第20話 ロイカルダン平原の戦い 中編

「えっと……ウチの指揮官が逃げちまいましたねえ。どうします、大将?」


 戦場の後方。逃げていくアイドラン軍の指揮官を見て……ユーステス・ベルンが溜息を吐いた。

 ユーステスは優れた騎士だった。それ故に、すでにこの戦場における勝敗が決してしまったことを悟っていた。

 指揮官であるエイリック・アイドランが飾りであったとしても陣地にいたのであれば、まだ逆転の目があったはず。

 だが……そのお飾りの指揮官が消えた。

 指揮官が逃げてしまったことで、アイドラン軍は明らかに動揺している。弩弓による奇襲を受けた時以上に。


「こりゃあ、総崩れですぜ。さっさと逃げちまいましょうよ……ご決断を。大将」


「…………」


 指示を仰がれたのは……ユーステスが属している中隊の部隊長。

 平民出身でありながら中隊長まで上り詰めた青年、ヴァン・アーレングスである。

 ヴァンに率いられた中隊は弩弓による被害は受けていない。

 ヴァンが直感的に敵の意図を読み取って、部隊を止めたことで被害を防いだのだ。

 おかげで、中隊はまだ無傷である。他の部隊のように混乱をしておらず、容易に戦場から逃げ去ることができるだろう。


「……進め。行くぞ」


「へ……?」


 しかし、ヴァンが命じたのは撤退ではない。

 それどころか……前に進むこと。進軍を命じたのである。


「ちょ……正気ですかい? この状況で……まさか、進めと?」


 ユーステスはヴァンのことを信頼している。

 平民でさえなければ、中隊どころか大隊の将だって勤められる人間だと思っていた。

 しかし……この状況での進軍は頭がイカレてしまったのかと疑わしくなる。


「……勝機が見えた。アイドラン軍の勝ちだ」


 ヴァンが短い口調で、言う。

 ヴァンは無口な男だった。よほど親しい人間の前でなければ、胸襟は開かない。

 ユーステスだけならばまだしも、他にも兵士がいる場所では言葉短く話していた。


「ブラック将軍が奮起している……今ならば、れる」


「奪れるって……まさか!?」


 ユーステスはようやく、ヴァンがやろうとしていることを悟った。

 副官が自分の意図を汲んだのを見て、ヴァンが戦場のはるか先を指差した。


「周囲にいる他の部隊の人間も集めろ。敵の本陣に突っ込むぞ……俺が先陣を切るから、ついてこい」


 そして……馬を駆り、走り出した。

 目指す場所は戦場の北方……ゼロス軍の本陣である。



     〇     〇     〇



「これは……勝ちましたな!」


「ええ、決定でしょう!」


 ゼロス軍の本陣では、すでに戦勝ムードになって湧きたっていた。

 アイドラン軍がまんまと策に嵌まり、弩弓による矢の雨を浴びせた時にも会心の笑みを浮かべたものである。

 しかし……その笑みはさらに、勝利の歓喜へと変わっていった。

 ゼロス軍にとっては予想外の幸運。敵の総大将であるエイリック・アイドランが逃げ出したのだ。


「まさか……一国の王子ともあろう者が自軍を見捨てて、自分達だけ逃げ出すとは……!」


「どうやら、アイドラン王国の次期国王はとんだ臆病者のようですなあ! これはの国が滅びる日も近いかな?」


「我が国の王太子殿下とは大違いですなあ。このまま、敵国の奥深くまで攻め込んでしまいましょうぞ!」


 口々に弾んだ声を上げているのは、ゼロス軍の本陣にいる留守役の将達である。

 ゼロス軍の指揮官であるロット・ゼロスは兵士を率いて、自ら前線に出ていた。

 逃げ帰ったエイリックとは違って勇敢な王太子に、ゼロス軍の将は誇らしさを胸にして、自国の繁栄を確信する。

 歴史というものは、時として一個人の勇敢さや愚かしさによって大きく動く時がある。

 エイリックが愚かにも逃げ帰ったことによって、ロットが前線で勇敢に指揮を取ることによって……二つの国の命運は大きく動こうとしていた。


「て、敵襲です!」


「アイドラン軍が本陣に攻めてきました!」


 しかし……残念ながら、ゼロス軍の笑顔はいつまでも続かなかった。

 歴史は一個人の力によって動く場合がある。

 一人の青年の手によって、ゼロス王国の勝利と繁栄が断たれようとしていた。


「すでに守りの兵士は蹴散らされており、こちらに向かってきます! 皆様、早く逃げてください!」


「何だと!? この状況で奇襲だと!?」


 部下の兵士の報告を受けて、将の一人が慌てて叫ぶ。

 勝利を確信して油断していたところを、まんまと突かれてしまった。


「敵の数はどれくらいいるのだ!?」


「お、おそらく……三百ほどで……」


「三百!? たったの三百だと!?」


 本陣の守りとして千近い兵士がいたはず。

 それなのに……まさか、たった三百の兵士によって破られてしまったというのか。


「クッ……まさか、王太子殿下の留守を狙われるとは……!」


「おのれ、アイドラン軍め! ゆるさ……」


「攻めろオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


「な……ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!?」


 ちょうどそのタイミングでアイドラン軍が押し入ってきた。

 最前線に立って槍を振るっているのは……ヴァン・アーレングスその人だった。


「クソッ! 貴様……!」


「このままやられると……ガハッ!」


五月蠅うるさい」


 ヴァンが淡々とつぶやきながら槍を振るった。

 その場にいた留守役の将の身体をまとめて薙いで、一撃で屠る。


「よし、殺れ!」


「喰らいやがれ!」


「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!」


 ヴァンの周りにいる兵士達も獅子奮迅の戦いぶりを見せる。

 猛将の下に弱卒はいない。ヴァンの強さに引き上げられるようにして、圧倒的な強さでゼロス軍の兵士を駆逐していく。


「よし……敵の兵糧に火をかけろ。本陣ごと焼き払え」


 敵将が残らず倒れたのを確認して、ヴァンが命じる。

 本陣は崩したが……これで終わりではない。

 むしろ、ここからが本番である。


「前線に出ているゼロス軍の兵士全てから見られるくらい、とにかく燃やせ。自分達の陣地が落とされていることを知らしめろ」


「了解!」


 ヴァンの命令を受けて、ユーステスを始めとした兵士達が敵陣に火をかける。

 轟々と燃えさかる炎によって、ゼロス軍の本陣が一つの篝火かがりびになったのであった。

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