第拾壱話 バベル、バベル、バベル

 ルカも眠りにつき、サーリヤも未だ最前線で警戒待機中の午前四時。イヴァンナは情報収集のため、わざわざ胸元から上を大きく露出させた瀟洒しょうしゃな衣装に身を包み、モスクワ参謀本部近くのナイトクラブに訪れていた。


「お、今日も来たのかい? ナターシャ」


 声を掛けてくるのは見知った顔のバーテンダー。休みの合間を縫っては行き着けていた甲斐もあり、今では愛称で呼ばれる程には良好な関係を築けている。


「えぇ。外の殿方では満足できませんから」


 イヴァンナ、もといナターリヤとして言葉を返す。キャラ付けは妖艶な雰囲気のお姉さんといった具合。


 バーテンダーは苦笑いを浮かべ、肩を竦める。


「あんたを相手にする男はさぞ大変だろうよ」

「私の心配はしてくださらないのね」

「冗談キツイぜ」


 そうして入場料を払いホールへと向かう。


 デタラメな極彩色のフラッシュライトが目を焼き、ホール全体に重低音の不快なビートが響く。リズムを刻むビートに合わせ、ノリにノって様々な人間が踊り狂っている。


 ヤニ臭さの残る酒クズに、賭博にかまけてばかりのギャンブル中毒者。ポールダンサーの色香に惑わされ、金を撒き降らす俗な男共。へそに太ももまで。大胆に素肌を露出させた女だらけで、そこら辺の男に声を掛けては店を後にしている。


 ソ連崩壊直後に、戦時ということも相まってやたらと治安が悪い。


 だが、こういう所には大抵一人は居るのだ。エスカレーター方式でうっかり将校になってしまっただけの不真面目な輩が。下調べも済んである。あとはターゲットの好みを演じてお近づきになるだけだ。


 そして、ターゲットを見つけた。奥の方に併設されたカウンターテーブルで、カクテル片手に女と談笑、もとい乳繰ちちくり合っている。軍服こそ着ていないが、この俗っぽいナイトクラブでは筋骨隆々の肉体に洒落たスーツは異様に目立つ。流石に軍服ではマズイとでも思っていたのだろうが、詰めが甘く、プライドが滲み出ている。


 言い寄ってくる男共を適当にあしらい、人混みを掻き分けてターゲットの元まで向かう。


「貴方、もしかして軍人さんかしら?」


 フランクに、ごく自然に声を掛ける。ターゲットは何も疑うことなく、ナターリヤとしてのイヴァンナを見て鼻の下を伸ばす。ついさっきまでターゲットの相手をしていた女は離れるのを渋っていたが、ターゲットが札束を握らせると驚きつつも立ち去って行った。


 イヴァンナはさっきまで女が居た席に誘導される。


 当たり前かのようにターゲットがイヴァンナの肩を抱いてくる。


「そういうのはまた後で、今はお話しましょ?」


 相手の嗜好に沿った返答をくれてやる。流し目で、色っぽく諭す。ターゲットは一瞬固り、これは失敬、と言って肩から手を離す。


 軽く自己紹介を交わし、グダグダと会話を重ねターゲットの警戒心を解いていく。徐々にヒートアップしていくビートとホールの熱狂に合わせ、イヴァンナも多少のスキンシップは多めに見てやる。


 酒を勧められれば快諾し、こちらも飲ませターゲットを酔わせていく。不真面目野郎とはいえ、ここまで登り詰めるだけあって口は堅い。酔わせて判断力を奪い、イヴァンナの身体を褒美に一歩ずつ、着実に厳重な理性のタガを外していく。


 それから二時間。


 たっぷり話し込んで酒を飲ませて酔い潰した。ターゲットは元空軍将校。空軍に関する情報をいくつか吐かせることができた。


 纏めると、ロシアが対艦ミサイルの運用を開始したこと。その対艦ミサイルを運用するため、ミサイルキャリアーとしてロシア空軍臨時航空隊カノーネが発足。陸軍に転向させられていた元パイロットをどうにかかき集め、状態の良かったトーネード五機に乗せて出撃させたらしい。


 加えて、夜間攻勢の激化に伴い、臨時航空隊を正式な航空隊へと格上げ。カノーネ、ブレイブ、フェンリルの三個飛行小隊から成る第一混成戦闘爆撃航空団として再編。スクラップ待ちのトーネードを再配備して、運用を開始等々。


