River Of Carroll

 歩くたびに草は足元に絡みついた。俺の歩みを止めようと、蔓が伸びていないことは理解できた。踏まれれば、それに応えるように本能として巻き付いているのだ。俺はそれを思い切りちぎりながら歩いていく。悲鳴の賛歌が聞こえるようであった。


 蛍光色に彩られた黄色の土地を後方の世界に置いておいた。それを目印にすることで、俺が今どこに向かって歩いているのか、どこから歩いているかを把握することができる。花々の死は無駄ではなかった。俺の人差し指の犠牲でさえも、俺は幸福に包まれるような気分だった。


 歩けば歩くほどに視界は暗くなっていく。時折キノコのランプが目に入るが、それは光としては光量が乏しすぎた。ランプという名を恥じるべき存在である。俺はそれでも一応の目印として歩みを進めた。


 そこにあったのは分岐する道のりであった。


 人生とは選択の道のりである。気づけば、後方にあった俺が歩いてきた道のりはすべて消え去っていた。後方にあるのは噂をする木の影と悲鳴を散らした草々の恨み言ばかりである。草は体液を散らさなかったから、視界は鮮明になることはなかった。


 薄暗い世界の中に見出したのは、分岐路の三つの看板である。看板については文字を詳細に見ることはできなかった。光がそもそもここにないからしようがない。そもそも理解させる言語で書いていない。日本語ではなかった、英語でもなかった。もしくはきっと地球のあらゆる言語には値しなかった。


 だが、心配はいらなかった。俺は看板がひとつずつ俺の頭に語りかけてくるのを聞き逃さなかった。


 『この先にあるのは地獄だよ。地獄では皆が苦しみながら生きている。苦しみながら生きることを望むのであれば、この先の道に進んでしまえばいい。永劫ともいえる回帰が君を待っているよ』


 左にある看板はそう俺に語りかけた。


 俺は真ん中の看板を見た。


 『天国! 天国! 天国! ここは快楽至上の世界の一つだ! 世界とは悦楽でできている! 選ぶべきはこの道なのだ! 君が選ばなくとも、ここに世界はありふれている! 心配する必要はない! アリスはここにいる!』


 真ん中の看板は俺にそう語る。魅惑的な提案を繰り返していた。


 人生とは悦楽の連続である。快楽がなければ人は生きることなどできないのだ。それは一つの道しるべと言えるものだった。


 だが、快楽とは一つの毒であり、悦楽とは倫理をなぞる背徳に違いなかった。後ろ髪惹かれる要素はあったものの、俺はそのまま右の看板を見上げた。看板は語りたくなさそうだった。


 『……ここは虚無だ。そこには何もない。あそこにはなにもない。彼はいない。彼女もいない。男も女も、何もない』


 「そりゃあそうだろう」


 俺は語り上げた。


 「ここに生物は存在しない。物語とはいつだって虚無でしかない。男と女などいるはずもない。ここにあるのはひとつの虚無なのだ。俺は物語なのだから」


 『それが、ひとつの破滅だとしても?』


 物語における破滅とは何かを考える。いいや、そもそも考える必要などなかった。この思考が生じている時点で、これは一つの破滅に違いなかった。この物語は破滅に向かう道なのである。そもそもが物語だ。虚無でしかない。それを考えることはあまりにも愚かで劣悪で、どうしようもない。


 ──この世界はルイス・キャロルが想像し、創造した物語である。アリスを寝かせるために用意した途方もないおとぎの話であり、夜伽の話なのだ。そしてそれは一つの独占欲とも言えるものなのだ。


 世界はキャロルを肯定する。世界はアリスを肯定する。それは、アリスを求めるものを否定する道のりを作り上げるものだ。俺が行きたくない場所こそがアリスのいる場所なのだ。


 『この先には虚無しかない。それでいいんだな?』


 ああ、別に構わない。そもそもが虚無ならば、どうにも意味は生まれない。


 俺は右の道を選んで歩みを進ませる。他の左方にあった看板はひどく残念そうにうなだれていた。


 


 『虚無』の向こうには河があった。それは一つの河川であった。


 河は横に対して無尽に広がりを見せている。つまり河の向こうにおとぎの森の最後があったはずだった。


 この河はキャロルの河だった。止め処なく流れる賛美を意味するこの河は赤色だった。だが、腐食はしていない。ただただ酸いのある香草の香りが鼻腔をくすぐっていた。俺が人であったのならば、きっとそこに溺れて酔気を抱いただろう。だが、それはアリスのためにはならなかった。


 河を渡らなければいけない。川を渡らなければいけないが、俺がここに浸ることはアリスに許されていない。どこか淫らなのだ。妖艶なのだ、この河は。劣情を抱くことは許されていなかった。


 それは一つの性行為である。体液が混ざり合う具体的な交配である。体液の交換は生物として許された至上の快楽だ。それに勝る快楽を探すのは、神からも許されていない。


 歩むべきではない。歩むべきではないが、──この先にアリスはいるはずだった。


 キャロルの河は賛美を求めている。賛美を求めるからこそ、止め処なくそれは溢れてやまないのだ。それならば、賛美を浴びせればいいのだろう。俺は賛美をする。賛美をする。賛美をする。賛美をする。賛美を──。


 『さあ! 賛美を! 創作家たるキャロルに賛美を! キャロルはここに在り! ここに有り! ここにアリ!』


 ──向こうの世界から……、いや、上空から声が聞こえた。


 それは一つの傲慢な自己肯定である。それを他人にひけらかすことはなく、自分自身の世界を他者の存在を介在せずして生み出した、途方もない自己陶酔のひとつだ。それを創作として認めることは俺にはできなかった。


 賛美を? 馬鹿げている。俺は正気に戻った。


 『賛美を! 賛美を! 賛美を! ……賛美を?』


 俺はそれに答えなかった。呆れた世界の物言いに俺は納得することができなかった。物語の立ち位置を理解したからこそ、俺は世界を認めなかった。


 『賛美を……』


 声は弱弱しくなった。


 自己陶酔は他者が入り混じれば、途端に破綻の末路を辿る。心が弱いからこそ自己の世界に閉じこもったのだ、アリスを閉じ込めたのだ。他者の声を聞いてしまえば、そんな世界は崩壊して当然なのである。


 河は、『嗚呼』とだけ呟いて干上がっていった。それはきっと肯定をされたいだけの河だったのだ。


 俺は、歩みを進めた。


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