さんじゅうわめ

秋雨前線がやって来た。

どんやりとした天気が続いている。

夜明けまで降り続いた雨は、湿気を含んだ重たい空気と灰色の雲を残していった。

そんな天気にふさわしいくらい暗い面持ちの椿。

浮き沈みの激しい人だ。

少し後ろを歩く清臣はそう思う。

その原因もなんとなくわかっていた。

人の感情に鈍感なわけではない。

人並みに、その人が思っていることはわかる。

それでも清臣は、自分の感情には鈍かった。


まばらな人混みの間を、それでもしっかりとした足取りで、椿は行く。

椿は学校の敷地に入ってから数名と挨拶を交わし、昇降口に入る。

一瞬落ちた影は、すぐに蛍光灯の灯りによってかき消される。

縛らずに下ろした長い髪を耳にかけながら、脱いだ靴を拾う。

いつも通り、清臣も靴を履き替えようとした。

なにか、いつも通りじゃない、違和感がした。

反射的に椿の方を見る。

その瞳からいつものような能天気さは消え、負の感情が覗いている。

靴箱の中身を見つめる椿の瞳は震えていた。


いつもなら上履きが入っているはずの靴箱に、上履きは見当たらなかった。

たぶん、そこにないわけではない。

緩衝材のようにくしゃくしゃに丸められた白い紙が靴箱から一つ、溢れて出た。

——誰だ。

誰かが、椿の靴箱にゴミを入れた。

明らかな、嫌がらせ。

椿がその思考に達するより先に、すぐ隣にいた清臣が椿の靴箱をチラリとみる。

それだけで全てを察したのか、椿の腕を引いて、椿は一歩、靴箱から遠ざかる。

清臣は険しい顔で靴箱を睨みつけると、その紙くずを掴んで出した。

「臣……」

椿はどうしたらいいかわからず、その場に突っ立っているしかなかった。

清臣は椿の靴箱からゴミを集めてくれている。

誰がやったのか、皆目見当もつかない。

椿は誰かに恨みを買ったことがあっただろうか。

自分なりに慎ましく生きてきたつもりだ。

——いや、もしかしたら

「椿。」

名前を呼ばれて椿は振り返る。

仁だった。

「どうした?」

椿は少し目を泳がせた。

「なんか、下駄箱に……」

椿の靴箱に目をやった仁は、それだけで察したのだろう。

「大丈夫?」と優しい声で聞いた。

「うん……大したことじゃないよ。」

本当に大丈夫のつもりではあったのだけれど、思った以上に声が震えていた。

仁はそっと椿の肩に触れる。

「大丈夫。椿は、何も悪くないって、俺はわかってる。」

なぜだろうか、不意に泣きそうになった。


「はあ!?」

葵の声が教室に響く。

「そんな大変なことじゃないから……」

「大変なことでしょ!!」

奈乃花も声を張り上げる。

「誰なの、私の椿にそんなことしたのは。」

恵那は、多分半分ふざけている。

「市野川たちかな……」

唯華が小さな声で言った。

皆が顔を顰める。

「あいつらはもうやらないでしょ。」

「米山美夏じゃない?」

舞香が言う。

なんとなく、同意の雰囲気が流れた。

椿も、少しだけそう思った。

「まあ、そういうことがあったっていう話だから、これで終わり!」

唯華が不安そうに椿の顔を見る。

大丈夫だよ、と目で返した。

「よおーし!私が椿を守るぞー!!」

奈乃花が息巻いている。

本当はみんなに話す気はなかったのだけれど、カレンに目撃されてしまっていたせいで、広まってしまった。

本当に米山美夏だとしたら、きっと清臣のことなんだろうけど、椿は何も悪くない、はずだ。


呼び止められて椿は振り返る。

いつも少し困惑してしまう。

「東くん。」

椿をしたの名前で呼ぶ男子なんてこの人だけだから、まだ慣れない。

「今日の放課後時間ある?」

椿はすぐに頷いた。

部活にも入っていない椿は基本暇だ。

だが、頷いてから少し考える。

清臣のことがあった。

もし何かの用事だとしたら、清臣を椿に付き合わせることになってしまうから。

「用事によるかも。」

そう付け足した。

「学校、案内してほしくて。」

それは、仁なりの気遣いだったのだろう。

声色がいつもより優しかった。

椿は頭の中で計算する。

三十分もあれば済む用事だろう。

ただ、待たされる側にしてみれば、三十分は長い。

「返事、少し待ってもらってもいい?」

椿の提案に、仁は快く頷いた。

ありがとう、椿は今日、一番明るい笑みで言った。


