そんな状況が変わったのは開会から30分ほど過ぎてからである。


 シンシアの前に見たことがない1人の男が現れた。黒髪、黒目の若い男である。この辺りの民族にはみられない顔つきだった。それほど悪い容貌ではない。むしろ好ましい方だとシンシアには思われた。


 燕尾服タキシードなのは社交パーティーでは当たり前だが、少々、身体に合っていないのでセミオーダーまたは中古服と思われた。それだけで身分の低さがうかがえる。そしてよく分からないのだが、テーブルナイフを2本手にしており、シンシアの視線を感じたのか、内ポケットにさっと隠した。隠したと言っても燕尾服である。胸の上に形が浮き上がっている。


 彼の後ろに辺境伯夫人の姿が見えた。どうやら今晩紹介される相手らしい。


 自分に? と正直シンシアは疑問に思ったが、辺境伯夫人は社交辞令の後、男のプロフィールを手早く話して笑顔で去って行った。


「初めまして。エッジ・マーカー・オブシディアン男爵と申します」


 そして彼は正式なお辞儀をした。


 エッジ・マーカー・オブシディアン男爵の名はシンシアも知っている。というか知っているのは2つ名の方だが。


「ナイフマスターのエッジ」


 なるほど。テーブルナイフを手にしていたわけだとシンシアは納得する。社交パーティで武器を装備できるのは護衛役の騎士だけだ。しかしナイフマスターの2つ名を持つ彼ならばテーブルナイフの1本もあれば、このパーティの場くらいであれば何か事件が起きてもこと足りるのだろう。彼女と同じS級ダンジョン制覇者の肩書きを持ち、しかも噂では武器はナイフ1本、全身鎧の戦士と2人だけで最終階層に到達したという話だ。並大抵のことではない。


「ご存じだったようで何よりです」


「男爵位をお持ちとは存じ上げませんでしたが」


「最近、領地を買いました。何かと便利ですので。ご存じだったのであれば同じ特殊技能習得者スペシャルということで、よろしければエッジとお呼びください」


 エッジは作り笑いをした。


 シンシアは自分に声が掛かった理由を察した。貴族位を得るには男爵位といえども相当の金銭が必要で、S級ダンジョン制覇者であっても懐具合が苦しくなることは確実だ。自分を嫁にして伯爵家から持参金をふんだくるつもりなのだろう。


 カチーン、ときた。


「クロス・ドロップエンド嬢?」


 無言だったからか、エッジが首を傾げてシンシアの様子を伺っていた。意外とまだかわいい顔をしていた。先ほど辺境伯夫人は22歳と言っていたから年相応かもしれない。


「失礼しました。では私も魔道士メイジシンシアでお願いいたします」


 魔道士は敬称なので、ファーストネームにつけられても問題はない。


「シンシア嬢ではダメですか」


 馴れ馴れしいにもほどがあるが、エッジは本当に残念そうな顔をしていた。


「ダメです」


「ですよね」


 エッジは苦笑した。


「すみません。こういう場どころか女性にこうやってお声がけするのも初めてなもので」


「意外ですね。ナイフマスターのエッジといえばよからぬ界隈でも顔が利くと聞きます。声をかけるのが初めてなのは、女をあてがわれて不足がないからでしょうか」


「――不足がないというのは根も葉もない話です」


 嘘だな、と思う。しかし自分の方から女性に声をかけるのは本当に初めてかもしれない。そう思わせるたどたどしさがある。


「あ、いや、嘘をついてしまいましたね。ウチの屋敷の離れには『女』が大勢おりますので」


「それはそれは」


 若いのにくだらない男だ。


「乳のみ子から14歳まで。それは男の子も変わりませんが」


 シンシアは、ん、と目を細めた。


「孤児の面倒を見ているのです。貴族社会に溶け込むためには慈善事業が必須なようですから」


「それは大変よい心がけですね」

 シンシアは目を大きく見開いた。どこでもそうだが、オンポリッジの街でも孤児の存在は大きな問題になっている。


「そういうことならご寄付いたしますよ」


「それはまた別のお話と言うことで」


 寄付の約束をして追い払いたかったのだが、そうは許してもらえないようだった。


「ではどんなお話が?」


 シンシアは露骨に眉をひそめてしまった。やはり持参金が目的なのだろうか。


「魔道士シンシアにやっとお会いすることができたのですから、ゆっくりお話したいのです。冒険に出る、魔道士協会の定期報告に行く以外はお屋敷の研究施設に引きこもっていると聞きました。苦労したのですよ、ここまで来るのに」


