第30話
天稟というのだろうか。気配を殺すこと、身のこなしの軽さなどといったものがおのずからそなわっていた。だから、誰かに捕まることもなく寺や武家の屋敷に忍び込んでは米や食い物を漁り、さらに金に換えられる物を持ち帰るということをくり返していた。
そのことに母が気づかなかったはずはない。
だが、幸のうすい顔立ちをしたこの女性はどこか物悲しげな表情を見せるだけで息子を止めることはしなかった。
元は昇殿を許される身分の公家の娘、とも酔って帰った母の口から聞いた憶えもあるがそれが真実なのかは知らなかった。知りたいとも思わなかった。知ったところでなにが変わるというのか。貴き血筋の流れを引くのだから、と矜持を抱いたところで、そのとうの公家たちが没落し京で生活できずにおのれの所領に落ち延びる、あるいは武家の保護を求め京をくだるという有様だった。公家の血筋だと胸を張ったところで余計にみじめになるだけだ。
一時は、「偉いお公家の旦那に気に入られた」と喜色満面の笑みで報告する母に期待もしたが、暮らしが豊かになるどころかはらまされて子を産んだかと思うと用なしとばかりに屋敷を追い出され母は帰ってきた。
肥立ちが悪く母の顔は蒼白だった。この頃になると、幸がうすいというよりも半ば鬼籍に入っているような有様だった。そんな状態の母を抱こうという男は少なく、それでもなんとか客を得ているうちに性質(たち)の悪い病をうつされることとなる。
次第に日中から床に伏せるようになり立ち上がることすらもできなくなった。
母上――まともに自分を食わせることができずとも母は母だった。
公家の娘だったという教養ゆえか、『源氏物語』『伊勢物語』といった物語を時おり聞かせてくれるのだが、そのときの輝くような笑みが彼は好きだ。
だが、病のせいでその笑顔すらも形づくれなくなる。
必死に母を救おうとした。しかし、そのころになると手当たり次第に盗みに入っていたつけがまわってくるようになる。どこもかしこも警戒が厳しくなったのだ。彼の業前を持ってしてもなかなか忍び込めなくなった、それこそ透波なら話は別だろうが。
幾度か不寝番の牢人につかまりかけ、一度は太刀の刃先がかすめて背に裂傷を負わされる始末だった。
そうこうしているうちに母の顔に死相が浮かぶようになる。
医師でなくとも一目見れば明白だった。一刻の猶予もない。精をつけるために食べ物をはこんでいる程度では追いつかない。このままでは母の命が手のひらからこぼれおちてしまう。
なにか、なにか――手立てはないか、と頭をひねる彼の脳裏にひとつのひらめくものがあった。
母を孕ませた男――。
母の血を半分引く子を育てているのだ。それに情をかけた女人が死にかけているとなれば、あるいは。甘い了見かもしれないというのは承知の上で、以前、母から聞いていた相手の名を頼りになんとか住処を探し出した。
下男に用件をつたえるとすぐに入れ替わりにひとりの男が姿を現す。
住処を見る限り決して内証が豊かとは思えないが、それでも盗みでしか生計(たつき)を立てられない自分よりはまし、そんなことを考えながら彼は口を開こうとした。
刹那、眼前になにかが電光の速度で現れる。それが激突した直後、やっと事態を理解した。
殴られた――その衝撃が突き抜けたように、頭がまっしろになる。
白髪混じりの気むずかしそうな顔をした男に容赦なく顔面を殴打されたのだ。あまりに魂消(たまげ)げたせいで足から力が抜けて踏ん張りがつかずに後ろに転がる。
「銭(あし)でも催促に来やったか。薄汚い遊び女の子の分際で歴史ある我が家に近寄るなど言語道断」
声をおさえて怒鳴り、男はさらに暴力をふるった。思い切り蹴りつけてきたのだ。
痛いというよりも信じられない思いがする。
一度、二度と蹴られるうちのみずおちに蹴撃が入った。それで息ができなくなり、目頭が熱くなる。すぐに涙がこぼれでた。この段になってやっと思考の麻痺が抜け、みじめさやくやしさがわきあがって叫び出したいような心持ちにさせる。だが、呼吸が乱れてそれも叶わなかった。
そんな彼をにらみつけ、
「二度と姿を現すでない」
一方的にこちらを足蹴(あしげ)にしておいて男は門を閉ざす。
用件を告げることすら許されないのか――ただ、無力感と痛みだけが彼には残された。
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