5
時は6時間後に戻る。
エッジへの殺意は最高潮に盛り上がったまま、どうしてやろうかとシンシアは考え続けた。考えるが、頭に血が上りすぎてうまく考えがまとまらない。
古代の円形闘技場は無人だった。
辺境伯の狩猟館があるくらいの郊外である。周囲は深い森に囲まれている。都心部の古代円形闘技場は修理され、未だにエンターテインメントに使われるが、こんな郊外のそれは数百年修理されず、放置されたままだ。草木が生えていないのは時折、辺境伯が演劇に使うからだと思われた。
さあ、どうしてくれようか。
シンシアは大きく深呼吸して月を見上げる。
月はもう天頂を過ぎ、降り始めていた。
エッジが決闘から逃げたことは、ありとあらゆる手段を講じて広める。彼を社会的に抹殺するしかない。その代償に自分の伯爵令嬢としての名誉は地に落ちたままで、一生結婚することはないだろう。人並みに幸せな結婚をしたいと夢見ていた少女時代のことを思い返し、シンシアは鬱になる。
「絶対殺す」
今度のそれはエッジが自分に『可愛い』と言ったことに対してだ。可愛いなんて言われなければほんの少しも期待せずに済んだのだ。
あれ。
シンシアは気がついた。
決闘しなくても、自分の名誉が回復されて、結婚に至る道のりがまだあったのだ。決闘から逃げるような男だが、彼の話から判断するだけなら、見込みがある感触があった。徹底的に調べなければならないが。そちらの方向なら父もある程度は納得するかもしれない。
そう思い至ると怒りが少し収まってくる。
出直しだ。
シンシアは心の中だけでそう言葉にして、正面のメイン出入り口を経て円形闘技場から去ろうと歩み始める。
そして出口を出た直後、シンシアは転倒した。
何が起きたのか、さっぱり分からない。転倒の衝撃から回復して立ち上がろうとして足を動かすと、何かが絡まっているのが分かった。
敵!
そう判断して身構えたときにはもう遅かった。黒い影がシンシアの腕をねじり上げ、逆関節を極め、シンシア自身の腕で残る自由な方の腕も極められた。黒い影の主はもちろんエッジだ。
「無詠唱魔法より僕のナイフの方が早いよ」
シンシアの耳元にエッジの声が聞こえた。首筋には何か冷たいものが当たっている。
ナイフだ。
頸動脈を断ち切られれば、無詠唱魔法の発動に必要な一瞬の集中すら失われるに違いない。
「お前、決闘から逃げたんじゃ――」
「決闘するなんて言ってないよ」
「え? だって、誓ったじゃない」
冷静に思い出してみると確かに誓っていない。シンシアは思い出す。
「誓ってもいない。『あの月が天頂に至るとき。古代の円形闘技場で』と言ったんだ」
それは分かった。
「でも、天頂にあったときには来なかった」
「出入り口でも円形闘技場には違いない」
決闘は真っ向勝負するものだ。それが頭になかったらシンシアも全周囲を警戒していたに違いなかったが、今更遅い。シンシアは負け惜しみで、エッジを嘲るように言う。
「口が上手い」
「だって
その通りだ。シンシアの
足下を確認すると極細の髪の毛ほどの太さのワイヤーが絡まっている。シンシアが円形闘技場の中に入ったあと、エッジが仕掛けたトラップにまんまと引っかかったのだった。
「どうしてここを通ると分かった? 円形闘技場には出入り口が何カ所もあるんだぞ」
「人間の心理として入ったところから出るものだからヤマは張れるよね。姫君が入った足跡があったからここから出ると確信していたよ。でも、もう少しで遅刻しそうだったのも事実だけどさ」
少し、申し訳なさげにも聞こえた。エッジはどんな顔をして話しているのだろう、とシンシアは顔を見たくなった。
しかしエッジは自分の背後に立って両腕に逆関節を決めているから、見ることはかなわない。実は得意げな顔をしているのだろうか。それともやはり申し訳なさげな顔をしているのか。
「私をどうするつもりだ?」
「別に、何も。100万回謝りたいのも本当だよ」
怒りすぎて忘れていたが、彼がそう言って逃げたことを思い出した。
「100万回謝られても私の名誉は回復されない」
「姫は刺客に狙われていたんだ。それでナイフを投げて……角度的に――申し訳ないことになったけど」
「それが事実だとしても受けた恥辱は消えない。これで私は一生結婚することはないだろう。結婚できるなんて思ってはいなかったけど、現実にその可能性が消えると私でもさすがに辛い。――自分の中では決闘だったんだ。勝者には敗者の生殺与奪の権利がある。お前の好きにするがいい」
雲が風に流れて月にかかり、影が消え、辺り一面が暗くなった。
「好きにしろって言われたって……」
エッジはためらっている様子だったが、少しして何か思いついたらしく、シンシアの両手を自由にし、足に絡んでいるワイヤーも外し、完全に動けるようにした。また、彼が手にしていたのはナイフではなく髪を整える金属製の櫛で、これもまた騙されたことが分かった。
シンシアはエッジの顔をまじまじと見るが、闇夜のため、あまり表情が分からない。ただ、迷っている様子だということだけは分かった。
「うん。やっぱり順番を間違えていたんだ。最初からこう言えばよかったんだ」
エッジの声は一転して明るくなり、シンシアは戸惑った。何を言わんとするのか、全く分からない。地面に座ったまま、立っているエッジを見上げる。
雲がまた流れ、月が出て、エッジの顔が月光に照らし出されて見えるようになった。
エッジは顔を真っ赤にしてシンシアを見つめており、意を決したように言った。
「シンシア・クロス・ドロップエンド伯爵令嬢」
シンシアはフルネームで呼ばれて、思わずきょとんとしてしまったが、どうにか返事だけはした。
「は、はい」
そしてエッジはひざまずくと、シンシアの手をとった。
彼の手からはまた何かが流れ込んできた。シンシアは一瞬、我を忘れたが、すぐ現実に戻ってくる。しかしエッジの言葉はその現実のものとは思えなかった。
「どうか僕と、結婚を前提としたお付き合いをしてください」
「はい???」
シンシアの頭の中に複数の疑問符が生じた。
確かに先ほど、ようやく思い至ったもう1つの名誉回復の方法ではある。しかしそれを彼の方から言ってくるとはシンシアは夢にも思わなかった。
「姫君と手を重ねたときに分かったんだ。姫は僕の運命の人だよ。僕の『
「はい???????」
もう数え切れないほどの疑問符がシンシアの脳内を飛び交い、脳の処理は全く追いつかない。エッジはシンシアの手の甲に接吻をし、言葉を継いだ。
「お返事は通常『はい』か『いいえ』の2種類だけど、その『はい』ということでいい?」
「『はい』」
シンシアはそう思わず答え、顔が沸騰したのかと思うほど熱くなるのが分かった。
「結婚の方、一緒に戦う方、どちら?」
「どっちも『はい』です」
もう訳が分からないが、エッジの真っ赤な顔に無理矢理浮かべた笑みに押され、シンシアは大きく頷いた。
「よっーしゃあああ!」
エッジは大きな声で叫び、月を仰ぎ、拳を固めた。
かくしてエッジとシンシアは結婚への道と、混沌と秩序そして外神と名も知られぬ神が合い争う冒険への道を2人同時に歩み始めたのだった。
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