第3章 新居(予定)です
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ああ、ここ知っている。
オブシディアン男爵領に入ってから、何故かそう思える懐かしさのような何かがシンシアの感情を刺激した。
常緑樹の深い森。
勢いよく天に向かって伸びる牧草とよく整備された放牧地の柵。
色とりどりの花をつける路肩の花々と木々。
どうということのない田舎の景色が広がっているだけなのに、懐かしさを感じるのは、研究と研究の実践である探索にここ数年費やしていたからなのだろうと思う。通っても、仮の宿を借りても、見ていなければ意味がない。今、シンシアは自分が暮らす場所として彼の領地を見ている。だから過去の記憶が呼び覚まされるのだ。
幼い頃に避暑にいった高原の村のような、簡素だが美しい光景がここにある。
領地外屋敷を夜明け前に出て、午後2時過ぎには領地に入った。近い方だと思う。
「この土地を管理していた男がかなりひどい奴でね、借地人の大半が逃げ出してしまったんだ。いろいろあってついでにその男がお縄にあったあと、地主からここを譲り受けたら、男爵位もついてきた。君に会うためにはいつか貴族位を手に入れなくてはならないと考えていたからちょうど良かったんだ。お金はなくなってしまったけれど」
エッジが馬車の窓から見える光景を1つ1つ説明してくれる。この領地の女主人であるならば、必要な知識だろう。今の自分はそうではないがゆくゆくはと考えてくれるのがわかり、どうにもぎこちなくなってしまう。
「そうだったんだ。それにしてはよく整備されているね」
「耕地にする人手がないからだいたい牧草地にしたんだ。秋になったら牧草を周囲の酪農家に売るし、痩せていた土地を再生するのにも役立つ」
「真面目な領主さんになれるね」
シンシアは目を泳がせてしまう。とにかくエッジの距離が近い。馬車の隣に座っているのだが、エッジが座る側に彼が説明したいものがあるのならいいが、シンシア側の窓から見えるとぐっと身を乗り出すので0距離になって、しかも顔の近くで解説するのだ。
かわいくて凜々しいエッジの顔を見ると照れる。
「――やっぱり、つまらない?」
「違うの、違うの、ぜんぜん違うの!」
シンシアは両手をちいさくバタバタ振って否定する。
「お腹減った?」
「ちがーう」
「はは、姫様、戻った」
シンシアはエッジにからかわれたことが分かり、真っ赤になってしまう。
「今頃、照れてるの」
エッジは言葉を繰り返す。
「照れてる?」
「最初はほら、トラブルがあって、解かなくてはならない謎があって、一緒に戦ってって、仲良くなれたからいいんだけど、いざ落ち着いてみて好ましい男性と2人きりという状況は、乙女としては、その、免疫がないのです」
「冷静になっちゃったってこと?」
シンシアはコクコクと何度となく頷いた。
「僕のこと、嫌いになっちゃった?」
シンシアは首を大きく何度も横に振った。
「そんなわけない」
「よかった」
「我ながら寝不足テンション、恐いです」
「姫の婚約者、続けてもいい?」
シンシアはコクコクと何度となく頷いた。
「よかった」
馬車が
母屋の前で降りてシンシアは屋敷を見上げる。
「かわいいお屋敷」
「これが普通だから」
「分かってます」
シンシアはへそを曲げる。伯爵家の屋敷が普通より大きいことは百も承知だ。
母屋は玄関を通ってホール、左右と正面に部屋、2階への階段。2階に8部屋。母屋の奥に中庭があり、ロの字の平屋で中庭を囲んでいる。
「姫の部屋は2階に用意して貰った。布団も干して貰ったし、きれいなはずだよ」
シンシアは胸をなで下ろした。
「もしかして僕と同じ部屋だと思った?」
「婚約中ですが、まだ結婚してないのですから別々の部屋ですよね」
