第9話

 所用があり、嫌々ながらも在昌は父のもとをおとずれていた。

 ところが、呼んでも誰も出てこない。しようがないためくぐり戸を使ったのだが、抵抗なく戸が開いたのだ。怪訝に思いながらも在昌は大声で人を呼ばわりながら家屋へと近づいていく。

 濡れ縁まであと少し、というところで彼は錆を思わせる臭いを鼻腔に感じた。

 まさか、と不吉な予感をおぼえる。兵法の稽古の折、同門の者が木刀を受け損ねたときに同じ異臭に接したことがある。

 濡れ縁に程近い、部屋の床の上にひとりの人物が仰向けに寝ていた。

 いや、死んでいた。寝ていると思いたかったが、それは叶わない。全身を切り刻まれ血まみれになって倒れている者が眠りについているわけがなかった。

 そして、そのかたわらにはひとりの男が佇んでいる。

 彼はこちらにゆっくりと顔を向けて口角を極限まで吊り上げた。


 在昌は無理やりに追憶を断ち切る。辛い過去を反芻したところでなんの益もない。

 それより、くだんの人物が本当に自分が連想した人間と同一なのか確かめるのが先決だ。ただ、距離が少しある。九間ほどだろうか。さらにくわしく見ようと一歩踏み出しかけたところで、

「お前さま」

 妻の声で我に返った。その寸前まで、まるで身体が宙に浮かんでいるようなおぼつかなさを在昌はおぼえていた。

 ほのの怪訝な顔を確認するも、彼の視線はすぐに先ほどの男へと引きもどされる。

 おらぬ、在昌は不明瞭な声でつぶやいた。

 正直、自分がどんな心持ちなのか自身でもわからない。

 宿業ともいうべきものを己に背負わせた相手、過去の亡霊のごとき男はもしやすると見間違いなのかもしれないと思うとほっとするような心境もある。

 小さくため息をひとつつき、在昌は妻へと顔を向け「なんでもない」と告げた。

 兄の仇らしき男を視野にとらえていた時間はそれほどに短かったのだ。

 見間違いであろう――みずからに言い聞かせるも、先ほどまで感じていたおだやかな気分は消し飛び、病を得たかのように寒気が背筋に張りついてはなれない。

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