 中々、飲んだくれにしては有益な情報を色々と絞り出せた。写真も何枚か撮ることに成功し、今後何かあったとしても、これで脅し付けることができる。


 ターゲットはデカいいびきを立てて机に顔を擦り付けている。イヴァンナが飲ませた分の酒代と、ちょっとした置き手紙を添えて席を立つ。


 また男も連れず店を出ていくイヴァンナに、顔見知りのバーテンダーがお勧めの男を紹介してくる。だが、イヴァンナにそういう趣味は無い。必要とあらば純潔も散らすが、好き好んでするものではない。


 そもそも、そういうことを趣味に耽っていてはスパイとして失格だ。


 バーテンダーの紹介を断り、分厚いコートを羽織り店を出る。時刻は午前六時。未だ肌寒い路上を朝焼けが照らしていく。そろそろルカも起床し、サーリヤと交代する頃だろうか。


 停めておいたバイクの元まで歩いていると、正面から男が俯き気味に歩いてくる。男は両手に息を二回吹きかけて、寒そうに手を擦り合わせる。


 俯いていて前が見えなかったのか、イヴァンナの肩に男がぶつかって来た。互いに軽く謝罪の言葉を交わし、渡された封書入りの小瓶をあくびをするフリをして口の中に隠す。


 帰路の途中で軍服に着替え、コートをバイクに仕舞い外套を羽織る。本拠基地周辺はFSBの監視も皆無であり、警戒する必要もあまりない。そうして午前七時になろうかというタイミングで本拠基地に到着。バイクを馬小屋に停め、堂々と正面玄関から帰宅する。


 宿舎兼食堂の別館へと向かっていると、意外にもルカが居た。


「あれ? イヴァンナ中尉?」

「居たのか少年。まだ出撃命令は出ていないのか?」

「はい、まだですけど......」

「まぁまだ夜も明けたばかりだし、奴らも飯の時間か」


 異生物群グレート・ワンに食事が必要なのかは知らんが、と付け加える。


「アルバトフ大尉は?」

「休むって言って、たぶん自室に居ると思います」

「そうか」


 他愛のない会話を済ませ、軽く朝食を取る。朝食とは言っても軍隊らしく、スープの缶詰と長期保存を見越した硬いパン。そして、買い溜めしておいたソーセージ。


 ルカはもう食べていたらしい。一ヵ月とはいえ、兵士としての基礎は出来ている。未だ一六の子供だというのに、案外慣れている様子だ。


 朝食を済ませ、自室で小瓶の封書に目を通す。友達設定の女を通さないということは、急ぎの要件だろう。


 内容はやはり例の製薬会社、ルーノ製薬についてだった。エカテリーナの所属するルーノ製薬、モスクワ薬学研究所に潜入、調査せよとのことだ。


「まぁ、そうなるか......」


 イヴァンナの下には薬学研究所で治療を受けたルカという、最高の情報源がある。イヴァンナに対してこのような指令が来るのは必然と言うべきか。


 ともあれ、出撃命令が来ないうちにルカに話を聞こうと、食堂のバケットから洋梨を二つほど掴んでルカの自室へと向かう。サーリヤと交代した後でも大丈夫だろうが、戦闘で疲弊したルカに話を聞くのも気が引ける。


「少年、居るか?」


 扉を軽くノックすると、ルカが扉を開けて顔を出してくる。


「どうかしましたか?」

「洋梨を買ってきていてな。食べるか?」

「えっ! 良いんですか?!」

「もちろんだ」


 洋梨を一つルカに渡して部屋へと入る。


 ルカの自室は意外にも物が少なかった。机上には日記だろうノートに、僅かにペンが入った木製のペン立て。よく見る市販のデスクライトに、母親らしき人物とルカのツーショットが収められた写真立て。


 ベッドに腰掛けようとすると、ルカに椅子に座ってもいいと案内される。


「じゃあ遠慮なく」


 そう言って洋館に元々あったモノらしき古風な椅子に腰掛ける。


「それにしても、いきなりどうしたんですか?」

「何がだ?」

「いえ、なんだかこういうイメージ無いというかなんというか......」

「愛想が無いとはよく言われるな」


 なんて呟くと、ルカは慌てて弁明しようとしてくる。


「冗談だよ。それより聞きたいことがあってな」


 あまり時間を掛けてもしょうがないし、ルカに付けられた首枷に盗聴器が仕掛けられていたとして対策するのも難しい。イヴァンナが工作員であることをルカに教えるわけにも、盗聴対策で筆談するのもルカに不信感を持たせてしまう。


