3時間の後、雨が降り出した。大粒の激しい雨だった。


 エッジはレインポンチョを頭から被って待避壕から出て、哨戒の交代をする。そして双眼鏡を手に北東の方角を見る。待避壕を見晴らしの良い高台下の崖地に設置したのは、海から『従神みともとのかみの宴』が来襲するのを距離を置いても確認できるようにするためだった。


 水平線の上にその兆しはまだないが、雲は既に凶悪な何かを秘めている。


 エッジは考える。


 特殊技能習得者スペシャルを始めとする探索者たちの『従神みともとのかみの宴』認識は、退けられればS級ダンジョン制覇に匹敵する偉業、である。ダンジョン内と異なり、オープンスペースで数多く襲来する混沌の軍勢は、数に劣る人間の戦闘集団を容易に包囲し、文字通り踏み潰していける。人間にはダンジョンという狭い場所で戦力を集中できるという地の利がないのだ。


 しかし今回に限って地の利がないのは『従神みともとのかみ』らの方だ。


 それほどシンシアが使う絶対防御魔法ワールドクリフは隔絶した力を持っている。混沌の神の力というのも頷ける。できる限りハイランダー卿の前では使わないようにしようと話をしていたのに、突然の方針転換だ。ブラフより新しい策を思いついたに違いなかった。ネックだった魔法力不足からくる持続時間の短さも改善されているはずだからだろうか、と思う。シンシアのこけた頬はとうにない。彼女は自分と一緒なら楽しそうにいっぱい食べてくれる。彼女の健康そうな、朗らかで赤い頬が、エッジは好きだ。この戦いが終わったあとはまた頬がこけてしまうかもしれないが、また大いに食べさせようと思う。食卓の笑顔のシンシアを思い出す。あの、離れでの孤児たちとの食事だ。


「――短い平安だったかもしれない」


 エッジはハイランダー卿へのシンシアの印象を思い返す。


 あの不信感の失われ方は不自然だった――人のことは言えないが。


 それでもシンシアは、この世界でたった1人のエッジの姫だ。ようやく探し当てた運命の存在だ。初めて手に触れたときに感覚で分かり、絶対防御魔法ワールドクリフの魔法を目の当たりにしたときエッジは確信した。


 この先、どれほどの時間を彼女とともに過ごせるかは分からない。しかしどんなに短くともこの宝石のような時間を、心ゆくまで感じようと思う。それが終わってしまえば永劫に似た苦しみの輪廻に戻るとしても、それだけで耐えられる。


 彼もシンシアを手に入れようとするのだろう。だが自分の様に心が安らぐときではなく、己の存在意義を求めているのであれば手に入れようとするのは彼女が持つ最終階位魔法の方だ。


 勝たなくてもいいが、負けるわけにはいかない。


 大粒の雨で双眼鏡のレンズが濡れ、エッジはレインポンチョの中でレンズを乾いた布を使って拭く。そして再び水平線に双眼鏡を向け、警戒を続ける。


 大粒の雨の中、何かがぼとりと落ちてきて、双眼鏡の上を滑ってレインポンチョの中に入った。


 お前か。エッジは言葉にせず、双眼鏡を持つ手をレインポンチョの中に入れ、服にしがみついているコウモリ1・5号を胸ポケットに入れた。ここぞというときまでとっておくと言っていた割にはもう放ってあったのだ。姫も警戒しているのが分かる。ハイランダー卿に悟られまいと大粒の雨に紛れて戻ってくる辺りは芸が細かい。哨戒の時間が終わったら姫に戻してやろうと思う。何を見てきたのか興味はあるが、今は『従神みともとのかみ』に相対するのが先だ。


 エッジの哨戒時間内に風が強くなり始めた。


従神みともとのかみの宴』は近いはずだった。


 1時間で交代し、レインポンチョの雨粒を払って待避壕に戻るが、シンシアにコウモリ1・5号を渡す隙が見つからない。ハイランダー卿は中央に置かれた作戦テーブルでくつろいで、昔なじみとおぼしき責任者らとポーカーに興じていた。だが、周囲に気を巡らせているのが露骨に分かる。こういうときは頭を空にするに限る。


「姫~ただいま戻りました」


 シンシアはクッキングストーブの前の椅子に腰掛けて本を読んでいたが、エッジの姿を見つけると立ち上がった。


「お疲れ様」


「姫、失礼します」


 エッジはシンシアをぎゅうと抱きしめ、感覚を身体に染みこませる。


「ええ! こんなところで抱擁ハグ?」


「みんな僕らが婚約したばかりと知っています」


「とはいえ少しは周りに気を遣って貰いたいものだ」


 シンシアの背中を守って後ろの椅子に腰掛けていたアンバー少佐が苦笑する。


 人の目を気にしている時間はない。この1秒1秒が惜しい。


 今度こそ、絶対に守る。


 永遠の中の一瞬だとしてもこのぬくもりのためになら全てを投げ出せると思う。


 腕の中のシンシアが言った。


「エネルギーチャージ」


「だいぶできましたよ」


「違います。チャージできたのはわたしの方です」


 そしてエッジを見上げ、微笑む。あまりのかわいさにエッジは萌え死にしそうになる。世界で自分だけしか彼女をかわいく思っていなくても逆にそれでいいと思えるくらいだ。彼女の“かわいい”を独占できるのだから。


 実は彼女をハグしたのはその最中にコウモリ1・5号を内密の内に彼女に戻すためだったのだが、幸せもチャージできたので、エッジは満足だった。


 小一時間ののち、哨戒から戻ってきた隊員が戦闘準備をした方がいいとハイランダー卿に進言した。ハイランダー卿は戦闘準備を宣言し、シンシアは準備を終えるとハイランダー卿に絶対防御魔法ワールドクリフを使って『従神みともとのかみ』を封じる作戦を進言した。他の戦闘要員は周囲の上級魔人らに集中攻撃できることになる。


「シンシア姫は自分であれば可能だからこそ進言してきたということでよろしいか」


 シンシアはハイランダー卿の言葉に頷いた。


「実戦で己の切り札を磨くのは探索者の本懐だ。全員に情報共有しよう。この探検のいい土産話になるよう期待したいな」


 ハイランダー卿は微笑んだ。


 シンシアはエッジとアンバー少佐を従え、待避壕から出る。


 風雨が激しさを増した真の闇の中、3人は海岸方向に向かって歩く。1人、また1人と戦闘要員が待避壕から出てきて、『従神みともとのかみの宴』を迎え撃つ準備が整っていく。


 ハイランダー卿も装備を調えて出てくる。両腕には編み上げの金色の籠手を装備している。もしかしたらあれが『万物流転の神ヘルメスの籠手』なのかとエッジは思わず中止してしまうが、ハイランダー卿が気にとめた様子はない。今、考えても仕方がないことだとエッジは気を取り直す。


「姫の背中を守るってことでよろし?」


 エッジはアンバー少佐に語りかける。


「途中で遮られるまでは、もちろん。置いていって構わないよ」


 エッジはシンシアにも語りかける。


「最終階位魔法を信じないわけではないのですが、持続時間には心配があるので」


「ぎりぎりまでは守って貰って、護衛が無理そうな時点で発動します。そのあとは1人で進みます」


 心配と言われながらもシンシアは余裕の笑みを浮かべて2人を振り返った。

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