異端審問官の来訪_7
「あれは……もう30年近くも前になるのか……」
まだ、俺が小学生だったあの日、
俺はこの世と終わりとも思えるほどの憂いと絶望を抱えて、
一人、とぼとぼと学校からの帰り道を歩いていた。
つい先日までは友人たち数人とはしゃぎながら別の道を帰っていたが
今はその友人たちと鉢合わせない様に、別の道を選んでいた。
俺は3日前、学校でとんでもない失態を犯してしまった。
授業中に、うんこを漏らしたのだ。
クラス中の皆が笑った。
俺が密かに思いを寄せていた、クラスのマドンナだったミヨちゃんも、
腹を抱えて机をバンバン叩きながらゲラゲラ笑っていた。
それから今日まで、毎日馬鹿にされ、蔑まれた。
中には気を使ってくれる友人もいたが、
腫れ物のように扱われるのも、それはそれで辛いものがあった。
橋に差し掛かった俺は、欄干に腕を乗せ、しばらく流れる川を見下ろしていた。
そして、ふと思い出し、カバンに紐でつけていたそれを手に取る。
昔、工作の時間に作った、俺が考えたオリジナル女神、スクウンデスの彫刻だった。
自分にしてはなかなか上手く掘れた、
本当に何か加護をもたらしてくれるかもしれないと、
出来栄えに心酔し、今日まで大切にしていたが
どうやらそんな大層な力は秘めていなかったようだ。
女神の加護など無かったのだと、そう思っていた。
「死にたい……」
気が付いたら、口から出ていた。そして一瞬、本気で自殺を考えた。
だが、自殺の動機がうんこを漏らしたからでは余計惨めではないかと
すぐに思い留まった。
「ねえ、キミ」
そんな時だ、後ろから声を掛けられたのは。
落ち着いた、女性の声だった。
振り向くとそこに佇んていたのは、一言で表すなら、まさに魔性の美女。
女性にしては長身で、スタイルの良さがわかる体にフィットした
黒いワンピースを着て、ウェーブのかかった艶やかな黒髪を
腰のあたりまで伸ばし、体のほとんどが黒で覆われている中、
その所々から覗く白い肌とルビーのような真っ赤な瞳が印象的だった。
「死ぬんですか?」
その女性は突然そんな事を聞いてきた。
「い、いえ……」
ついさっきは一瞬そう考えたがもうとっくにそんな気は失せていた。
そう答えると、
「あら、そう」
と、女性は何とも言えない表情で、穏やかな声を返す。
ここ数日、まともに友人たちと交流できていなかったからか、
俺は声を掛けられた事に、どこか安堵というか、嬉しさを感じていた。
それもあってか、不思議とこの女性にならなんでも話せるような気分になった。
「…あの…実は学校で…」
俺は学校でうんこを漏らしてから今日までの事を、全て話した。
「なるほど、それは、丁度良いかもしれません」
「丁度良い……?」
話を聞き終わった女性は、顎に手を当ててそんな不思議な言葉を返した。
そして、続けてこう言った。
「明日、1日だけ学校を休んでください。
そして明後日学校に行ったら、帰りにまた、この橋に来てくれますか?」
その時は意図が全くわからなかったが、
何故か言われた通りにしてみようという気になった、
もしかしたら、単に学校を休みたかったのかもしれない。俺は承諾した。
するとその女性は少し微笑んだ顔を見せ、去って行った。
次の日は言われた通り、仮病を使って学校を休んだ。
親も俺がうんこを漏らしていたのを伝え聞いていたのだろう。
気を遣ってか、体調について深く追求せず、すんなり休ませてくれた。
そしてその翌日、俺は学校へ行った。
学校へ向かう途中は。だんだんと不安が大きくなっていった。
恐る恐る教室のドアを開く。また罵倒されるだろうか、笑われるのだろうか。
昨日学校を休んだことを、うんこのせいで休んだのかと
からかわれるかもしれない。不安で胸が押し潰れそうだった。
しかしクラスの誰一人、俺をからかう者はいなかった。
みんな普通に挨拶してくれる。うんこと呼ばれる事も、一切なかった。
ただ、少し、騒然とした様子があった。
不思議に思って周りの話を聞いてみると、なんと全員が
ここ1週間ほどの記憶を失ってしまったのだという。
あの女性の事が頭をよぎった。
学校が終わると、俺はあの橋に急いだ。
そこには一昨日同様、黒い服に身を包んだ黒髪で赤い瞳の女性が待っていた。
俺は女性に駆け寄ると、すぐに話を伝えた。
「く、クラスの皆が、うんこの事忘れてて……お、お姉さんがやって、
くれたんですか?」
俺が息を切らしながら言うと女性は
「ほう、という事は、上手く行ったようですね」
と満足そうに微笑んだ。
どきりとするような、綺麗な笑顔だった。
それから今日の学校の事を聞かれ、少しの間2人で話し込んだ。
「じゃあ、私はそろそろ」
一通り話を終えると、その女性は満足した様子で、帰るそぶりを見せた。
「あ…ちょっと、待ってください」
何かお礼をしたかった、何か渡せる物が無いかと考えたが
学校帰りで碌なものを持ち合わせていない。
そこで俺はカバンにつけていた女神像を渡す事にした。
「これは?」
「お、お礼です。俺が昔、自分で作った……その、
女神さまの象です。一昨日までは加護なんて無かったって思ってたけど、
もしかしたらこれのおかげでお姉さんに会えたのかもしれません。
良かったら、受け取ってください」
「ふうん……」
その女性は、それの紐をつまんで手に取ると少し眺めた後、
「まあ、頂けるなら」
そう言って包むように握った。
「本当に、ありがとうございました!」
俺は改めて礼を言う。
「いえいえ、礼には及びませんよ。それでは」
その言葉を最後に、女性は去って行った。
その後で、名前を聞き忘れていたことに気づき、俺は激しく後悔した。
もう一度会えないかと、それ以来学校への行き帰りには
必ずその橋を通る様になったが、ついぞ、その女性と出会う事は無かった。
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