第拾捌話 我々の行き着いた末路
世界中の全ての戦線で謳われるデタラメな讃美歌に、響き渡るバンシーの絶叫に、世界は混迷を極めていく。衰退しつつあった陰謀論は火元を得て再燃。アメリカでは宗教右派が大々的に活動し、市街は暴動の嵐に包まれている。
「世界各国は今すぐ
「それこそが人類が救われる道である!!」
「無能な政府役員共を引きずりおろせ!!」
「ロシアは神の裁きを受けるべきだ!!」
宗教右派、陰謀論者に共産主義者。ただただ愚痴を言いたいだけの市民に、ロシアの焦土作戦への怒りをアメリカで騒ぎ立て発散する自称エリート。
「俺達は市民を守る警官のはずなのに、どうして市民を相手に盾を向けなきゃいけないんだか......」
暴動を鎮圧する警官隊の一人が呟いた。隊列の警官達の、心の声を代弁するように。
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激情に駆られたルカは、バンシーの嘆きで正気を取り戻す。
あと一歩か半歩。踏み外す寸前で何とか踏ん張れた。エカテリーナのように、壊れることだけは回避できたのだ。
しかし、現状は何も変わっていない。空は黒き月の光でどす黒く染まっている。血のように真っ赤な炎はモスクワを飲み込み、逃げることも許さず命を奪い喰らい尽くす。
少し違うことと言えば、モスクワの上空を曇天が渦巻いていることだ。曇天は生き物のように渦を巻いており、赤黒い稲妻が脈打つが如く、黒雲の隙間で明滅する。
渦巻く黒雲はクレムリン宮殿の真上で空へと昇り、どこまでも暗い深淵を生み出していく。この蓋を開けてはならないと、本能で悟る。底知れない恐怖が意識を蝕み、一度抱いた憎悪すら掻き消していく。
「な、なにが──」
突如、どこからかサイレンがモスクワ市街に鳴り響く。ノイズの酷い不協和音が過ぎて、聞き慣れた声が聞こえてくる。
『ボールド・イーグル!! ルノレクスの討伐は中止、撤退だ!! 聞こえていたらロシア南部のヴォルゴグラードまで撤退を──』
そこまで言って、公共放送用のスピーカーが焼け爛れて音声が途絶える。セルゲイからの撤退命令だ。携帯電話が繋がらないのを鑑みてか、モスクワの公共放送で垂れ流したようだ。
普通なら、守るべき市民を差し置いて、それに目の前で撤退を告げられては暴動も良い所だろう。けれど、もう守るべき市民など居ないのだ。辺りは一面火の海に包まれ、生きていたらもはやおかしい程に炎が盛っている。
それにしても、セルゲイが生きていたことは意外だった。焼き尽くされる市民と、祖父母の死を目の前にしてセルゲイの安否など思考から弾き出されていた。されど、こんな状況では生きていると分かると嬉しいものだ。
「撤退、撤退ねぇ。まぁそれもそうだよね~」
エカテリーナはニタニタと笑みを浮かべたまま口を動かす。
「別に逃げてもいいけど、それでどうするんだろうね。モスクワは全部焼いた。戦線も多分崩壊してる。守るべき者もぜんぶぜーんぶぶっ壊した。もう守るものなんてないんじゃない?」
のらりくらりと身体を揺らしながら、ルカに語り掛ける。
確かに、もはや守るべきものなど無いのかもしれない。無くなるのかもしれない。それでも、エカテリーナと同じように壊れかけた自分に恐怖を抱いたルカは、そうなってはならないという戒めを自身に課した。
底の底から心を蝕む黒い影を振り払い、ルカは踵を返して走る。
今は逃げることしか出来ない。今の自分では、もうどうしようもないのだ。勝てないと、本能が警鐘を鳴らす。逃げろと叫ぶ。だから、逃げるのだ。撤退しろと命令されたからなんて、自分を騙して。
──数時間後、ヴォルゴグラード臨時ロシア政府──
「おかえり」
「よく戻ってきたな」
最初にルカを出迎えたのはサーリヤとイヴァンナだった。サーリヤはともかく、イヴァンナも中々に逃げ足が速い。
「えっと......ただいま?」
「今はそれでいいんじゃないか。一応、ここがこれからの活動拠点になるわけだしな」
