椿、仕事中
「臣ってさ、意外と饒舌?」
は?と言って舌打ちしてしまいそうなほど不機嫌な顔が椿を見る。
「いや、なんでもないです……」
その勢いにまけて、椿は自信をなくしたように言った。
椿は清臣から顔をそらして歩く。
「でも……」
清臣が口を開いたので、椿は清臣のほうを見た。
「心配したんですよ。」
清臣は、いつも椿のほうを見ない。
椿も視線を前に戻した。
ネオンが目に染みる。少し目を細めて息を深く吸うと、椿はもう一度臣のほうを見た。
「ごめんね、臣。」
二人の間に少しの沈黙が走る。
夜の静けさが、町の喧騒も飲み込んでいった。
「先に、謝らせちゃいましたね。」
なんだ、臣、そんなこと言えるんだ。
椿はあっけにとられたように間抜けな顔をする。
「お嬢の気持ちを何も考えてなかった。」
その言葉に、椿の心にじんわりとした温かさが広がっていく。
「お互い様だよ。」
私だって、ただのわがままであんなこと言ったんだから。
ちょっと、臣が遠くに行った気がして。先輩が自分よりも臣のことを知っていることが許せなくて。
何一つきれいじゃない、ただのわがまま。
「謝れるんですね。」
「こっちのセリフ!」
自分が大人げないって認めるしかないくらい臣は、この世界は椿には優しくて――
「ばーか。」
「子供ですか。」
仲直りなんて、いつぶりだろうか。ごめんね、なんて久しぶりに言った。
喧嘩とは言えないほどお互いに一方的だったけど。
亀裂を埋めるのはこんなにも簡単だっただろうか。
「ねぇ、仕事って、もしかして、さ……」
椿はその先を言わなかったが清臣には十分伝わったようだった。
「今日はイレギュラーなんです。たぶん、若はお嬢に人殺しの助けはさせないと思いますよ。」
椿は胸を撫で下ろす一方で、複雑な心境であった。
私だって、京極の人間なのにな。
「京極は警察に黙認してもらう代わりに様々な仕事を請け負っています。今日もその一環で……」
清臣は足を止める。
「このビルです。」
廃ビルと言われればそう信じてしまえそうなほどの荒廃したビル。
夜の冷たい風が吹き抜けた。
「なにするの?」
「ここは、指定暴力団の事務所の一つです。銃の取引に関するタレコミがあったのでその証拠を押さえます。」
「十分危険じゃん!」
「これでもマシな方です。それにこっちにも、暴れ馬がいますから。」
清臣がチラリと見るので、椿は一瞬フリーズする。
「え、今誰のこと言ったの!ねぇ?」
臣は人差し指をあてて言う。
「静かにしてください。行きますよ。」
「私はなにすればいいの?」
「邪魔さえしなければなんでもいいです。」
「しないよ……」
ビルは消灯されていて暗闇の中を手探りで歩くしかなかった。
でも、清臣は全て見えているかのようにスタスタと歩いていく。
「まって……まって!」
小声で何度か呼びかけて、ようやく清臣は振り返る。
「もっとゆっくり歩いて!」
椿は手探りで歩く。
清臣はため息をついて、椿の方へ戻ってきた。
椿がため息のような息を小さくを漏らす。
驚いたのは、清臣の手が椿に触れたからで、椿はそのまま手を引いてしまった。
「手、出して。」
椿はそこにあるであろう清臣の顔をまじまじと見る。
「はい……」
静かな圧を感じて素直に従うしかなかった。
「この方が早いので。行きますよ。」
清臣はいつもどこか乱暴なのに、椿に触れる時の手はすごく優しい。
優しすぎてくすぐったくなるくらい。
少しだけその手を握り返すと、椿は足を早めた。
それでもなお、椿は音を立てないように引け腰で歩いていたが、清臣は何も言わなかった。
階段を使って三階まで上がる。
深夜の建物内には人の気配が全くなかった。
椿はチラリと清臣をうかがう。
「どうするの?」
「パソコンでも持ち帰ればいいんじゃないですか。」
「そんな投げやりな……」
「お嬢は、バレなければ大成功でしょう。」
はいはい、と肩をすくめて返事をした。
清臣は壁に耳を当てる。
何かを確認すると、
「絶対に離れないでくださいね。」と念を押すように言った。
「はーい。」
椿はあまり乗り気じゃなさそうな返事をした。
清臣が回した扉のドアノブは回ったような気配がして、でも途中で止まった。
鍵がかかっている。