 魔道士としての自分に用があるらしい。それはいいニュースだった。エッジは2人行動と聞いているから、いわゆるパーティメンバーを探しているのかもしれない。しかし自分の魔法に団体行動で何か使い勝手があるのか分からない。やはり警戒は続ける。


「それはすみませんでした。魔道士協会の掲示板に書いてくださればご連絡しましたのに」


「それでは世間に筒抜けではないですか」


「確かに。では秘密のお話で?」


「秘密というか、ごく個人的な話なので」


 シンシアが全く想像つかない展開になってきた。


「と、申しますと?」


「それにしても本当に可愛らしい」


「はい?!」


 可愛らしい、なんて単語がシンシアに向けられたのは幼少のみぎり以来のことである。成人してからはもちろん初めてのことだし、家族以外からは完全に初めてだ。


 社交界デビューしてからは「おきれいですね」「美しいご衣装ですね」などと社交辞令ですらお茶を濁されてきたシンシアである。驚きと怒りが同時に湧いてきた。


「エッジ殿、目がおかしいのでは? それとも何か呪いでも受けられたのですか? よい解呪師をご紹介しましょうか?」


「ご自分で言っていて辛くないですか?」


 エッジは完全に同情のまなざしでシンシアを見た。


「私の目からはとても可愛らしいし、十分、美しく見えます。キツネ目を気にされているのかもしれませんが、私としては好ましいです」


「嘘も露骨甚だしい! そんなに金が欲しいか!」


 エッジは目に手を当てた。


「間違えた。完全に順番を間違えた」


 何を言っているのかシンシアにはさっぱり分からなかった。


「お貴族様の美的意識なんて、特殊なんですよ。シンシア嬢も魔道士の、まるで妖怪みたいなダブダブで茶褐色のローブでなければ、しかもイブニングドレスのならば、こんなに可愛いんです……スペシャルの中でも気づいている奴はいます。確かにもう少し肉をつけた方がいいですが」


 余計なことを言ってしまった、といった様子でエッジは表情を凍らせた。


「どうせ私はガリガリの灰色キツネのお姫さまですよ!」


 彼女がガリガリなのは魔法で体力を使うからである。魔法の膨大なエネルギーが術を使う魔道士にどこから補充されてくるのかは魔道士界隈最大級の未解明問題だが、魔道士本人に蓄えられたエネルギーが媒介になっているというのが定説だ。そのため、魔道士にはあえて太っている者も多い。シンシアも太りたいのだが、胃腸が弱くて大量に食べられず、魔法を使う度に痩せてしまっていた。


「すみません。更に順番を間違えました。謝罪いたします」


 エッジの言葉には真剣さがうかがえた。


「一度だけは謝罪を受け入れます」


「ありがとうございます」


 エッジは笑顔になった。その笑顔は本当に可愛らしくて、S級ダンジョン制覇者にはとても見えない。まるで小学校の新任の先生とでもいった爽やかさがある。シンシアはいろいろぐっとこらえて聞いた。


「それでは、正しい順番とはどういったものですか」


「姫様、まずは踊っていただけませんか?」


 エッジはキリリと表情を作った。思わずシンシアは吹き出してしまった。


「ごめんなさい。私、踊るのは下手ですよ。足、必ず踏みますよ」


「踊れないのは僕も――私も同じですよ」


 シンシアは気を取り直してエッジが差し出した手をとろうとした。


「でも、大勢の方に踊れないところを見られるのは恥ずかしいので、バルコニーまで出てもよろしいでしょうか」


「ええ!? 屋外ですか?」


「いえ、庭ではなく、バルコニーですよ」


 今日の会場は2階の大広間と1階の大広間を使っており、広く庭園の方まで開放されていた。庭に出れば密会などの特別な意味を持つが、2階のバルコニーで踊るのであればそれほど不自然ではない。


