第33話

 その日の夜、在昌は豪農の屋敷の一室で信長につかえる透波である仁右衛門と顔を突き合わせていた。仁衛門ははふだん在昌の従者ということで行動しているが、大友家の陣立て訪問に当たっては七方出で行商人に化けて戦況などの仔細について聞きまわり忍び働きをしていた。

「して、いかがであった」在昌は待ちきれない思いでたずねる。

「いやはや、毛利は本気で大友家の所領を奪う存念だ」

 童を思わせる笑みを浮かべて仁右衛門は応じた。これはなにもこたびだけのことではなく、いかなるときも彼はこんな態度を崩さない。京で在昌に危機を報せたときですらかような表情を浮かべていたのだ。

「本気、とは」

「毛利方の軍兵の数は四万ともいい、屋形である毛利陸奥守みずからも長府に本陣を敷き総大将として指揮をとっておるとか」

 陸奥守当人が。在昌は慄然となってつぶやく。

 大友家にとってはまさに未曾有の危機だ。今までの、土豪をそそのかして大友宗麟の力を削ごうとしてきた動きとこたびのそれはあきらかに一線を画している。生半可なことでは退けられないだろう。

 されど、こたびの一件こちにとっては好機――功を立てれば大友家で成り上がる端緒ともなりうる。

「むろん、御屋形様も黙ってはいまい」

「さよう、総がかりで陸奥守に挑む所存であるとか。約定を違えての出兵、腸を煮えくり返させておろう」

 永禄七年七月に毛利と大友の間では講和が成立している。戦国乱世のさなか、それも謀略の名手である毛利元就のことだから約定を破ることなど容易く予想できるはずだが、柳営に働きかけ次々と近隣諸国の守護職となるなど権威、形式を重んじる傾向の強い宗麟にはそれが予測できなかった。

 さればこそ、こちの知略ここにありと示さねばならぬ――そのための策はすでに在昌の脳裏にあった。きっかけは他でもない毛利陸奥守のとっている軍略だ。借刀殺人(しゃくとうさつじん)の計。

 しかし、在昌はあくまでもたんなる一切支丹でしかない。手足となりうるのは仁右衛門ひとりで、しかも彼も意のままに動いてくれるわけではないのだ。ために、結果を出すためには秘策を宗麟か、彼の耳に入れることのできる立場にいる者に伝えねばならない。

「無理はいたさぬほうがよいと思うが」

 仁右衛門が笑みを保ったまま告げた言葉に、智恵をめぐらせていた在昌は我に返った。

 透波だけあって、彼は在昌が胸に抱く野心を早々に見抜いている。別段それを非難することもなかったが、さすがにこたびは危うさを感じたのか忠言を口にしたらしい。

 陰陽師の家系に生まれ切支丹となった在昌と、透波の一族に生まれた仁右衛門、特に共通点もないふたりだが交流をかさねるうちに友に近いような関係になっていた。毛利と大友家をめぐる動きについて在昌に報告する義務は仁右衛門にはないが、頼みに応じて彼は嫌な顔ひとつせずに知っていることをすべて明かしてくれた。それこそがふたりの仲がいかなるものか証明している。

 そもそもはとある折に、何気ないようすで仁右衛門が発した言葉に原因がある。

「俺は透波としての生き様に嫌気がさしている」

 おどろいた在昌が事由をたずねると、

「別段、好きこのんで透波の一族に生まれたわけでもないというのに、明けても暮れても人を騙し騙され、殺し殺されという殺伐とした日々、余の者がなにゆえに飽くことなくこの生業をつづけられるか俺には面妖でならない」

 と答えたのだ。

 己の境涯というものに疑問をおぼえる、その姿勢に在昌は仁右衛門に強い共感をおぼえた。

 これまで、さような存念を持つ者と出会ったことは信長を除いてはなかった。

 感動にも近い思いがこのとき在昌の胸には去来した。

「命あっての物種ともうすぞ」

「むろんだ。こちは妻を幸せにせねばならぬからな」

 仁右衛門に対し、在昌もまた笑みを浮かべて応じる。

 前のめりになって視界がせばまりつつあったが、この透波のお陰で常のそれをとりもどすことができた。わざわざ口のするのも面映くそのつもりもないが、言葉では言い尽くせないほどの感謝の念を在昌は抱いている。

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