椿が困惑している間に、清臣は慣れた様子で事務所の鍵を開ける。
どう見ても正規品の鍵ではない。
ドラマなんかで見る、空き巣用の万能キーとみた。
いとも簡単に開けられたドアから入った室内は、どこにでもあるオフィスと言った感じだった。
椿の脳内には学校の職員室が思い浮かんだ。
清臣はまず、机の上に無造作に置かれたパソコンに触れる。
暗闇に青白く画面が浮き出るように見えた。
ポケットから取り出したUSBメモリを差し込み、顧客リストというフォルダをコピーする。
「最近の技術ってすごいね。」
なんて、おばあさんみたいなことを言っている椿を無視して、引き出しを開けていく。
「なんか空き巣みたい。」
「大差ないですよ。」
ふと、椿が声を上げた。
「ねぇここ。」
椿はそう言いながらある引き出しを開けようとした。
「鍵かかってるみたい。」
清臣は眉を顰めて引き出しに触れる。
少し力を入れたかと思うと、ベコッ!と大きな音がして引き出しが開く。
椿は驚いて声も出なかった。
清臣は黙々と資料の写真を撮っている。
どこを見ても重要そうな書類ばかりだった。
こんなにうまく行くものだろうか。
そうこうしている間に、清臣はUSBメモリも抜き取って全てを綺麗に片付けた。
「行きますよ。」
清臣が言ったのは、ようやく椿の目が慣れて、暗闇の中、部屋全体が見渡せるようになってからだった。
二人が部屋を出て、真っ先に異変に気づいたのは清臣の方だった。
階段を上がってくる足音と気配。
遅れて気づいた椿も焦りと緊張で身を固くする。
「お嬢、こっち。」
清臣に促されるまま、廊下の暗がりの陰に隠れるようにして、二人は息をひそめる。
清臣の体温がすぐ近くにあって、椿は思わず息を止めた。
「おい、誰かいるのか?」
低い、男の声。
絶対、悪い人だ。
椿は心の中でそう思う。どうかバレませんように、とも。
拳を強く握る。
「大丈夫です。」
清臣の優しい声が言った。
一瞬空耳かと思ったくらい優しい言葉。
そして、清臣の手が椿の手を優しく握る。
心臓は落ち着いていた。
異性と触れたことはなかったのに、今も、非日常な出来事に困惑を隠せないのに。
今は、安心感の方が勝っていた。
「お嬢、いい加減離してくれませんか。」
男は事務所の鍵がかかっていることを確認するとすぐに階段を降りてその場を去っていった。
椿は自分の手元を見て慌てて清臣から離れる。
暗がりでよく見えないが、かなり強く清臣の手を握っていた。
跡がついてしまいそうなくらいに。
「それに、なんでそんなに苦しそうなんですか。」
清臣は呆れ口調だ。
「ずっと息止めてたから。」
打ち上げられた魚のようにおぼつかない呼吸で椿は言う。
「言葉を選ばずに言うと、バカですね。」
さっきの優しさはいったいどこへ行ってしまったのか。
『優しい』に傾いていた清臣の評価もすぐに元通りになった。
「……お腹空いた。」
帰り道、椿はそう呟いた。
そう言えば夜は何も食べていなかったことを言ってから思い出す。
「奢ってよ、ラーメン。」
臣は明らかに嫌そうな顔をする。
「いいじゃん、臣、金持ちじゃん!」
「お嬢こそ。」
「さっきの臣、かっこよかったよ。」
わざとらしく椿は言う。
「……じゃあ、いいですよ。」
「やったぁ。臣、案外チョロいね。」
「今度、ちゃんと返してもらいます。」
清臣は気づかないだろう。
この言葉を言うために、奢って、なんて言ったこと。
わざわざこんな遠回りしても口にしたかったのは、素直に言うのは照れくさいけど、でも言いたかったから。
照れ隠しをすればするほど、気づかない自分の気持ちにも遠ざかっていく。
“かっこよかったよ”
それが、奢らせるためのお世辞だとしても、嫌じゃなかった。
照れるように視線を彷徨わせながら、頬を赤らめて自信なさげにいう椿への気持ちを、今の清臣はうまく言語化はできないけど。
仁と二人きりでいたことを邪魔してしまった理由も自覚することはできないけど。
この胸の痛みだけは、はっきりとわかる。
慣れない胸の苦しみに、困惑していることだけは認められる。
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