「いやー、中がいいなと。できれば壁際ならもっといい」


「それでは注目されてしまうので」


 壁際には大勢の人間が待機している。見られたくないなら大広間中央部の方がまだマシだ。エッジは息をのんだ後、手を更にのばした。


「わかりました。姫様、お手をどうぞ」


 シンシアはエッジの手のひらに自分の手のひらを重ねた。


 そのとき、電撃が走った。


 刹那、何か魔法をかけられたのかと、シンシアは一度目をむいた。


 だが、その衝撃が背中と頭頂部まで伝わると、甘い何かに変わっていた。


 頭がぼーっとして、目の前にいるエッジを見つめることしかできなかった。


 そのエッジの姿の更に奥に、別の何かと何者かを見たあまたの記憶と、長い長い時間が過ぎ去ったような感覚が全身を通り抜けていったが、今のシンシアにはそれらが一体何なのか、分かるはずもなかった。


 エッジは微笑んだ。


「間違いなかったようだ」


 そして手を引き、バルコニーへとシンシアを導いた。


 まだシンシアはぼーっとしていた。


 バルコニーに出る直前、エッジは外の様子を窺っていたが、とりあえず安心したように胸をなで下ろし、2人は外の夜風を受けた。バルコニーには複数のカップルがいたが、灰色キツネの姫さまの姿を見ると一目散に大広間に戻っていく。アンサンブルが奏でるワルツとスローフォックストロットが交互に大広間から聞こえてきていた。


 東の空には大きな赤い月が昇り始めていた。


「どちらがいいですか?」


「ワルツですね」


「では、この曲が終わるのを待ちましょうか」


 そうエッジが言ったとき、庭園の方から女性の悲鳴が聞こえてきた。


「何事!?」


 冒険者としてのさがか、シンシアはバルコニーの手すりに駆け寄り、様子を窺う。


 次の瞬間、シンシアは妙に右の胸に風が通り、涼しくなったのを感じた。


「え?」


「――しまった。しくじった」


 その言葉に戸惑い、シンシアがエッジを振り返るとイブニングドレスの右の肩スリーブが落ち、ブライダルインナーの片胸がむき出しになってしまった。貧相なバストをエッジに見られてしまい、シンシアは真っ赤になりながらドレスを手であげると悲鳴を上げ、その場にうずくまった。


「痴漢! 変態! もうお嫁に行けない~!!!」


「ごめん! お詫びは後で100万回でも!」


 そしてエッジはバルコニーから下の庭園へ飛び降り、シンシアの視界から消えた。


 何が起きたのかと大広間から大勢の客が様子を窺い、状況を察した給仕がシンシアに上着を持ってきた。


 上着を掛けられ少し落ち着いたシンシアは呻く。


「絶対、許さない!」


 庭園の様子を見ている最中、一瞬だが彼女の背中から庭園上空に向けて、金属の光が走ったのをシンシアは見ていた。エッジが放ったディナーナイフに違いなかった。その切っ先がイブニングドレスの肩スリーブを切り裂いたのだ。


 一体何のためにエッジがこんな辱めを計画したのかさっぱりわからない。しかし辺境伯主催の社交パーティでこんなスキャンダルをしでかしてしまったら、方法は2つしかない。特殊技能習得者スペシャルとして名誉回復のための決闘を申し込むか、貴族の伝統というか世間体と体面を最重視して結婚するかだ。


 あまりの惨めさに目頭が熱くなり、みるみるうちに涙がこぼれ出す。


「絶対、許さない――殺す」


 怒り心頭のシンシアの選択肢は1つだ。


 不幸な灰色キツネのお姫さまは大粒の涙を流しながら、付き添いの侍女に気遣われ、控え室に下がっていった。

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