椿、キャバクラへ行く
このまままっすぐ家に帰る気にもなれなかった。
少し、ほんの少しだけ迷うと、椿は家とは反対側の電車に乗った。
別に、仁のこと、好きなわけじゃない。
でも、いい人だし、椿も心を許している相手だから。
少なくとも、臣よりは。
臣はなんであんなことをしたんだろう。
臣のこと、よく知っているわけではないけど、らしくない。
やっぱり、言い過ぎたかな。
心にもないことを、言ってしまった。
ただ、臣をこまらせたかっただけ。傷つけて、しまいたかっただけ。
怒りに身を任せた結果残ったのは、鈍い心の痛みだけだった。
過ぎ去る景色は夕日に照らされてオレンジ色ににじむ。
『次は、歌舞伎町~』
車内アナウンスの機械音がいう。
椿は顔を上げて、降りる準備をする。
社内の数人が顔を上げる。
あの中に、椿と目的地を同じにする人間はどれくらいいるのだろうか。
思わず、声を上げそうになった。
歌舞伎町、駅からしてクラブっぽい。
銀色の装飾に、無駄に多い鏡。
なんだか落ち着かない空間を抜けて、椿は駅を出る。
まだ太陽は落ち切っていなくて、かろうじて夜の始まらない町中を歩いていく。
凛とした足取りの裏で、その心臓はばくばくと気持ちの悪いたかなりをつづけていた。
制服できていい場所ではないだろう。
制服姿の椿を恐れてか、明らかな客引きも椿には声をかけてこない。
椿はスマホのマップを開いて、目的地を探す。
「ん?」
マップに沿って歩いているはずなのに、どんどんと遠ざかっていく。
そういえば私って、方向音痴だったっけ。
自覚しているからと言ってどうにかなる問題ではない。
周りを見渡しても、助けてくれそうな人はいない。
泣きそうな顔で、椿はまた歩き出した。
「ねぇ、ちょっと。」
ふいに呼び止められて、椿は振り返った。
「君、学生?」
色白の肌にぱっちりとした瞳、薄化粧なのに、ハッとするような美人だった。
怪訝そうな顔で椿を見ている。
「危ないよ、こんなとこきて。」
優しそうな雰囲気に椿は思わず縋りつきたくなる。
「あの、道に迷ってしまって。」
「まさか、社長の妹さんとは思わなかったなぁ。」
椿はえへへ、と笑う。
「確かに、社長みたく整った顔してる。」
椿を憂兄の運営するキャバクラに連れてきてくれたのは、キャバ嬢の弥子という女性だった。
「外にいるよりは、店の中にいたほうが安全でしょ。」
そう言うと、雑然とした裏口から中に入れてくれた。
表の華やかさとは違って、店の裏は備品がおいてあるだけの質素な空間だった。
いくつか並ぶドアのうち、ひとつを開けると、まぶしい空間が広がっていた。
話し声があちこちから聞こえる。
「おはようございます!」
一つの声を皮切りに、いくつもの声が弥子に挨拶をする。
なんだか、すごく偉い人みたいだ。
椿は恐る恐る、弥子の後ろから部屋を見渡した。
どうやら客を入れる店内のようで、豪華な装飾に劣らない華やかな女性がたくさんいる。
「あれ、なんかすっごいかわいい子がいるな。」
華やかな顔立ちの人が椿を見て言った。
「新人ちゃん?」
「まさか。」
弥子は落ち着いた笑みで言うと、椿を部屋の中に招き入れた。
「社長の妹さんだって。」
驚きの声が上がる。
「あんま似てないね。」
こら、と弥子は小さく叱る。
「でも、美人だよ。」
綺麗なお姉さんに囲まれて椿は思わず縮こまった。
「名前は?」
「椿、です。」
いつもと違って小さな声で言う。
「かわいい!」
客だと思われているのだろうか。
こんなに褒められること、そうそうない。
「ここ、香水くさいっしょ。」
華やかで高級感のある顔つきなのに、気さくに話しかけてくれる。
「いや、そんなこと、ないですよ。」
「気使わなくていいよ!」
彼女は明るく笑った。
「こっちおいで。」
不安そうに弥子のほうを見ると、弥子は微笑んで行っておいで、という。
「あの端っこの席なら死角だし、あそこにいな。」
ありがとうございます、と椿が礼を言うと、満面の笑みを浮かべられる。
「やっぱ、かわいいなぁ。」
「じゃあ、私準備してくるから。」
弥子はそういって裏口の方へ戻っていった。
「弥子さんって、すごい人なんですか?」
椿がそう聞くと、キャバ嬢の一人がめをぱちくりとさせる。
「知らないの?」
椿は思わず肩をすくめた。
「歌舞伎町のナンバーワンキャバ嬢、言っちゃえば、日本一のキャバ嬢だよ。」
「えー!」
椿は口を覆って目を見開いた。
