第31話
小さな悲鳴で我に返る。
自然と足を止めていた彼の視線の先、店の主が子どもを殴りつけたのだ。ようすからすると命まではとりそうにないが、手足をへし折るぐらいのことはしそうだった。
それを認識したところで彼は別段、義侠心に駆られたりはしない。凪いだ水面(みなも)と変わらぬ、彼の心持ちはそんなものだ。
が、それでも。それでも、みずすましが水面(すいめん)で動いた程度の“小波(さざなみ)”が心に起こった。
彼は店の主と距離を詰める。淡々とした足取りであくまで自然に。
だが、さすがに手のとどく距離に男が近づけば主も注意を向けないはずはない。なんだ、なにか文句があるのか――そんな顔つきでこちらを見やる。
電光の速度で男の腕が動いた。ふところに滑り込んだかと思うと店の主の、胸骨下のくぼみへと走る。次の瞬間、相手は命を失った。消えかけのろうそくの火を吹き消すよりもあっけなく。
心臓を下から縦方向に棒手裏剣でつらぬかれたのだ。
相手が倒れる前に男は相手をかかえ、店の内、壁へとよりかからせた。
一瞬、怪訝な目を向ける者もいたが、外からは死角になってまさか白昼堂々人が殺されたとはわからない。
ただひとりを除いては。
すなわち、
「小僧」
彼はかたわらで瞠目している男児へと声をかけた。恐怖のせいか細い笛の音のごとき息を彼はもらす。
「侍が国を切り取るのが是で、お前が物を盗むのがなぜ“否”なのか、承知しておるか」
唐突な質問に子どもの顔から恐怖がうすれいぶかしげな色が浮かんだ。
「どちらも人から勝手に“奪う”ことに変わりはない。だのに、なぜ侍は許されて、お前は許されない」
彼の問いかけに男児は首を左右にふる。
「それは力がないからだ。力ないから腹を空かせている。力がないからなにも得られない。力がないから余人に虐げられる」
それは母を失ったのち、住処すらも追い出されてやけくそで忍び込んだ先の屋敷で彼を捕えた透波が口にしたせりふだ。それ以後、盗人としての天稟を気に入られ、幼いころから修行に入るのが彼らの慣例だが例外的に透波として仕込まれた。忍術というものの源流のひとつがもともと盗みにあることを考えればある意味それは自然なことだ。
彼は肩をそびやかし子どもに背を向ける。高説を垂れたところで男児に男のごとき天稟でもそなわっていない限り、以後も無事に生き延びるのはむずかしいだろう。あるいは、彼が子どもに透波の業を仕込めば別かもしれないがそんなお人好しの真似など自分の師でもあるまいしするつもりはない。
当の師を殺した身でありながら彼は皮肉に考えた。
自分に充分な力量が身についた、それを自覚したから口うるさい師の口をふさいだ、ただそれだけのことだ。
母を失ったあのときから、彼にとって他者というのはその程度のものと化している。人がなぜ道徳や法度を守るのか。それはそれらを遵守することでみずからもまた守られるという事実があるからだ。
ではそこからこぼれ落ちた者はどうすればいい。悪に走る以外の道がどこにある。
ただ目の前に広がるのは夜陰、暗黒、常闇ばかり。
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