第42話

   五


 府内の教会堂の一日は早朝のミサの鐘ではじまる。それから半刻すると同じ敷地内の病院での回診開始の振鈴が鳴るのだ。内科、外科、癩舎の回診が終わると、外来診察の振鈴がひびく。巳の刻を過ぎたころに正餐の鐘が聞こえる。馬の刻には黙想がおこなわれ、午と未の刻の間にはふたたび回診となるのだ。その後、夕のミサ、夕餐、夕の祈りとつづき一日が終わる。

 在昌は教会、病院、双方を行き来して手伝っており忙しい毎日を送っていた。

 その日も切支丹としてのつとめが終わり、在昌は家路につこうとデウス堂の門のところへと立った。あせりがまったく消えてしまったわけではないが、師ヴィレラの同志のために働いた心地いい疲労が身体をつつんでいる。

「マノエル」

 ふいに、自分を呼ぶ声がしたため足を止めてふり返る。

 声音から予期した通り、歩み寄ってくるサンチェスの姿がそこにはあった。数歩の距離にまで近づいたところで彼は立ち止まる。

 ただし、その視線はこちらではなくその後ろへと向けられているようだ。寸前まで浮かんでいた親しげな笑みが消え、おそろしいものを目の当たりにしたような感情を面に刷いていた。

「いかがなさいました」「う、鬼火(ウィル・オー・ウイスプ)」

 こちらの問いかけに答えたというより独語に近い口調でサンチェスがうめく。視線は相変わらず一点へと向けられたままだ。

 聞いたこともない単語を耳にし在昌は眉根を寄せた。ういる・おー・ういすぷ――胸のうちでくり返しながら、自分の目で確かめたほうが早かろうと視線を前方へともどす。

 すると、視界で炎の塊が踊るのが視界に入った。通りの右手一町ほどはなれた場所で、宙で揺れ動く人魂のごときものが存在するのだ。あれは、在昌はその正体に思い当たる。

「戦乱の哀れな犠牲者がさ迷い出ましたか」

 サンチェスは顔面を蒼白にし、声をふるわせながら言葉をかさねた。日の本の人間から見れば天狗のごとき顔貌をしているが、彼が臆病な性質(たち)であることを豊後に来て過ごした四年ほどの月日で見知っている。

 どうやら、先ほどの鬼火(ウィル・オー・ウイスプ)という言葉は南蛮では人魂を意味するのだろうと在昌は理解した。同時に、当人には悪いが間の抜けた勘違いにおかしみをおぼえ自然とほおがゆるんだ。

「伊留満(イルマン)、あれは人魂のたぐいではありませんよ」

 在昌は声を立てて笑わないよう注意しながら彼に告げた。それでも、声が不自然にふるえるのは止められない。

「人魂ではない」サンチェスは自分が笑われていることに気づく余裕はなく、うわ言のような調子でそのせりふを口にした。

「提灯、灯りですよ」「ちょうちん、灯り」

 ふたたびぼんやりした声でこちらの言葉をくり返し、彼はやっと事態を理解したらしく安堵から肩を大きく上下させた。とほうもなく遠い土地から神の教えを広めに来た彼らでも怖いものがあるらしい。しかも、それが人魂とは。

「それで、なんの御用でしょう。なにか用事があって参られたのですよね」

「例のやり取りが気になりましてね。なにか相談に乗ることができるのであれば、と追いかけてきたのです」

「ああ、その件ならもう大丈夫です」

 気づかわしげな顔をするサンチェスに、在昌は微笑を向ける。

「そうですか」少し拍子抜けしたようすを見せながらサンチェスはあごを引いた。

「それでは、お気をつけて」

 彼は一礼して敷地を引き返していく。相変わらず切支丹の教え自体にはさほど強く惹かれない在昌だが、彼らのこういうやさしさにはやはり感じ入るものがあった。みながみなそうではないが、日の本の僧の多くが歴史の流れのなかで忘れてきたものを、伴天連(バテレン)は立場の上下に関係なくみなが持ち合わせている。

 サンチェスと入れ替わりになる形で、ひとりの男が在昌のもとにやって来た。

「迎えに参ったぞ、勘解由小路氏(うじ)」

 先ほど、サンチェスが人魂と間違えた提灯をたずさえた仁右衛門が、のんきな表情で声をかけてくる。自分が異国の者に恐怖を与えたことなど知るよしもなかった。

「ご足労願ってすまない。されど、何ゆえにわざわざ」

「貴殿の妻女が、帰りが遅く心配だ、と申してな」

 おっとりとした口調だが、有無をいわせぬという独特の態度でほのが頼む様が目に浮かぶようだ。その相手がほんとうは下男ではなく、織田家に仕える透波なのだから笑えてくる。

「それはもうしわけない」

「なに、血腥(ちなまぐさ)い忍び働きをはなれることができるのなら、下男をつとめるのも悪くない」

 在昌の謝罪にも仁右衛門はまったく気にしたふうもなく応じる。冗談めかしているが半分以上、本気のせりふに思えた。まことに風変わりな透波だ、在昌は苦笑を浮かべ何気なく提灯に視線を移した。

 確かに闇で動く様は人魂にも見える。真の闇に閉ざされるこの時代の夜は、透波などの例外をのぞいて数間先になにがあるのかさえ見通すことができないものだ。

 されど、神に仕える身であれほどおびえずともよかろうに――サンチェスのおびえぶりを思い出し在昌はおかしみがよみがえるのを感じた

 おびえ、灯り――その瞬間、ふたつの事柄が脳裏でむすびつく。

「仁右衛門。ひとつ、御屋形様に目通りするための秘策を思いついたのだが」

 在昌は仁右衛門に己が思いついた妙案をつたえた。

「ほう、それは面白い」

 中身を聞き終えた仁右衛門は興が乗ったようすで首肯する。

「なしうるか」「しかとはもうせぬが、まず十中八九はいけるだろう」

 在昌の質問に、仁右衛門はまかせておけとばかりに笑みをひらめかせる。

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