ともかく今は休め、とイヴァンナからコーヒーを受け取り、適当に見繕ったパイプ椅子に腰掛ける。
戦争が始まってからというもの、役目を失っていたヴォルゴグラード中央スタジアム。初めて貰った役目は、避難民達を一時的に収容しておく難民キャンプだ。ドーム内は無数のテントと仮設住宅で満たされ、巨大なスタジアムも窮屈に感じてしまう。
ぬるいコーヒーを啜っていると、仮設住宅の群れを掻き分けて、一人の将校らしき人物がこちらに近付いてくる。二名の完全武装の憲兵を左右に連れて、難民キャンプを見渡しながらルカの下へと迫る。
しっかりと着込んだ軍制服。参謀の証たるシンプルかつ
その様子を見るに避難民達への慰問というわけでもないようだ。避難民達は罵声を浴びせるわけでも、喜ぶわけでも、石を投げつけるわけでもなくただただ眺めている。恨み、怒り、喜びも無く、ただただ茫然と。
将校はルカの前に立ち、何やら一枚の紙を取り出す。紙とルカの顔とを交互に見て、将校が口を開く。
「君がパヴロフ・ルカか?」
「そうですけど、何か御用でしょうか?」
ルカは立ち上がり、敬礼する。その様子を見て、将校の表情が緩む。
「そうか、君がルカか」
「えっと、どこかでお会いしたことが?」
聞き覚えのある声ではあるが、ルカは将校クラスの人間と同じ空気を吸った覚えなどない。将校というのもTVでこそ見たことはあれど、こうして実際に目にするのは初めてだ。
「まぁ、初対面ではあるな。ボールド・イーグル」
「ボールド......セルゲイさん?!」
「あぁ、俺がセルゲイ・クズネツォフだ。意外と若いだろ」
調子良くセルゲイは言う。確かに、セルゲイと思えば声もそっくりそのまま。少し違うと感じるのは、無線越しか否かの違いだろう。
それにしても予想以上に若く見え、若いと自慢気に言うだけはある。将校と言えば基本的には五〇過ぎのイメージだが、セルゲイは三〇代に見違えるほど若く見える。
「い、生きてたんですね......」
「件の作戦の後、ヴォルゴグラードに転属になったからな。運が良かったぜ」
将校らしくもない砕けた口調に、やや大げさな所作。将校としても、かなり若そうだ。
「ま、兎にも角にも話があって来たんだ。全員、諸々の説明があるってことで、ついてきてくれ」
「分かりました」
コーヒーを適当に流し込み、ぞろぞろと難民キャンプを、スタジアムを抜けていく。そうして着いたのは、ヴォルゴグラード臨時ロシア軍参謀本部の作戦室だった。憲兵を部屋の外で待機させ、セルゲイが口を開く。
「そんじゃ、現状を報告するとしよう」
ロシア全土が描かれた巨大な地図を引っ張り出し、セルゲイは地図へと様々な情報を書き込んでいく。
「まずは戦線の大幅な後退。ロシア戦線全域での大攻勢──ユーラシア大攻勢でロシア戦線は崩壊。また、フィンランド北部国境でも同様の大攻勢が見られ、同じく戦線が崩壊。撤退に成功したロシア、フィンランド軍を主体とし、北極海方面の沿岸守備隊からもいくらか引き抜いて、ウラル山脈とヴォルガ川沿いに防衛線を再構築した」
それまでの砕けた雰囲気とは打って変わり、セルゲイの眼光は鋭く、表情は硬く険しい。参謀らしいその姿に、ルカはやや度肝を抜かれてしまう。
「加えて、全戦線で生き残り撤退に成功した兵士から、火山弾に酷似した火の玉が降り注いでいるとの報告も受けている。参謀本部はこれを敵の砲兵部隊による攻撃と仮定。砲撃を担当する未確認種を
敵が砲撃に類する攻撃手段を手に入れたかもしれない。その可能性があるだけで、今後の防衛や戦略にかなりの支障をきたす。これまでの敵の攻撃は杜撰で、数に物を言わせての正面突破。
戦略も戦術もクソも無いようなゴリ押しの攻勢だけでも、ここまで追い詰められているというのに、そこに砲兵が加わってしまったのだ。
現代における先進国──NATOや国連軍ですら、文字通りの意味での全戦線を防御は不可能。それに対して、全線戦への同時攻撃が可能な
