第6話 そこは、わたしの席

「あの、すみません」


 朝の通勤電車の中、わざわざ始発駅まで戻って確保した席で今日の幸運に感謝していたところ、頭の上から声を掛けられ、反射的に見上げてしまう。

「そこの席、譲っていただけないでしょうか」


 しくじった。さっさとイヤホンで耳を塞ぐか狸寝入りでもしておくべきだった。残念ながら、顔を上げて視線まであった相手を無視できるほどの胆力を、私は持ち合わせていなかった。

 いったん視線を斜めにずらし、もういちど相手の顔を経由して、一往復するかたちで逸らす。


 ──仕方ない、立つか。


 正直譲りたくはない。

 が、朝っぱらから面倒なのはもっといやだ。ここから無視するのも理由を聞くのもそれが妥当か判断するのも、余計だ。取捨選択は有限なのだ。

 さっさと立ち上がり、隣の車両に向かう。

 幸い、車内はまだそんなに混んでいない。

 車両の連結部を渡り、ドアを閉じるタイミングで先ほど自分が譲った席に目をやると、まだそのままで座ろうともしていない。


(なにやってんだ、わざわざ譲ってやったのに……)

 好意から発生したわけではないものの、はた目から見れば善行になりえるそれが、無為にされていることにいら立ちを覚えてしまう。


 しても、しなくても、面倒だった。月曜日のはじまりがでは、今週も先が思いやられる。

 当然──、隣の車両に空いている席はなかった。


 翌朝の電車も同じ席に座った。先頭車両の4番ドアから入って右奥の席、そこが私の定位置だ。たまに並ぶ順番で先を越されたりはするものの、ほぼ毎日そこに座れている。

 昨日のことなどすっかり忘れて目を閉じたところで、また──


「あの、すみません」


 昨日と同じ声が頭の上から聞こえたその声に背筋が、ぞわりとする。

 驚いたはずみで顔を上げ、声の主の顔を凝視する。昨日と同じだ。

 ゆらり、ゆらりとわずかに体を揺らしながらこちらを見下ろしている。

「そこの席…」

 相手が言い終わる前に席を立つ。

 

 気色の──悪い。

 

 朝っぱらからたまったものではない。毎日同じ席に座っていたから目をつけられたのだうか。明日からはもう乗る車両を変えよう。不快と不安を怒りで塗りつぶし、隣の車両に移動し終わったところでもとの車両を振り返る。

 威嚇のために睨みつけるつもりだったが、そのもまた、目を大きく見開いてこちらをじっと見つめていた。



 翌日以降、電車を後にずらして満員電車にしぶしぶ乗っていたが、声をかけられた駅に停車するとき、そのの影を車窓から警戒しいしい探してしまう。身動きも取れないほどの密度の車内だというのに。

 

 もし、見かけたとき、私は、どうすればよいのだろうか。

 不安を人ごみに紛れさせて、今日も満員電車に揺られている。

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