第8話 信じがたい事実と、伝えるべき感謝



「なん……」


 たった今伝えられた現実に、頭が追い付かない。

 聞き返す達志の声も、自然と震えていくのを感じる。喉が渇き、思うように声が出ない。


「ことりが……え? 事故、って……」


 冗談……にしてはタチが悪すぎる。そんな雰囲気でもないし、何より十年ぶりに目覚めた息子に、そんな嘘をつく必要性などどこにもない。

 聞くのが怖い。でも、聞かなければいけない……


「……車に、ひかれたのよ。ひき逃げ……だったわ」


 妹の死の原因は、皮肉にも達志が眠る原因となったものと同じ、車にひかれたというもの。しかし達志とのその違いは、事故にあった達志は亡くならず眠っていたが、ことりは……ということだ。

 それに、ひき逃げかそうでないか……ということも。


 今も、ひき逃げ犯は捕まっていないらしい。どうにも、その車は盗難車で、逃げる途中に車を乗り捨てていたとか……

 だが、そんな話は今の達志にとってはどうでもいいことだ。


 ……まさか、目覚めたら妹が死んでいるなど、誰が想像できるだろう。あまりにいきなり過ぎる話に、実感が湧いてこない。

 だって、達志の中では、昨日までおにーちゃんおにーちゃんと笑いながら、後ろを着いてきていたのだ。


「ごめんね、いきなりこんなこと……」


 目覚めたばかりの息子に話すべきか……そこには母の苦悩かあったのだろう。だが、達志は自分よりも、母の心配をしていた。

 父はことりが小さい頃に亡くなり、達志は十年前に眠り、ことりが五年前に亡くなった……ということは。


 母はこの五年を、たった一人で、過ごしてきたということだ。


 それは、どれほど辛いものだっただろう。いつ目覚めるともわからない息子を、娘と共に目覚めるのを信じて待っていた。というのに、その娘を失いたった一人で、眠り続けていた息子を待っていたのだ。

 その心情は、計り知れない。


「……そっか。母さん……ごめん、一人にして。それと、ありがとう、一人になっても待っててくれて」


 なんと伝えればいいか、今はうまい言葉が見つからない。だから、素直に感じた想いを……謝罪と感謝を、告げよう。

 その想いを聞いたみなえの涙腺が、再び崩壊する。声を押し殺し涙を流す母の背中を、そっと撫でてやる。十年前に比べて小さくなった、母の背中を。


 その後は、泣き崩れた母をなだめ、なんとか落ち着いた母との会話を楽しんだ。


 これといってなにかを話たわけではない。なんでもない話をただ、のんびりと。ちなみに、眠っている間髪を切ってくれていたのは、やはり母だった。

 それだけではない。十年も眠っていたにしてはやけに体が動くと思っていたが、日々母が達志の体をストレッチしてくれていた。

 そのおかげで、体は不自由なく動かせた。


 これまでの十年分を埋めるには、短すぎる時間。だが、起きたばかりの息子に無理はさせられないし、自身の予定もあるからと、みなえは一時間ほどで帰宅した。

 今後のことは、先生と話し合って決めるそうだが、詳しく検査を受けて異常がなければ、退院も近いだろうとのこと。


 どうやら今、みなえはスーパーのレジ打ちを行っているらしい。今回、達志が目覚めたことを受けて、仕事を抜け出してきたとのこと。

 生活だけならまだしも、入院中の息子の治療費をそれで払えるのだろうか……と疑問は湧いたが、それを聞くのもヤボというものだろう。


 去る間際、意味ありげに笑っていたのが気になった。


「この後、人が来るからね」


 それだけ。誰かも聞いていない。

 無理はさせられない、と言っておきながら人を呼ぶということは、その人物と達志のふたりきりの状況を作った、ということなのだろう。


 せっかく目覚めた息子との再会だというのに、自分を差し置いてふたりきりの時間を取り持つなどと誰だろう。仕事とはいえ、こんな大事くらい早退しても、文句は言われないだろうに。

 そうも気を遣ってくれる相手。妹ことりでないならば、はて誰か……と思考を巡らせていた。


 その時は不意に訪れる。みなえが去って三十分程だろうか。


「……ん?」


 ドタバタ……と、みなえが来たときに負けず劣らずの足音が聞こえてきたのは。


 その主は、看護師から注意を受けながらも、やはり止まる気配はない。そうして、部屋の前までやってきた人影は、ノックもないままに慌ただしくドアを開ける。

 その勢いのままに、部屋の中へと入ってくる。


 もし着替えの最中だったらどうするのだろうか。


「はぁ、はぁ……!」


 達志は、部屋の入口に立つ人物を見やる。そこにいたのは、赤いふちの眼鏡をかけた、スーツ姿の女性だった。

 急いで来たのだろう、肩を大きく上下させ、なんとか呼吸を整えようとしている。


 肩まで届かないくらいの栗色の髪は"ふわっ"としており、触ったらサラサラ且つ柔らかそうだ。本来ならば、

 あくまで予想に過ぎない。なぜなら彼女の髪は、走ってきたためかボサボサに乱れているからだ。眼鏡はズレ、汗だくだ。


 それでも“綺麗”だと感じるのは、元々の素材が際立っているからだろう。


 スーツ越しにもわかる豊かな胸元に、思わず目が行ってしまったのは男の性だと見逃してもらいたい。短いタイトスカートから伸びる脚は白く、こちらも男の目を引く。

 まさに大人のお姉さん、と表現するに相応しいだろう。

 だが、あまり年上っぽさを感じさせないのは、子供っぽさが残る顔立ち……いわゆる童顔だからであろう。


「……?」


 ここまで目の前の女性を観察してきたが……はっきり言って、目の前の人物を達志は知らない。綺麗な人とはいえ、何故見ず知らずの女性が自分の病室を尋ねてきているのか?

 スーツということは、もしかして仕事を抜け出してまで来たのではないか?


 見舞い違い、という可能性もあるが、女性は膝に手を当て、息を整えながら達志を見つめている。

 部屋を確認する間もなく入ってきたとはいえ、ここまで一心に見つめられてなにも言わないということは、間違いという可能性は少ない。


 つまり、女性は達志のことを知っているということだ。そして、こうも急いで来てくれるほどに心配していたのだと。

 先ほどの母の言葉が彼女を指しているのなら……彼女こそ、達志と知り合いのはずだが。

 達志に覚えは、残念ながらない。


 見ず知らず(俺が忘れてるだけなら全力で謝ろう、と達志は内心誓う)のこんな綺麗な女性が、こんなにも必死になって自分のお見舞いに、と少し嬉しくなったりもした。

 自然と顔がにやけそうになるほどに。


 ……そういった感情とは別に……見覚えのないはずの女性に、達志は懐かしさを感じてくる。


 この人のことは知らないはず……でも、知っているはずだと、お前はこの女性を知っていると、本能が告げる。

 その答えは、女性が発した一言により明らかとなった。


「……たっ、くん……」


 達志を見つめ、まだ息を整えながらも落ち着くように、胸に手を当てる女性。ゆっくりと口を開く。その言葉……“呼び名”に、達志の脳は活性化する。

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