そもそも、敵に工場や司令部などと言った生産、指揮系統を司る施設があるかどうかすら不明なのである。そこらの大地から生えてくるというわけでもないだろうが、実際敵がどんな補給体制、指揮系統の下に活動しているのかは黒いベールに包まれている。
叩くべき重要施設は存在せず、インフラレベルに依らない未知の補給システム。撤退という概念も無く、文字通り最後の一体まで攻撃し続ける狂気。有限な投入戦力に対して、無尽蔵とも言える敵戦力。
この戦争が始まった時点で、もはや人類の敗北は決まっていたのかもしれない。
嫌な思考ばかりの頭を振るい、セルゲイは説明を続ける。
「海軍も北極第一、第二防衛艦隊が壊滅的打撃を受け、同第三防衛艦隊に統合された。また、艦隊が壊滅した隙を突かれ、スヴァ―ルバル諸島を奪われた。これが決定打となり、北極海の制海権を完全に喪失。アラスカ方面の敵海洋種とも合流するものと見られ、全ての北極海沿岸地域......いつ後ろに敵が強襲上陸してきてもおかしくはない」
スヴァールバル諸島。グリーンランドとロシアの間に位置する島々の総称だ。そこが奪われたということは、敵は北極海における橋頭堡を得たということ。
敵海洋種の動きも、今以上に活発化するだろう。
そして、人類はこれまで敵の強襲上陸を防げた試しがない。初めて敵の強襲上陸を受けたノルマンディーでは、不完全な対策、十分とは言えない戦力、戦争初期の混乱と各国の協調に欠けたこともあり惨敗。
その後も北アフリカ、アラスカ、ノルウェー、直近ではムルマンスクにカレリアと。様々な兵器、戦術を以てして敵を迎え撃つも、水際での敵戦力の撃滅は全て失敗に終わっている。
数多の敗北を重ね、人類が考案した戦術は、そもそも敵海洋種を沿岸に近付けさせないというものだ。そのためにアメリカを筆頭として、戦艦と巡洋艦により構成される打撃艦隊を新たに編成。敵の海洋種を、沿岸地域到達前に徹底して遠洋で撃滅してきたのだ。
「そして、死亡及び行方不明者についてだが......」
セルゲイは少し言い淀む。三人共に目を配り、より一層険しい表情で言い放つ。
「軍人、民間人合わせて約九千万人。うち三千万は避難民と推定される」
「きゅうせん......まん......??」
「これはロシアだけの数値で、国家丸ごと包囲殲滅されたフィンランドも合わせれば九千と四百万」
ルカは驚きを隠せないまま、ただただ告げられた数字を口にする。信じられないと言うように目を丸くして、思考がフリーズする。
さしものイヴァンナも目を眇め、ただでさえ鋭い瞳を更に鋭く光らせる。
サーリヤはいつも通り、張り付けたような無表情だ。
ユーラシア大攻勢の報せが政府に届くな否や、ロシア政府は欧州に含まれる全地域に避難勧告を下達。されども、最前線に近いカフカ―ス方面や中央、北部では避難は到底間に合わず。
「残る領土はウラル・ヴォルガ防衛線以東のロシア領。今現在、ロシアはほぼ全ての領土を失ったに等しい。軍民産業は壊滅寸前とはいえ、ウラル山脈の工業地帯に、ヴォルガ川の重化学工業地域とまだ多少の余力はある。だが、食糧生産に関してはほぼ全滅だ」
避難民を大量に動員し、輸入に頼りつつも、これまで食糧生産は何とかなっていた。しかし、極寒のシベリア地域に追い込まれ、食糧生産は文字通り全滅してしまった。
そして皮肉なことに、九千万人の死によって、食糧生産は壊滅しつつもユーラシア大攻勢以前とあまり変動はしなかったのだ。大量の労働力、工場地帯に食糧生産地域を失いつつも、失っても問題ない程度の人間が死んだのである。
それでも、避難民という最大の人的資源の喪失は軍にとって大きな痛手だ。
「予備兵力もほとんど動員しての防衛線の再構築だ。今現在、軍は必死になって予備兵力を集めているが、全人口の約半数が死んだ今のロシアじゃ徴兵しようにも徴兵できる人員が居ない」
