第47話 離間工作(後編)

 楽園を離れ、サンクトペテルブルクで活動を始めてから一週間。

 世界各地に点在する〈トワイライト〉の拠点の一つで、報告書に視線を落としながら呆れた様子で溜め息を溢すスカジの姿があった。


「酷いものね……」


 机の上に置かれた調査報告書には、先のスタンピードの死者数が記されていた。

 その数は凡そ十万人。都市を守るためと言えば、必要な犠牲に思えるが実際には違う。

 低ランクの探索者をモンスターにぶつけることで、わざと死体を増やしたのだ。

 すべて〈皇帝〉の指示で行ったことだ。


「死者を操るとか、悪趣味なスキル」


 皇帝のユニークスキルの名は黒い神チェルノボーグ。スラヴ神話の悪神の名を冠された権能だ。

 ほとんど伝承の残っていない正体不明の神だが〈皇帝〉の能力は判明している。

 死者の魂を捕らえ、使役するスキル。

 この能力で〈皇帝〉は万を超える不死の軍団を使役していると噂されていた。

 実際、先のスタンピードで十万人の死者がでていることを考えれば、最低でも十万を超える亡者を使役していると考えていいだろう。

 これが、この国の政府が〈皇帝〉に逆らうことのできない最大の理由となっていた。

 ひとりで国と戦争ができる規格外Sランク。それが〈皇帝〉アレクサンドルの力であった。

 

おさも人のことは言えないような……」

「何か言った?」

「い、いえ――なにも!」


 オルトリンデの言葉に目を細めるスカジ。

 同じようなことはできるが、スカジの能力は似て非なるものだ。

 言いたいことが分からない訳ではないが、一緒にされるのは心外だった。


「ですが、分かっているのはスキルくらいで、他は分からないことだらけです。どれだけ探っても過去が一切でてこない。誰一人として、彼がどこの誰なのかを知らないなんて、正直に言って異常です」


 トワイライトや〈狩人〉の情報網を駆使しても、アレクサンドルの素性については何もわからなかった。

 こうなってくるとアレクサンドルという名前も、本名なのか疑わしくなる。

 探索者として頭角を現す前の足跡が一切ないからだ。

 下手をすると、この国の人間でない可能性すらあるとオルトリンデは考えていた。

 この街のギルドは犯罪者でも登録が可能なほど、管理が杜撰なことで知られているからだ。


「過去のない男か。なかなかミステリアスな話ね。本当にローマ帝国の亡霊だったりして」

おさ……」

「冗談よ。それに過去なんて知らなくても、やることに変わりはないのだし」


 確かにそのとおりだと、オルトリンデは納得する。

 過去を知ったところで何かが変わる訳ではない。

 楽園を侮った者たちに制裁を加えるのは決定事項なのだから――

 そうしなければ、今後の計画に支障をきたす。


「それよりも、進捗状況はどうなの?」

「離間工作は順調に進んでいます。もう数日頂ければ、選別は完了するかと。それよりも日本への対応はアレ・・でよかったのですか?」

「ああ、主様がお贈りになった〈神の酒ソーマ〉の件ね」

 