清臣は快諾した。

待つ間は、太陽に誘われてバスケ部のヘルプに入るらしい。

人のいなくなった教室を出て、静かな廊下を歩く。

「どこから見たい?」

仁は困ったように笑う。

「椿に任せるよ。」

たしかに、よく知らないというのに、どこから、なんて答えようもない。

「じゃあ、上から見てく?」

四千名を近い生徒を抱える校舎は、横に広い。

建物は初等部棟と中等部棟、高等部棟に分かれていて、コの字型を作っている。

コの字の中には、ベンチや草木の置かれた中庭もあり、そこには、小さな噴水まである。

高等部棟は、一階が三年、二階が一年、三階が二年という構成になっている。

全ての棟に繋がる昇降口を抜けると、憩いの広場と呼ばれるだだっ広い空間があって、表彰状やトロフィが飾られていたり、生徒の自由研究が飾られている。

部活動や委員会のお知らせ版もここにある。

その他、特別棟には、職員室と自習室、文化部室があり、敷地内に転々と美術室や技術室などがある。

「ここが聖堂。」

木々の茂る区画を抜けると、真っ白い教会のような建物が現れる。

「音楽の授業はここでやってる。」

「この学校ってキリスト教とか?」

椿も全く同じ疑問を入学初期に抱いていた。

「それが違うんだよね……もともと別の女子校だったらしいからその名残りかな。」

エアコンはついていないけれど、涼しい風が吹き込んでくる聖堂は、この学校が東京都にあることを忘れさせる。

「オルガンもあるんだ。」

教会らしく、壁に沿って聳え立つオルガンは限られた人間しか触ることは許されていない。

聖堂を出て、校舎に戻る道を行くと、食堂が見えてくる。

高等部だけが使用できる食堂兼購買は、なぜか初等部棟と繋がっていて、高等部生は皆、仮作りの渡り廊下や中庭を通って食堂まで行く。

食堂のすぐ横には第一体育館がある。

生徒たちは皆『第一』と呼んでいる。

第一の中からはシューズが床に擦れる音と、掛け声が聞こえてくる。

第一の横には、九面分のテニスコートがある。

校舎を挟んで反対側にある第二体育館、通称『第二』の横には弓道場と、柔道場があり、高等部棟とL字を作るように校庭を挟んでいる。

第二にはバスケ部がいるはずで、なんとなく気が引けた椿は第二の側には行かないでおこうと思った。

さらに、全校生徒の約半数を擁することのできる大ホールと、学年集会などでよく使う小ホールがある。

校門を一度出て、道路を渡った先には、室内プールと第五と呼ばれるホール兼体育館があるが、あまり使われていない。

「校庭は、第三と第四?」

「そう……初めは慣れないよね。」

二箇所あるグラウンドは第三グラウンドと第四グラウンド、『第三』『第四』と呼ばれている。

第三は芝生で整えられており、第四は砂利が敷き詰められている。

第三で行われる体育は天国、第四で行われる体育は地獄、というのが通説だった。

「すごい広いね。」

「だよねー。」

椿もまだ足を踏み入れたことない場所があるくらい、この学校は広大だ。

「椿の好きな場所は?」

椿が真っ先に思いついたのは、屋上だった。

「行ってみる?」


「思ったより、景色いいな。」

学校の土地自体が小高い丘の上にあって、周りも住宅街なので、見晴らしはいい。

屋上には中庭のように手入れされた花壇と、ベンチが置かれている。

また、バスケコートもあって、椿は涼しくなるとこの場所でお昼を取ることもある。

昼休みのこの場所は決して人が少ないわけではないが、穴場の一つである。

「あ、ほら、あそこ東京タワー。」

椿が柵から少し身を乗り出すようにして、遠くを指す。

仁は焦ったような顔をして、椿を引き止めようとした。

椿は振り返ってくすりと笑う。

「大丈夫だって。」

「びびった……危ないよ。」

椿は背伸びまでして、柵に腕をついている。

「落ちたら東くんが助けてくれるでしょ。」

「落ちたらもう無理かな。」

仁の笑顔は優しくて、大人びている。

「落ちる前に、助けるよ。」

椿は幼げに笑うと、踵を地面につけて、柵から離れた。

「次、どこ行こっか。」

幼い頃、小さな公園の中をそう言って走り回ったのを思い出す。

子供心には、それが無限に広がる一つの世界のように思えたのだった。

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