The Faceless Alice

 河を抜けた先にはトンネルがあった。トンネルは人工的な雰囲気を醸し出させる。創作の童話的幻想はそこにはない。おそらくきっとそれは、ルイス・キャロルが生み出した物語の不和が原因となっているのだろう。


 トンネルは木造のすべてで出来上がっている。ある意味無機質な雰囲気を感じる世界、ところどころにかかっている松明が悲鳴を上げている。燃やされるために薪となった木材が、もしくは空間を熱度として広げる異様な空気が周囲の木材を殺そうとしていた。


 呼吸をすることに対しての訝りが生まれてくる。ここで呼吸をすれば、俺は肺に何を取り込むことになるのだろう。このトンネルはどこか異様だ。以前までこの場所があったのかどうかの判断はつかない。俺の記憶はバラバラだった。


 ポタージュにされたときのことを思い出す。それはきっと海馬を破壊された一つの弊害であった。俺をポタージュにしたのは、ハートの女王だったか、それともチェシャ猫であったか、白兎だったのかはわからない。でも、それは確かに人為的な物を感じずにはいられなかった。


 俺は前を向いた。


 かぼちゃは呼吸をしないはずだった。熱に当てられたところで、それに絆される要因はそこには存在していないはずだ。


 俺は、トンネルをくぐる。


 「おやぁ? 歩みを進めるのですね?」


 ……少女の声が聞こえたような気がした。……気、ではない。確かな事実として耳に反芻していた。


 「この先はトランプの国ですよ。貴方のようなカボチャの騎士がここに来ようと偏在する世界の未来に贖うことは途方もなく無遠慮、それはきっと今の仇となったお菓子の家へ!」


 「俺はトランプの国に行かなければいけない。俺はアリスを探すのだ。アリスはどこだ。教えてくれないか」


 声の主は見えない。だが、ひたすらにこちらを笑いながら見つめる視線を感じずにはいられなかった。


 「アリスなんていませんよ。どこにもアリスなんていません。アリスを見つけたいのならば、自分で作り出してしまいなさいよ。それは一つの創作だ。アンデルセンもグリムもそうしたのだ、貴方もそうするべきなのでは?」 


 「俺は創作家ではない。童話を作る要素はない。物語を虚無とする人間が、それらを作ることは世界には許されていない。アリスはこの世界のどこかにいる。ルイス・キャロルはそれを選択していたのだ。だから、俺はアリスを探さなければいけない」


 「あなたの探しているアリスは本当にアリスでしょうか。アリスとは本当に存在しているのでしょうか」


 悪戯っぽい笑みを繰り返しながら、彼女は言葉をつけ足していく。


 「物語には根拠があります。根拠があるから道筋を立てなければいけないのです。ここで疑問となるべきは、アリスが本当に存在している根拠です。存在しないものを探すことはできません。それは『アリス』でしょうか。『アリス・リデル』でしょうか? それがわからなければ、きっと探すことに意味なんてないんです」


 「それは……」


 アリスはどこだ? アリスはどこだ? アリスはどこにいるというのだろう。


 俺が探しているのは、童話のアリスなのだろうか。不思議の国に幽閉された、鏡の可憐な少女の姿。それは現実のものではないだろうか。


 アリス・リデルとは、ルイス・キャロルが愛した存在だ。小児性愛を発揮して、そうして彼女を『アリス』として消化したはずだ。


 アリスとは、誰だ?


 「──アリスとは、ワタシです」


 トンネルの向こうにいる声は、少女の声はそう言った。


 足音が聞こえる。トンネルの空間は相応に広いようだ。反響する足音がさらに反響して、さらに耳を犯すように足音は吐き出されていく。心臓の拍動を確かめるように、そろって現れる独特のリズムが彼女の足音だった。それはきっとアリスに違いなかった。


 少女の姿が、露になった。


 金色の髪をしていた。金色の髪をカチューシャで留めて、目に前髪がかからないようにしている。水色のワンピースを着ている。その上に白いエプロンのようなものがあった。彼女の手元には袋に詰めていたクッキーがあった。それは虹色だった。それぞれが色を醸し出していた、それならば、それは虹として表現されるべきだった。


 「……お前は誰だ」


 「ワタシはアリスです。ワタシがアリスなんです。お気づきになりませんか? ワタシこそがアリスなんです。あなたが求めていたアリスとはワタシなんです」


 彼女は、クッキーを床に落とした。


 彼女の魅惑的な指が水色のワンピースをたくし上げる。その勢いは止まることはなく、そのままするするとワンピースを脱ぐ彼女の姿。彼女は白色の下着を着ていた。子供っぽいと表現するような、そんな下着を着ていた。胸部にそれはなかった。露になる肌が妖艶だった。俺は肉欲に走りそうになった。彼女を壊したいと思った。彼女の肉をナイフでなぞることで、俺の行為が彼女を永遠のものにする快楽を心臓に留めようと思った。きっとそれは性行為に違いなかった。関節ごとに分断したかった。彼女の一部を俺として取り込みたかった。それはきっと世界で唯一肯定される禁忌だった。彼女は首を傾げた。露になった肌が近づいてくる。俺はそれが怖くて仕方がなかった。彼女は指を俺の肌にもってくる。引きちぎれていた人差し指の残骸を見て彼女は微笑んだ。それは一つの小悪魔だった。彼女はそれを見て、指の一つを舐るようにした。味わったことのない快楽が身に余る感覚がする。それに落ちてしまえば、それに堕ちてしまえば、俺はもうアリスを探すことはできない。


 ──目の前にいる彼女はアリスではない。


 俺は左手に握ったナイフで彼女の顔を切り裂こうとした。


 刃は、──飲み込まれた。そこに顔はなかった。暗闇しか存在しなかった。それは無貌と言えるものだった。


 「ねえ? 愛してくれるんでしょう?」


 刃はそのまま行く先を失くして彼女に吸い込まれそうだった。俺は引きづりこまれる手にしたナイフを彼女の顔から取り払って、彼女の首を噛みしめた。


 止め処なく溢れる、文字、言語、言の葉。血のようにあふれる、彼女の中の体液は、すべてが言葉にしかならなかった。


 「貴方しか愛してくれないの。貴方しか愛してくれないのよ。貴方がいなければ愛なんて──」


 止め処なく言葉は溢れ続けた、床に垂れていく物語の一部は、俺には必要のない物語だった。


 「なんだよ、やはり虚無じゃないか」


 俺は笑いそうになった。それを彼女が肯定してくれるかはわからないが、無貌の者はいつの間にか静かに虚無へと消えていた。それはきっと虚無でしかなかった。


 俺は、歩みを進めた。

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