 アレクサンドルが〈神の酒ソーマ〉を欲したことから今回の一件がはじまったことは既に調べがついていた。

 そして、楽園との交渉が上手く行かなかったことで方針を変え、日本の〈神の酒ソーマ〉に目を付けたと言うことも――

 楽園の主の贈り物を狙うなど、愚かとしか言いようがない。

 しかし、スカジはこの件に直接介入することをメイドたちに禁じた。


「あれでいいのよ。楽園との関係をどの程度重視しているかが、これではっきりとするでしょ?」


 日本政府との付き合い方を考える上で、良い試金石になるとスカジは答える。

 探索支援庁の人間が悪足掻きをしているようだが、身内も抑えられないような組織に信用をおけるはずもない。

 楽園の主が贈った物を楽園に喧嘩を売った相手に渡すなど、どのような理由があるにせよ許されないからだ。

 それに、そんなことよりも優先すべきことがある。


「では、グスタフという男は……」

「当然、不合格よ。元から期待はしていなかったけど、ここまで愚かだと滑稽ね」

「では、プランBですね。候補は既に見繕っています」


 オルトリンデから渡された資料に目を通すも、パッとしない顔ぶればかりで顔を顰めるスカジ。

 愚物にも利用価値があると言ったのはスカジだが、正直少し後悔をしていた。

 神の酒ソーマの件といい、ここまで愚かだとは思わなかったからだ。

 このなかでマシに思えるのは、ギルド長のヴィクトルという男くらいだった。


「しかし、こうしてみるとロシア政府の行動が不可解ですね。最初から神の酒ソーマの交渉だけをしておけば、こんなことになっていなかったのに……」

「欲をかいたのよ」


 スカジの一言に「ああ……」と納得した様子を見せるオルトリンデ。

 ただ、それ以外にも理由はあるとスカジは考えていた。

 政府内にも〈皇帝〉を快く思わず、排除したいと考えている人間がいると――

 楽園を刺激することで〈皇帝〉と潰し合ってくれればとでも考えていたのだろう。

 実際そのとおりに楽園は動いている訳だが、愚かな選択としか言いようがない。

 楽園の怒りが〈皇帝〉だけでなく国そのものに向かう可能性もあったからだ。

 逆に言えば、もうそんなことを考えられないほどに余裕がなくなっていた証明でもあるのだろう。

 スカジから言わせれば、どちらも人間らしい愚かさだと感じていた。


「いまからでも街ごと処分しますか?」

「そうしたいところだけど、主様の評判を落とす訳にもいかないでしょ」


 気にしなければ良いだけだが、それでは計画に支障をきたすことになる。

 すべては〈楽園の主〉が理想とする世界を構築するため――

 そのためにも、楽園のメイドたちは選別・・が必要だと考えていた。


愚物グスタフの処理はあなたに任せるわ。私は――」


 元凶を絶つことにしましょう。

 そう言ってスカジは〈皇帝〉の写真に視線を落としながら、冷ややか笑みを浮かべるのだった。



  ◆



「ボス、本当によろしいんですか?」


 マフィアと思しき黒服を着た男にボスと呼ばれる男。

 茶色いスーツに黒いコートを羽織った四十半ばと思しき男の名はヴィクトル。

 グスタフが台頭する前は、この国の裏社会を牛耳っていた二百年の歴史を持つマフィアのボスだ。

 先代が〈皇帝〉に殺され、組織を引き継いだ後はグスタフの下に就き、ギルドの運営を任されていた。

 言ってみれば、この街で〈皇帝〉やグスタフを除けば、最も強い権力を握っている男と言える。だが、逆に言うとヴィクトルにとってギルドの長と言うのは、首輪のようなものだった。

 利用価値があるから生かされているだけで不要になれば切り捨てられるだけ。

 いつでも、すげ替えのきく立場と言う訳だ。

 それでもヴィクトルがグスタフに逆らえないのは、やはり〈皇帝〉の存在が大きいからだ。

 逆らえば、組織ごと潰される。それは先代から組織を任されたヴィクトルにとって、絶対に避けなければならないことだった。

 例え苦渋を舐めることになっても、自分の代で二百年続いた組織を潰す訳にはいかない。そんなことになれば、このサンクトペテルブルクの街は暴力だけが支配する無法都市と化してしまう。だから十五年もの歳月を耐えてきたのだ。

 実際ギリギリのところでこの街の秩序が保たれているのは、ヴィクトルの手腕によるところが大きかった。

 だと言うのに――


「グスタフを裏切れば、確実に〈皇帝〉がでてきます。そうなったら……」


 ヴィクトルはここにきて、大きく方針を転換する賭けにでた。

 十五年続いたグスタフとの関係を断ち切る決断をしたのだ。

 普通に考えれば無謀だ。グスタフの背後には〈皇帝〉がいる。

 国でさえ逆らえず黙認するしかない怪物に歯向かうなど、自殺行為でしかない。

 部下たちの心配はヴィクトルも理解していた。

 しかし、それでも今しかないと思ったのだ。


「心配するな。〈皇帝〉の時代は終わる」


 この一週間でサンクトペテルブルクの裏社会は大きく揺れ動いていた。

 五十人近い死者をだしたギルドでの決闘騒ぎを皮切りに、ずっと変わることのなかった裏の勢力図に変化が現れ始めたのだ。

 その背後にメイドの集団・・・・・・がいることまでヴィクトルは情報を掴んでいた。

 いや、


(俺たちは今、試されている)


 敢えて掴まされたのだと考えていた。

 そして、いま恐らく自分は選択を迫られているのだと――

 既に聡い人間は、この騒動の裏に誰がいるのかを理解している。


 ――月の楽園エリシオン


 いま地球上で最も有名で、注目の的となっている国。

 皇帝が神の酒ソーマを欲して、グスタフが動いていることはこの街の人間なら誰もが知っている。

 となれば、楽園が動いた経緯にも察しが付く。


「グスタフの野郎は虎の尾を踏んだ。いや、財宝を求めて竜の巣に手をだしてしまったんだ」 


 ヴィクトルの脳裏に過ったのは先代の言葉だった。

 月の魔女の噂が広まり始めた頃、先代が口にした警告めいた言葉。


 ――絶対に楽園には手をだすな。


 その言葉の意味が当時は分からなかったが、いまならはっきりと理解できる。

 先代は知っていたのだと。月に楽園が実在することを――

 だとすれば、いまのこの状況はグスタフが楽園の怒りに触れたから起きていることだと察しが付く。

 最初は楽園の噂に半信半疑だったが、ここが分水嶺だとヴィクトルは感じていた。


「俺を信じろ」


 根拠がある訳ではない。

 賭けにでるには情報が足りないことも理解している。

 それでも、いましかないとヴィクトルは考えていた。

 ここで動かなければ、最悪の場合はグスタフと運命を共にすることになると――


(この地獄から抜け出せるなら悪魔にだって魂を売るさ。だから……)


 楽園が〈皇帝〉の支配を終わらせてくれることをヴィクトルは祈るのだった。

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