第34話
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夜の闇がすべてを呑みこみ、灯明以外の景色のすべてをみずからの色に塗りつぶした刻限。大友宗麟の陣営の円居のひとつに孤影が何気ない足取りで近づいていった。
余人が一見したところで彼に不審を抱くことはできない。家中の足軽の御貸具足をまとっており、背格好の似た者になりすましているからだ。ましてやこの時代の夜は後世の者が想像するよりはるかに暗い。篝火の側に立つか、よほど至近距離で顔を直視されない限り疑われることはまずないだろう。
幔幕の内側がやや騒々しい。陣中のことでは内にいる者たちが「今日の槍働きには素晴らしいものがあった、これはその褒美だ」と宗麟からの品だとして届けられた酒をかっ喰らっているのだ。
むろん、毒見はしただろう。だが、飲んだ者になんの異常もなかった上、戦で神経が昂ぶっていれば我慢できずに酒を過ごすのは必然だ。俺の思惑通り――陣笠の下で透波は嗤(わら)った。
こたびの眼目は幔幕の内にいる者を仕物にかけることではない。そもそも、ここにいるのは大友宗麟でもなければ重臣などででもない一土豪だ。そんな者を殺してみたところで大勢に影響はなく、かといって大物を仕留めるにはそれなりの準備がいる。
「こたびもまた大勢の士卒が散ったの」
「かような戦をくり返せば国中に骸があふれる仕儀となりましょう」
年配の者の声に、それよりは幾分か若い声色が応じた。
「かもしれぬの。毛利陸奥守は手強い、筑前で反旗をひるがえした者たちとは違う」
「御屋形様は毛利など成り上がり物に過ぎぬ、などともうされておられるようでござるが」
「成り上がり者であろうが、力を持った者が打ち勝つのが当世の、戦国乱世の習いともうすのだがの」
「公方様に進物を贈り九州探題に御屋形様は任じられたが、権威だけでは乱世の波を越えることはできぬことを承知しておいででござろうか」
「権威などくそ喰らえじゃ。同紋衆の奴輩めわれらを見下しおって」
「殿、お静かに。声が高(たこ)うござる」
そのやり取りを幔幕から少しはなれたところで耳にし、透波は口角をつりあげた。闇に跳梁する者として鍛えられた彼の聴覚をもってすればすぐ側まで近づく必要はない。
国人のおもだった叛乱者は討たれたがそれでも同紋衆への不満が消えたわけではないのだ。透波が確認した限り、先のような会話がくりひろげられているのはここだけではなかった。
大友家、けっして隙がないわけではない――透波は満足しながら、円居を音もなくはなれ誰に気づかれることもなく闇へと消える。
三
ふたたび、鎮西の地を踏むこととなったか――戦を間近にし改めて、吉川元春は感慨深い思いを抱いた。
毛利と大友家は以前、合戦へとおよんでいた。周防、長門と豊前、筑前はきわめて近い位置にある。そこに一大勢力が存在するとなれば。生き残るためにも雌雄を決しなければならない、それは戦国乱世においては自明の理だ。こうして戦は始まり永禄三年には毛利氏が鎮西上陸を果たした。以後、激戦をくり広げ、永禄七年に将軍足利義輝の仲介を受ける形で両者は和睦した。
その後、永禄十一年には毛利家は二万五千におよぶ大軍を四国の伊予に出陣させる。厳島合戦とそれにつづく防長経略で河野氏麾下の来島村上氏に助けてもらった恩義があったためだ。これを見殺しにすれば家中や協力関係にある武家の歓心を失うため兵を派遣せざるをえなかった。
そういう事情もあるため、
毛利が鎮西に大軍をつかわすのは先のことであろう――。
大友家家中ではそういう見方が強かった。
が、毛利家は伊予に出征していた軍勢の主力が任を終えて安芸へ凱旋すると、約二ヵ月後には鎮西へと将兵を派遣した。毛利と通じ大友家に反旗を翻した立花鑑載が後詰を乞うたために援軍八千余りを送ったのだが時すでに遅かった。豊前企救郡の三岳(みつがたけ)城主・長野弘勝が大友の大攻勢の噂に恐れをなして降伏してしまい、大友軍が大挙して立花城を攻囲したのだ。その結果として立花城は落城寸前となり、これを救う必要があったのだ。
関門海峡を渡った毛利の軍勢はまず叛将が拠る三岳城を怒涛の勢いで攻撃した。数万におよぶ毛利の軍兵に囲まれた一土豪の城などあっけないものだ。
「かかれ、返り忠いたした慮外者を揉み潰せ」
吉川元春の号令のもと将兵は一気に城へと押し寄せた。
大将の言葉に応じるように、「不忠者に毛利ぶりを見せてやれ」と物頭が士卒を叱咤する声が力強くあがる。
最前列に楯を配し、二番手に鉄砲足軽、徒歩武者、鉄砲足軽といった順で並び、さらに三番手に弓足軽、次に槍足軽がつづいていた。陣形は横陣だ。
圧倒的な数の数の寄せ手に対抗するには余りにもたよりない少数の銃声がひびく。
しかも、放たれた弾丸は士卒の体に達することはなかった。彼らが前面に押し出している竹束の命中し、破砕音はすれどもむなしく谺(こだま)するのみ。
「益体もないわ」毛利家家中きっての勇猛さを露わに吉川元春は生き生きとした表情で叫んだ。
毛利元就はすでに永禄十年のころには、最近鉄砲という武器が戦場に現れて思いがけない被害に遭うから気を許してはならない、と家臣に諭していた。その忠告が実戦で生かされているのだ。毎度のことながら、父上の慧眼には恐れ入る――吉川元春はおのが父の先見の明に畏怖の念をおぼえた。
「臆するでない、目当てをつけ。今ぞ、放て」
号令のもと、一方の毛利からも銃声があがる。散発的ではあるが、土塁などにとりついて城兵の一部を殺傷して彼らの動きを制限するには充分だ。
さらに、
「石と矢を間断なく放ち、敵の動きを封じよ」
吉川元春の下知が陣太鼓のとろどきによって伝達される。
とたん、風を切る音が無数に起こり、まるで嵐の夜のごとく風が激しく鳴った。それはまるで驟雨だ。数千に及ぶ士卒が放つ石、矢の前には城の守備の者たちは身じろぎすらできず物陰に張りつくしかない。
一方、毛利の軍勢は頭上を飛び越える石と矢のもとをほとんどなんの障害にさらされることなく城へと距離を詰めていった。槍穂のなす列が陽光にかがやく海原のごとくうねる。
堀を越え、土塁をのぼり怒涛の勢いで城兵へと襲いかかる。
悲鳴と怒号、矢玉が飛び交い、刀槍がきらめいてあちこちで血煙が生じた。
性根のすわらぬ者など所詮はこの程度、吉川元春はやや物足りないものを感じたがすぐに思い直す。戦はまだまだこれから――大友家家中の綺羅星のごとき将士がこれからの戦いでは待っているのだ。それを考えると楽しみでしかたがない。
それからまもまく、三岳城はあっけなく攻め落とされた。
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