セルゲイの表情から段々と余裕が無くなっていく。瞳は鋭く吊り上がり、冷や汗が垂れている。
「米中政府に陸軍の派遣を打診したが、アメリカはともかく中国は出し渋ってやがった。中国の奴ら、俺らを肉壁にでもする気なんだろうな......」
セルゲイは拳を握り、荒々しく机を叩く。
突然の行為に、ルカはビクっと身体を震わせる。
「ここまで来ても自己保身か?! 次はお前らの番なんだぞ!!」
息を荒く、セルゲイは吐き捨てる。
国家の総力を掲げ、全人類の挺身となっている最前線国家たるロシアと、その後背で時を待ち、少しでも長く安寧を貪ろうとする諸外国。
どの国だって、自国の国民に出血を強いることはしたくない。支持率は下がるし、生産能力だって落ちる。もし戦後があるのなら、戦後世界で不利となる。だからこそ、中国はロシアを巨大な肉壁として使い、力を蓄えようとしているのだろう。現在の防衛戦に、戦後世界の覇権の為に。
怯えた様子のルカを見て、セルゲイは息を整え謝罪する。
「すまない、取り乱したな」
「い、いえ......」
セルゲイは暫し目を閉じて、深呼吸をし、心を落ち着かせる。怒りをあらわにしても、今はどうしようもないのだから。
「さて、一通り現状は伝えたつもりだが、最後に一つだけ伝えておく事がある。どうせ明日の国際新聞にでも載るだろうが、君達には先に伝えておこう」
これまでとは一風変わったオーラを放ち出すセルゲイに、ルカは身構える。
「ユーラシア大攻勢と、モスクワ襲撃の最中。一人の若い参謀がトチ狂ってな......ロシア西部に配備されていた戦略核弾頭を、ロシア戦線全域に無差別に打ち込みやがった」
「かっ......え、大統領の承認とかが必要なんじゃ......」
「その参謀は核兵器の使用を、新たに就任する大統領が事後承認するものとして打ったんだ。全くほんとに、とんでもないことをしてくれやがった」
数百発の戦略核弾頭が、ロシア西部を焼き払ったのだ。抗戦していた各
それに核攻撃で敵の全ての戦力を掃討できたわけでもなく、残存する敵群は進撃を続け、避難など到底間に合わなかった民間人を喰らい尽くしていった。
たった一人の狂気で、ロシアの陸上戦力は半分以下にまで損耗。加えて、ロシア政府は必死に隠蔽を図っているものの、フォールアウト作戦の時と同じようにどうせバレるだろう。
その時何が起こるか。話は単純明快。ロシアの国際的な地位は失墜するだろう。レンドリースと食糧援助は人道上の観点から続けてもらえるだろうが、今後ロシアは国際社会からの信頼を取り戻す必要がある。
そして、国際社会の信用を取り戻すため、ロシアは火中の栗を拾わされることになるのだろう。
かつての超大国、ソビエト社会主義共和国連邦は崩壊。資本主義者の策略で経済は破壊され尽くし、大祖国戦争の英雄たる赤軍も消え失せた。国土を削られ、失い、周囲を敵に囲まれて。
再びロシアが大国として返り咲いたと思えば、
溢れ返る避難民、圧迫される軍民産業にギリギリの食糧生産。軍隊は一日で一万人を容易く消費し、国庫を貪っていく。
メギドの火を放ち、それでも敵の攻勢は止まず、今度は大陸と海の全てから攻撃を開始。軍民産業も食糧生産も壊滅的打撃を受けて、経済は崩壊寸前。九千と四百万人か、はたまたそれ以上の労働力と人的資源を失って。
もはやロシアは大国ではない。かつての栄光も、超大国として君臨した威厳も無い。金色の鷲は足枷を付けられ、足枷から解放されたと思えば嘴を砕かれ、翼を捥ぎ取られ。極寒の大地に追い詰められ、もはや再び羽ばたくことも出来ず。
ロシアは自分で立つことも出来なくなってしまった。こうなっては国際社会の慈悲に縋るほかない。そして、国際社会の慈悲を得る為に、ロシアは更に血を流すのだろう。
ロシアは、ロシアと呼ばれた大国は、この日この時、国際社会の傀儡と成り果てる道を自ら選んだのだ。
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