第47話

「いかしかたありませぬ、『二階崩れ』のごとき出来事を経験いたせばつい苦難を避けようとするようになるのも当然の帰結というものにございましょう」

「ふん、父母が死んだということであればわしとて変わらぬ。世は乱世、さような者は跡を絶たぬ」

「されど、上様には大方殿がおられました」

 大方殿、という名に元就は複雑な顔つきとなる。

 元就は五歳のときに母を、十歳のときに父を亡くし、さらに父親の遺領を後見人の家老に横領されるという目に遭っていた。

 そんな彼を幼いころから専心、養育していたのが父の側室・大方殿だ。十一歳のときに兄が京にのぼって独りになったときも側にいてくれた。彼女は若い身空でどこへも行かず、ずっと元就のもとに留まったのだ。あの仁がいてくれたからこそ、わしはあきらめることなく前に進むことができた――。

「また、妙玖(みょうきゅう)様もおられました」

 さらに出された亡き正室の名に完全に気勢をそがれた。元就は彼女の亡きあと、三子にあてた教訓状のなかでもしばしば妙玖を引き合いに出しては兄弟の協和を教え諭している。それほどに妙玖の存在は元就にとって大きかった。

「そして、ご家中には小早川左衛門佐様と吉川駿河守様がおられまする。血を分けたご子息らが家中をささえる、これほどに心強きことはございますまい」

「それはわしへの当てつけか、恵瓊」

 ふいに元就が眼光を鋭くして問う。武勇でもって名を馳せているわけではなくまた老いてもいるが、それでも一〇州一の太守に成りあがった者の気魄は尋常一様のものではなかった。

 そして、そんな反応を元就が見せるのはには理由がある。安国寺恵瓊はもとはといえば毛利によって滅ぼされた安芸武田氏の出だ。ために、養母、正室、子どもたちといった人々を引き合いに出した発言を嫌みかと勘ぐった。

「さにあらず。尊ぶべき師僧との出会いが拙僧にはございますれば。ただ、鎮西にて大友家の仔細を探るうちに宗麟入道殿への憐れみを抱いた次第でございます。大殿のごとき人の縁にかの御仁には恵まれておりませぬ」

「されども、そうは申したところで容赦はできぬぞ」

「乱世とは非情にございますな」

 元就の言葉を肯定するでも否定するでもなく恵瓊は悲哀を瞳にたたえながらほほ笑む。

 しばし目してその顔を見つめ、ぽつりと元就は告げた。「すまぬ」

『我が毛利家を悪くいう者は、他国はむろんのこと、国内にも満ち満ちている。また、毛利家内部の中でも、元就のことを恨んでいるものは数限りない』という言葉を毛利元就という男は残している、少なからず罪悪感をおぼえてもいただろう。

 だが、それを四六時中明かしていては敵につけ入れられる隙ともなりかねない。ために、余人が介在しないこの場だからこそ元就は謝罪の言葉を口にできた。

 その言葉に恵瓊は一瞬目を丸くし静かに平伏した。「恐悦至極でございます」

 ふたたび顔をあげたときには真剣な顔つきとなり、おだやかな“僧”ではなく戦国乱世を生きる“漢”の表情を浮かべている。

「ひとつ、奇妙な噂を耳にしてございます」

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