「すごい人!」
「そうだよー。まぁ、うちは日本一のキャバクラなんだけど。」
「兄が社長なのに?」
屈託のない笑い声が響く。
「言うねぇ。」
椿の緊張も早々に溶けて、この場にいるのが楽しいと思えるのは、やっぱり、この人たちがプロだからだる。
「お酒飲む?」
どかっと隣に座った短髪の女性が酒瓶を持って椿に聞く。
「これ、クリスタルなんちゃらっていうの。」
もう酔っているのかと思うほど上機嫌だ。
「クリスタルプリンセスよ。」
黒髪の女性が言った。色とりどりに髪を染めたキャバ嬢が多い空間で、黒髪は逆に目立つ。
「これ、上客用のやつだけど、君、かわいいからあげる。」
「まず未成年だからダメでしょう。」
「えー。」
綺麗なお姉さんの綺麗な目がじっと椿を見る。
「ウーロン茶と、オレンジジュースくらいしかないんだけど、どっちがいい?」
「え、あぁ、水でいいですよ……」
「遠慮しないでよー。椿の兄ちゃんの金からでるから……」
「じゃあ、あの高級オレンジジュース開けちゃいましょうか。」
「いや、本当に大丈夫ですよ!」
なんて言いながら椿もまんざらでもなかった。
「お前ら、遊んでないで準備しろよ。」
黒いスーツに身を包んだ男性が言った。
「いや、この子上客だから。」
が、こんな風に軽くあしらわれてしまう。
「うち、売上ナンバーツーだから邪険に扱えないの。」
無邪気に笑うので椿もつられて笑ってしまった。
「野暮なこと聞きますけど……」
椿が声を潜めると、顔を近づけて聞いてくれる。
「いくら、稼いでるんですか?」
「やだぁ、聞いちゃう?」
「えー、知りたいなぁ。」
さらに声を潜めて彼女は言う。
「まぁ、ざっと二億、とか?」
「すっごーい!」
椿が手をぱちぱちたたいて称賛する。
「私、そんな大金一生手に入んないかも。」
「もう、ほめ過ぎだって!」
「椿ちゃん、キャバ嬢やったら稼げそうね。」
「えぇっ!?」
椿が目を剥いて驚くと、おとなな笑みを向けられる。
「かわいいし、話も上手だし。」
「そんなことないですよ!たぶん皆さんが上手だから!」
椿の声を遮って、「おはようございます!」という挨拶の声が聞こえる。
「椿!」
慌てた様子の憂兄だった。
駆け足で店内に入ってきたかと思えば、周囲を見渡す。
「社長!こっち!」
その声に、椿を見つけると、少し怒ったような表情で椿の下へ来た。
「なんでいるんだよ。」
「だめ?」
椿が聞くと、憂は返事に困ったように眉根を寄せた。
「かわいいー!」
横でお姉さんが言う。
「臣は?」
今度は椿が返事に困る。
「……巻いてきちゃった。」
それはちょっと嘘だけど。
憂はため息交じりに言う
「いつかはやると思ってたけど……まぁいいや。」
憂はスマホを取り出して、いじり始める。
怒られると思ってたから少し安心した。
それにしても、憂は椿をどんな人間だと思っているんだろうか。
「臣に迎えに来させるから、それまでこの店にいな。」
椿はぎくりとする。
当然のことだけど、少し、きまずい。
「社長、あんな感じなんだね。」
「私たちの前だといっつもかっこつけてるからね。」
「でも、ちょっと嬉しそうだった。」
そうだっただろうか。
椿はてきぱきと指示をする憂を見る。
まぶしく見えるのは、店内の明かりのせいだけじゃないだろう。
「椿ちゃん、愛されてるんだねぇ。」
「椿ちゃん、これ私の名刺。」
「あ、私も。」
「かわいい!おしゃれ!」
「お前ら、そろそろ準備しろよ。」
黒服の人が椿の周りに集まるキャバ嬢たちに呼びかける。
「今日は同伴少ないんだねぇ。」
「最近激務だったからね。」
もう、椿の知らない仕事の世界に入っていくようだった。
椿はおとなしく店の隅っこの目立たない席で座っていた。
だんだんと客らしき人が入っていく。
さっきまでは、椿に素を見せてくれていたんだな、と思うくらい、彼女たちは仕事人の顔をしていた。
「椿、あんまりいいもんじゃないからな。」
開店前に、憂はそれだけ言いに来た。
「わかってる。」
椿の周りはあんまりいいものじゃないことで溢れている。
臣だって、お兄たちだって、そんなことばっかりなのに。
椿は高級オレンジジュースをすすりながら、人間観察に勤めていた。
一人で客の年収あてゲームにいそしんでいる。
答え合わせはしようもないが。
「椿ちゃーん、さみしくない?」
「大丈夫ですよ、見てるだけで楽しいです。」
「けなげでかわいいね。」