「もちろん」
不埒な想像をした自分の方が責められそうな笑顔だった。
馬車の御者と侍女もしばらく滞在することになっており、エッジの帰りを待っていた少年に屋敷の裏に案内されていった。彼らは現在無人のメイド部屋と執事部屋に寝泊まりすることになっている。
「とにかく誰もいないんですね」
「離れの方には大勢いる」
「子供たちですね」
シンシアは笑顔になった。
「大人も少人数いる。戦争で不自由な身体になった人とか、身体を壊した元娼婦とか、酒浸りになって身を持ち崩した元教師、とか。こっちは対外的に残してあって、修繕は終わったけど他はまだ手つかずなんだ。離れの方がこの土地の中心かなあ。ご飯はそっちでみんなと食べるよ」
「でもここは辺境だから、獣とか流れ者とか、盗賊団とか心配じゃない?」
「普段は
「みんなで食べちゃう?」
「残らず」
2人は顔を見合わせて笑う。
お昼ごはんは到着人数分残してくれてあり、子供らが全て準備してくれ、中庭のテーブルで4人で食べた。エッジの話にあったワンプレートだ。ライスではなく厚焼きのビスケットだったがおいしかった。使用人と一緒に食べる経験はシンシアは初めてだった。御者も侍女も相当戸惑っていたようだが、準備と後片付けの手間を考えると合理的だった。
食事を終えた後、シンシアはエッジに案内されて離れに行った。
離れは古く、細長い平屋建てで子供たち総出で出迎えてくれた。総勢50人ほどもいるだろうか。確かに赤子から少年少女まで揃っている。少数の大人は、酒浸りの元教師は眼鏡をかけた痩せた老人で、中年女性は元娼婦、手足がない義手義足の男性たちが元兵士だとすぐに分かった。
明るい笑顔と無事エッジが戻ってきてくれたことへの感謝とねぎらいの言葉がそこには満ちていた。ここでのエッジは良き保護者でなりたて領主なのだ。
昼ご飯から時間はあまり空いていなかったが、離れの広間に置かれた長いテーブルに皆揃い、灯油ランプの明かりで夕食を食べた。エッジもシンシアも同じ食事だ。食事は質素だが、栄養バランスを考えて作られており、成長に必要な栄養を考慮して、年齢体格で量も調整していた。
味付けは塩と香草だけと素朴だったが、おいしくて、普段より多く食べられて、シンシアは幸せな気持ちになった。
屋敷に戻り、一応、家財が揃っているエッジの部屋でシンシアはエッジに言った。
「やること、山積みだね。なるほど農業指導が必要な話、よく分かった」
「とにかく素人と子供の集まりだからね。ヒトガタをぶっこわす方が遙かに楽だ」
エッジは先行きの不透明さのためか、表情が暗い。
「子供たちだって、あの広間で雑魚寝でしょう」
「あれだってオンポリッジの孤児院よりはずいぶんマシな環境なんだ。先生に勉強も見て貰っているし、少しずつだけど、動き始めている」
「責めてるんじゃなくて、私も協力したいの」
エッジは驚いた様子だった。
「私だってS級ダンジョン制覇者よ。伯爵家の資産ではなくても個人でも不足はないよ」
「それは嬉しいけど、今日来たばかりの姫にそこまでして貰う理由が……」
「私がそうしたいだけ」
「ありがとう。まずは古着かな。子供の頃の服が山のように残っているから。ああ、大半は領地の方だけどこっちにもかなりあるはず。送らせるよ」
エッジは小さく頷いた。
翌日は女の子の水浴の日で、中庭にカーテンを吊り下げて、皆で井戸の水で身体を洗った。シンシアも小さな子の身体を洗うのを苦労して手伝った。
エッジは地下室にこもり、ナイフワークの修行だと言っていた。
シンシアも水浴と食事の時間以外は用意して貰った部屋で、持ってきた厳選された資料で研究を続けた。
平和な、静かな1日だった。
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