椿、心配する

「お兄。」

「うおお!」

電気のつかない暗い部屋で急に椿が出てきたものだから、情けなくも憂は悲鳴を上げて後ずさりした。

「まだ起きてたのか……」

「おはよう……」

もう五時を回っていた。朝だ。

椿が心配で早くに帰ってきてよかったと、心の中でホッとする。

「今日……ごめんなさい。」

憂は一つ、瞬きをして暗がりの中の椿の表情に目を凝らした。

「いろいろ、お店に迷惑かけちゃって。」

あんなに飄々としていたのに、ずっと気にしていたのだろうか。

「いいんだよ、臣と喧嘩でもしたんだろ。」

「……まぁ、そんなとこ。」

「頼ってくれてうれしかったよ、俺は。」

椿は驚いたように兄の顔を見る。

「それに、今日はいつもより店の雰囲気よかったからさ。」

「本当に?」

「また連れて来いって言われたよ。まぁ、それは無理だけど。」

「いい人たちだったね。」

憂は困ったように笑う。

「あそこは、女の戦場だからなんともいえないなぁ。」

「みんな仲良さそうだったよ?」

「椿のおかげかな。」

ふうん、と椿は納得いかなそうに頷く。

「本当に、今日は皆楽しそうだったよ。」

憂はいつもより優しさ五倍増しくらいの笑顔で言う。

「ありがとな。」

憂の言葉は本当に優しかった。


一睡もしなかった椿は謎の興奮状態でその一日を過ごした。

「椿、今日キレキレだったねぇ。」

椿は謎のドヤ顔で答える。

「ありがとっ!」

「守間ー、呼んでるぞ!」

よく通る太陽の声にクラスメイトのほとんどがドアの方に目をやる。

巻かれたふわふわの茶色がかった綺麗な髪だけでもわかる。

米山美夏先輩だ。

「だれだれ?」

葵は身を乗り出す。

「わぁ、みかっちじゃん。」

「なにその呼び方。」と奈乃華。

「今決めた。みかっち、そろそろ守間くんに告るつもりじゃない?」

唐突にそんなことを、しかも声量を調節せずに言うので、周りが一斉にこちらを見た。

「どういうこと?」

唯華が声を抑えて聞く。

「男関係整理してたらしい。」

わかりやすく唯華の眉間にシワがよる。

「身辺整理?」ウケる、と他人事で舞香が言った。

「ねぇねぇ。」

梨乃が廊下に通じる小窓を指す。

「ここ、開けたら会話聞こえるんじゃない?」

言いながらすぐに小窓を開ける。

みんな揃って小窓に近寄ると耳を傾ける。

なんだか気が引けた椿は一番後ろから、でも気にはなるので二人の声に集中する。

話はなんてことのない世間話。

椿も知らない名前がいくつも出てくるあたり、先輩の周りの話なんだろうとも思う。

突然、清臣が話を遮る。

皆が息を呑むのがわかった。

「先輩、俺に言いたいことないですか?」

先輩は目をぱちくりさせた。

すごく演技の上手な女優みたいだ。

「急にどうしたの?」

清臣は少し置いてから言った。

「放課後、校舎裏に来てください。」

みんなが振り向いて視線が一気に椿に向かう。

椿は呆然と立っていることしかできなかった。

清臣は颯爽とその場を去っていく。

一人廊下に立つ先輩の顔には勝者の笑みが浮かんでいた。

「ねぇ、私、今だけは心配性になっていいかな!?」

椿が言うとみんなは揃って頷いた。


中庭の隅のベンチに唯華と椿は腰掛けていた。

「いいの?行かなくて。」

唯華が椿の顔を覗き込みながら聞く。

「放課後、校舎裏で」という清臣の言葉に、その瞬間を目撃しようと息を巻いた葵と奈乃香は、物陰からこっそり覗きに行くそうだ。

「唯華こそ。」

「私はあとで話聞くくらいでいいかな。」

「私も。」

恵那は部活。梨乃は興味ないと言って帰った。

「舞香は?」

椿は側に立っていた舞香に聞く。

「私も用事あるし……」

気にはなるけど、でも見てしまうのは清臣に申し訳ないし、何より心が痛い。

「意外だよね、守間くん。」

「なにが?」

椿が聞き返す。

「なんていうか、恋はしないって勝手に思ってた。」

わかるー!と舞香が身を乗り出していう。

「なんか目の奥で恋愛とか友情とか蔑んでそうっていうか。」

それには椿も同意だけど、瞳だけで伝わるものなのだろうか。

人間って、そんなに繊細な感情を読み取れるのだろうか。

二人の同意を求めるような視線が椿に向く。

「わかんないよ……」

「昔からあぁなの?」

椿は首を傾げる。

そういえば、幼馴染設定だったことを忘れていた。

「長い時間一緒にいてもわかんないことはあるよ。」

「幼馴染って言ってもあれか、特別仲良しってわけじゃない感じか。」

唯華は都合よく解釈してくれたみたいだ。

「そういうこと。」

椿は取り繕うように言った。

「二人は帰らないの?」

舞香が聞く。

「まあ、葵たちの報告だけでも聞いてあげようかなって。」

「本当は気になるんでしょ。」

「そりゃあ……」

舞香がどさりと腰を下ろす。

「私さあ、正直米山美夏のこと、嫌いじゃないんだよね。」

なんてことを言うんだ、と唯華がギョッとしていた。

「好きでもないけど。」

舞香は眉を八の字にして笑いながら椿を見る。

「私の元カレ。あいつ、米山美夏に酷い振られ方してショックで学校辞めたんだから……あいつの顔見なくていいのあの人のおかげだって思ったら素直に恨めないっていうかさ。」