今日だけで、「かわいい」って何回言われただろう。
「椿ちゃんって、今いくつ?」
「十五です。」
「嘘、中学生!?」
「高一です。ギリセーフ?」
「アウトだよ!」
思い切り笑ったあと、しみじみとした雰囲気で言う。
「そっかぁ、いいなぁ若いって。」
「私とあんまり変わらないように見えますけどね。」
「うれしいこと言ってくれるじゃん!」
ころころと表情の変わるこの人と話すのは楽しかった。
「制服も似合いそう。」
「あ、じゃあ今年のハロウィン制服にしよっかな。」
「ハロウィン?」
椿は首を傾げた。
「そうそう、うちの店、毎年コスプレしてんの。」
「え!いいじゃないですか!」
「いや、でも年齢的にきついかなぁ。」
「お前さぁ……仕事。」
少し怒ったような呆れたような黒服の声がする。
「御指名だぞ。」
「えぇー、私、ずっとここにいたーい。」
「だめだ……」
黒服に半分引っ張られていく彼女を椿は苦笑しながら見送る。
「椿さん、退屈ですか?」
少しして戻ってきた黒服は壊れ物でも扱うかのように慎重にそう聞いた。
「全然!お仕事、大変ですね。」
「まぁ……」
さすがキャバクラだけあって、迷惑客は少なくない。
さっきも、「お触り」を止めていた。
「飲み物、なくなったら声を掛けてくださいね。」
「ありがとうございます。」
こんな風にいろんな人が椿を気にかけて声を掛けてくれるおかげで全然退屈ではなかった。
それにしても、臣は遅い。
もう少し、ゆっくりでもいいんだけど。
「君、ずっとここにいるけどさぁ、新人?」
着崩れたスーツに、上気した頬。明らかに泥酔していた。
椿はついさっきからいわゆる迷惑客に絡まれていた。
「いや、違います。」
「え、前からいたっけ?初めて見るなぁ。」
「違います。」
覚悟はしていたけど、かなり面倒くさそうだ。
そりゃそうだ、面倒な客じゃないと声なんて掛けないだろう。
男はどすんと遠慮なしに椿の隣に腰を下ろす。
椿はそっと距離をとった。
「めっちゃかわいいじゃん。」
のばされた手をかわそうと、椿はまた距離をとった。
「俺、ラッキーだな。」
また、距離をとろうとするけど、限界だった。
もう逃げ場はない。後ろには壁。
椿はようやく焦りだした。
「名前、なんていうの?名刺ちょーだいよ。てか、シャンパン開けよう、俺、君のこと気に入ったからさぁ」
「だから……!」
椿はひっと、小さく悲鳴を上げる。
男の手が椿の足に触れる。
遠くで接客していた弥子が気づいて、近くの黒服に声をかける。
けど、椿はもう限界だった。
手は出すな、手だけは出しちゃダメ!
椿は心の中で必死に唱える。
酒臭い生ぬるい息がかかる。
椿はぎゅっと目をつむった。
「お客さん、お触り厳禁です。」
男の手が離れて、椿は目を開ける。
黒服が――臣が、男の手をとっている。
弥子が遠くて肩をなでおろす。
「あ?」
男は明らかに不機嫌だった。
臣が男の腕を掴む手に力を入れる。
痛そう、と椿は顔をしかめる。
予想通りに男は小さくうめき声をあげる。
「山田さーん、ちょっと目離した隙に……」
弥子がやってきて、山田さん、と呼ばれた客を椿から引きはがす。
「席戻りましょう。」
ごめんね、去り際、弥子は口だけ動かしてそういった。
申し訳ないのはこちらのほうだ。
「何してるんですか。」
あ、怒ってる、と椿は肩をすくめる。
「ごめん……」
椿の謝罪の声も聞こえないくらい、清臣はまくしたてる。
「お嬢になにかあったら、どうするんですか。勝手に手の届かないところに行かないでください。」
椿は小さくなって止まらない清臣の説教を頷いて聞いていた。
「椿ちゃん、怒られてんの?」
「みたいね。」
「わんこみたいでかわいい。」
「何言ってんの。」
事情を知らないキャバ嬢たちはのんきにそんなことを言っている。
「なにかあってからじゃ……」
「臣!」
今までどこに行っていたのか、姿が見えなかった憂だ。
椿はこころのなかで兄に感謝する。
「わざわざありがとな。」
「すいません。」
「いや、いいよ。椿が悪い。」
はい、その通りでございます。
申し訳ないとは本心で思っていた。
でも、どこか譲り切れない本心もあって、椿はむくれていた。
「臣、このあと仕事だろ。」
「はい。」
「椿連れて行ってくれないか。」
「は?」「え?」二人の声が重なる。
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