 だが、何もしないわけにもいかない。盗聴器をジャミングする為の装置は忍ばせている。これが上手く作動してくれればいいのだが......。


「少年が治療を受けていた施設について、何か知っていることはないか?」

「治療を受けた施設?」

「あぁ。エカテリーナと出会った所だ。覚えてるな?」

「覚えてますけど......それがどうかしたんですか?」


 ルカからしてみれば、不可解な質問だ。警戒こそしていないものの、不審に思っているのが感じ取れる。だが、どう聞こうとしても不審なことに変わりはない。それならいっそのこと直球に聞いた方が良いというものだ。


「いやなに、どんなところだったか気になってな」

「どういうところ、ですか......」

「覚えてる範囲で構わない。どんな構造をしていたか、どのくらい人が居たか教えてくれ」

「そうですね......」


 ルカは暫し頭を捻り、薄れ気味の記憶を掘り起こす。


「確か、目が覚めた時は真っ白な部屋に居ました。上下左右に、奥行きも分からないくらい真っ白で、白い光を発しているような。不思議な部屋でした」


 イヴァンナは洋梨を一口齧り、ルカにそのまま続けるよう促す。


「でも、部屋の外──廊下はコンクリートの壁で、配線とかも剥き出しで......通路だけはなんだか工場っぽく見えました。あとは人の気配も全くしませんでした」

「工場らしい通路ならネズミの一匹や二匹、住み着いてそうなもんだが......」


 ルカは自信なさげに頭を横に振る。


「僕自身記憶が曖昧で、あんまり自信ないんですけど......」

「それでもいい。言ってくれ」

「......分かりました。そうですね、ネズミも居ませんでした。そもそも、埃っぽくも無かったですし、今思えば意外と小綺麗な通路でした」


 イヴァンナは話を聞きつつ、頭の中で大まかな構図を組み立てる。


「それと、たぶん地下施設だったんだと思います。エレベーターに乗った時、上昇する感覚がありましたし」

「地下施設?」


 顔や声音にこそ出さないが、イヴァンナは地下施設の存在に驚いてしまう。薬学研究所は仮にもルーノ製薬という健全な製薬会社の施設の一つだ。建物に関する情報は一般人でも入手は出来る。しかし、一般人が入手出来る情報に地下施設の記載は一切存在しない。


 何かを隠しているのは明らかだ。


「そうか......地下施設が......」

「? どうしたんですか?」

「いや、なんでもない。色々教えてくれてありがとうな」


 軽くルカの頭を撫でてやる。


「わっ、ちょっ、そういう歳じゃないですから!!」

「まだ一六だろ? 遠慮するもんじゃない」


 子ども扱いするなと喚くルカをよそに、イヴァンナは頭を撫でる。


 こういうのが好きなんだろ。とでも言いたげな表情で。


 そして、出撃命令のブザーがけたたましく鳴り響く。ルカには悪いが、完璧なタイミングだ。


「そら、行ってこい。少年の出番だぞ」


 うだつの上がらないルカの背中を押し、勇気づけてやる。


 ルカの出撃を見送り、イヴァンナは潜入の準備を淡々と進めていく。替えの服を用意し、己がを命を預ける相棒ベレッタM9を忍ばせる。


 先程の出撃命令は流石にタイミングが良すぎる。恐らくは相手も勘付いている。そう見越して、心持を新たに本拠基地を後にする。ルカとサーリヤの交代までの約八時間がタイムリミット。


 それまでに地下施設への入り口を見つけ、地下施設の隅から隅までとは言わずとも、大まかな内部構造の把握。あるいは何かしらの研究資料の確保が今回の目標だ。


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"ルノレクスよりヒュドラ。作戦開始。繰り返す。作戦開始"

"ヒュドラ了解。作戦開始。目標、クリミア大橋、バクー油田、イスタンブール要塞"


 朝日が差し込む黒海にて、巨大な影が姿を現す。クジラによく似た姿の、しかし二百メートルはくだらないだろう巨大な影は、クジラのように浮上し潮を吹く。


 巨躯の左右におびただしく埋め込まれた泥色の瞳が、気だるげにうごめく。


"ヒュドラ浮上。安全を確保、艦影見えず。作戦に支障なし"

"ルノレクス了解。ヒュドラ、射撃開始、射撃開始"


 その影は背中に生え揃ったフジツボの如き砲口より何かを発射する。


 飛翔体は白い煙を吐きながら、巡航ミサイルのように尾を引いて彼方の空へと消えていく。


"ヒュドラ、自己誘導飛雷タルユー全弾射出。黒海より離脱"

"ルノレクス了解。ドニエプル・ユニットへ伝達"


 人ならざる声が、ドニエプル以西の怪物達の下に響く。


"バベル贄を焚べよバベル主へ謳えバベル神の鉄槌を"

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