Queen Of Heart
◇
腐れて漂う匂いがする。その匂いは自分自身が嗅ぎ慣れたひとつの死臭だった。
白の中には誰もいない。城門には門番も存在せず、どこまでも静かな空気だけが漂った。疑似的天体である日光の明るさはあるものの、世界は異様に冷たかった。まるで氷の国にでもいるという具合に。
歩けば歩くほどに鼻を刺激する匂いがあった。その匂いに吐きそうになる。くされた匂いは、進度を増すごとに苦しさを比例させていく。明らかな死臭だった。
絨毯に続いて、そうして見上げる世界。城内の中にある世界を視界に入れる。
皮。皮。皮。果てしなく続く皮の数々。それは人の形をしていた。綺麗に人の形をしているが故に、その皮膚がアリスだということを理解してしまった。
アリスはそれだけのたくさんの数存在していたということなのだろうか。天井に鎖でつながれた皮膚はおびただしいほどにたくさん存在する。それを見て吐き気よりも殺意をこみ上げるのは、俺が騎士としての矜持を抱いているからだろうか。
階段を上がった。階段を上がっても、誰かと出くわすことはなかった。トランプの住人はどこに行ったというのだろう。俺はそれを探すことはしなかったが、どこよりも静かな空間に自分の呼吸を響かせることが異様な孤独を催して寂しくなった。
──カボチャの騎士とは元来孤独な存在なのである。人を求めるからこそ、守護対象を求めるからこそ、その所以はどこよりも独りよがりの存在でしかない。おとぎの国は、だからこそ彼を、俺を笑いの対象として滑稽に腹痛を喘がせたのだ。
アリス。アリスはどこだ。アリスを助けなければ、守らなければいけない。
そうしてたどり着いたのは──。
▽
「……ひどい臭いだな」
竹下は声を部屋に響かせた。
目の前にあるのは一つの頭の割れた死体である。人形を椅子に座らせて、それを神とあがめるように祈りを乞う姿が頭を割らせている。
頭は、鈍器で割られているものではない。死体の手元に強く握られているナイフがそれを綺麗に割っている。頭蓋が見えた、脳が見えた。割れている顔が見えて仕方がない。吐きそうになった俺を竹下は背中をさすりながら抑えていた。
「これは、──自殺ではない」
竹下は語りをあげた。
「いくら覚せい剤を使って混同したといっても、これほどの自殺を見たことはない。あきらかに他者の存在が必要な死だ。これは自殺では断じてない」
「……そりゃあ、そうでしょうね」
自分の頭をナイフで切り割るなど、そんなのできるわけもない。人為的でなければ、それは幻想的ともいえる死だろう。疑いようもない、完全な第二者を想定できる。
──だが。
「誰も、いないんだよな……」
疑えるような人間を挙げるとするならば、被害者の叫び声を聞き、通報をした隣人だろう。だが、隣人の入った痕跡についても、そもそも密室であるこの状況に対しても説明はつかない。
意味が分からない。
誰が、こんなことをしたというのだろう。
◇
「──誰だ」
ひどく醜い老婆の声が空間に響いた。
音を吸い込む民衆は存在しない。騎士たる俺しかここには存在しない。だからこそその声は、空虚に響くことしかできなかった。
その声を上げた女は、こちらに瞳をのぞかせた。ひどく肉を肥えさせた、醜い醜い豚を模した人型の女。老婆。赤いドレスを着て、妖艶さを演出しても、それはどこまでも気持ち悪さを抱かせた。
こいつは、ハートの女王だ。
──ハートの女王、その先にある、少女の姿。
彼女は鎖につながれていた。服はなかった。肌だけがそこに晒されている。
悲鳴は上がらない。その理由をしっかりと認識した。
喉が切られている。叫び声をあげることを世界に許されていない。目をくりぬかれており、その穴をふさぐように、シミターが突き立てられている。皮を剥ぐ途中だったようで、その真皮が顔の一部に存在する。爛れている顔でも綺麗に思わせる少女の存在だ。乳房は切りとられている。そこに女ということを象徴させないように。腹部を解体され、あばらの骨があからさまに露出している。まるで身体から突き出したような、そんな錯覚を覚えるほどに。内臓は女王の横にある皿に盛りつけられている。唯一心臓だけはそこにはない。女王は彼女を生かしているのだ。アリスの中に子宮はなかった。それは彼女が子供を孕むことができないようにしている、一つの女の嫉妬が顕現しているようにも思える。股は槍で裂かれている。それによって咲いた血の花は地面に散っていた。
「ああ、アリス。ハートになることを肯定していればこんなことになることはなかったのだよ? 私は悪くないんだ。アリスが悪いんだよ」
女王は語った。語り上げる。
「キャロルの寵愛を受けたアリス。ああ、アリス。アリスアリスアリス。恨めしいねぇ。貴様ごときがキャロルの愛を受け取れるのがひどくムカついてしょうがないよ。だから、お前も私になればいいのに、それを拒むからこんなことになるんだ」
「……お前はキャロルを愛していたのか?」
「いた……? 馬鹿なことを言うでないよ! いる、だ! 愛しているんだよ!」
女王はまくしたてる。
「あの人は私に役割をくれた。白兎も、チェシャ猫も、それぞれに物語の役割を与えてくれた。たとえそれが下劣な欲望だったとしても、私はそれを愛することしかできない! ああ、アリス! 愛しきも悲しきかな! 私はアリスになれないのだ。アリスが私にならなければ、私の世界は救われない!
そのためにこの女の皮を何度も剥いでやった! 一つの衣替えだ! 人の肌を塗り替えれば、それで私はアリスになれたのかもしれない! 彼女の子宮があれば、私はキャロルの子を孕むことができるのだ! 彼女の内臓! 彼女の眼球! キャロルの愛するすべてが私にあれば、私はアリスなんだ!」
俺は、──ナイフを持った。
「私を殺すのかい? いいじゃないか! それも一つの愛だろう! 私を愛してくれるというのならば、きっと私は幸せなんだ! キャロルにも愛されず、国の住人にも愛されず! そんな醜い私の心を愛してくれるというのだねぇ?!」
「……いいや、殺意に愛は混濁しないさ」
俺は、──分割した。
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