹の酒〉の価格を支えてる。所謂ブランド力だ。
大量生産をすれば、ドライアドの酒だけでなく〈神樹の酒〉の価値も下げてしまう。市場の声に応えつつも酒の価値を維持することが大事なのだと、レギルは説明する。
「このようなことは説明するまでもなく、主様であればお気付きかと思いますが」
いや、タメになる話だった。
商売に疎い俺では、そこまで考えが及ぶかと言うと怪しい。
需要があるなら、たくさん作って売ればいいじゃないかと考えていたくらいだしな。そう言えば、〈トワイライト〉が取り扱っている商品は、どれも高級なものばかりだ。
魔法薬や魔導具を主に扱っているので、当然と言えば当然なのだが――
「いや、感服した。素晴らしいぞ、イズン」
「そ、そのようなことは……」
照れた様子で頬に手を当て、顔を赤らめるレギル。
やはり彼女には商才があるのだろう。
でないと〈トワイライト〉をあれほどの大企業に成長させることなんて出来なかっただろうしな。
こうやって、俺が働かずに贅沢な暮らしを出来るのもレギルのお陰だ。
やはり、彼女には頭が上がりそうにない。
「そう言えば、主様。〈方舟〉へ赴かれると、お聞きしたのですが――」
ユミルから話を聞いたのだろう。
もう少し屋敷でゆっくりとしたら〈方舟〉に向かうつもりでいた。
夏休みが終わるまで、まだ三週間ほどあるしな。〈狩人〉の仕事に付いて行っている教え子たちも数日中には帰ってくるだろうし、訓練の息抜きに一緒に連れて行ってやろうかと考えていた。
「ああ、それがどうかしたのか?」
「でしたら、ヘルムヴィーゲを供にお連れください」
そう言えば、方舟の〈工房〉の管理をヘルムヴィーゲに任せた記憶がある。
休暇を取らせるつもりで〈工房〉の管理をお願いしたのだが、ちゃんと休んでいるのだろうかと不安になる。アニメや漫画を用意しようと考えた理由の一つが、ヘルムヴィーゲに仕事以外の楽しみを教えるためだしな。
態々こんなことをレギルが言ってくると言うことは、また仕事にのめり込んでいるのだろう。
これだから
よし、そう言うことなら――
「ヘルムヴィーゲのことは任せろ」
そう言って、レギルを安心させるのだった。
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