そんなこともあったと椿は少し懐かしく思う。その一件で、椿は舞香と仲良くなったのだった。

「椿、あんたは本当に幸せになりなよ。」

舞香が椿の頭を撫でる。

「守間もさ、あんな女が好きだったんだって、それだけの男だったんだって思って。」

舞香は白い歯を光らせて笑う。

「もっといい男見つけなよ!」

少し痛いくらいの力で肩を叩く。

がんばれ、って感じで。

「じゃあ、私帰るね。」

慌てて、「じゃあね」と言った。

綺麗なカールの茶髪を揺らして、振り向かないまま手を振って歩いて行く。

「舞香ってほんと、忙しいよね。」

唯華は困ったように笑って言う。

確かに、嵐のようだった。

それでさ、と唯華は少し声を顰めた。

「舞香の元カレって、なに?」


舞香の元カレは、舞香のことを好きだったのかもわからない。

ただ、中学生にしてモラハラ気質で、細かいルールで舞香を縛りつけたり、付き合っているはずの舞香の悪口を広めたりしていた。

それにもかかわらず、舞香の「別れよう」という提案には一切応じなかった。

困っていた舞香を助けたのが、当時同じクラスの椿だった。

放課後一人泣いていた舞香を見てしまった。

正義感が強い方ではなかったけれど、その時はどうしても自分と重ねてしまって、見捨てることができなかったのだ。

なかなか強引なやり方で別れても、その騒動は収まりを見せなかった。

今度は椿の方に矛先が向いた。

思えば、今の市野川たちの嫌がらせもこの時からだった。

容姿や体型に関する悪口から、根も歯もない噂まで。

傷つかなかったと言えば嘘だけど、椿の味方の方が多かったからだんだんと気にしなくなっていった。

そんな舞香の元カレは舞香と別れて程なくして米山美夏と付き合った。

しかし一週間で振られた挙句、米山美夏はすぐに他の男と付き合うし、そのために自分のモラハラ気質をダシに使われたことが、彼のプライドを瓦解させた。

悪い噂による周囲の視線にも耐えられなかったのか、高等部に上がるタイミングで彼は外部を受験し、この学校を辞めていった。


「どうやって別れさせたの?」

「合同授業の体育のとき、大声で言ったの……舞香が別れたいのに別れてくれないこと。」

唯華は大きな瞳をもっと大きくしてぱちくりさせた。

「確かに大胆だね。」

「太陽とかはっさんも説得してくれたみたいだけど、それもあってプライド傷つけちゃったみたいで。」

「そんなことがあったのね……」

唯華は本気で悲しそうな顔をしている。

「っていうか、唯華も知ってるはずだよ。」

唯華は少し上を向いて考える。

「そうね、私たち同じクラスだったし。」


一方の奈乃香と葵は興奮気味に廊下を歩いていた。

「うちの椿を選ばないなんてほんとセンスない。」

葵が鼻を膨らませて言う。

「海に行った時はあんなにいい感じだったのに。」

「私たちおいて二人っきりで遊んじゃって……あれで付き合ってないっていうんだったらなんなのよ。」

でもさー、と暗い声の奈乃香が言う。

「椿って恋愛苦手そうだもんね。」

「そもそもあの子、男の人って言うだけで距離置くから……」

「たしか椿って弟いたよね。」

奈乃香が聞く。

「お兄ちゃんもいるよ。イケメンの双子。」

「聞いてない!」

食いついた奈乃香を無視して葵は続ける。

「あんなに男の影なかったっていうのに、守間くんとお似合いでちょっと安心してたんだけどなあ。」

「誰目線なのよ。」

「まあ、東くんが残ってるし!」

葵はあっけからんと言う。

「福本さん、尾崎さん。」

呼びかけられて二人は振り返る。

今まさに話題にした仁がいて、二人は顔を青くする。

「あーえっと……今のはその……」

仁は困惑がちに笑う。

「椿がどこいるか聞きたかっただけなんだけど、なんか都合悪かった?」

二人は慌てて否定する。

「いやいや!なんでもない!」

「こっちもいろいろあって!別に東くんのこと話してたわけじゃ……」

「ばかっ!」

葵を奈乃香が小さく小突いて叱る。

「バレるでしょ!」その瞳がそう言っていた。

「えっと、椿は……」

葵は満面の笑み貼り付けて言う。

「どこかはわかんないけど、学校にはまだいるよ……!」

「あ、私、中庭にあるって聞いたよ!」

奈乃香が言うと、仁はパッと華やかな笑みを浮かべる。

「ありがと!」

爽やかに走り去って行くその後ろ姿に葵は大きく息を吐いて肩を下ろす。

「あー焦ったぁ。」

「誰のせいよ。」

呆れた様子で奈乃香は言う。

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