にじゅうくわめ
「昼休み、サッカー見てた?」
「見てたけど……なんでわかったの?」
仁は椿に手を振ってくれた。
「結構見えるんだよ、あの教室。」
「えー!ずっと見えないと思ってた。」
椿は意外に思う。
「三階は難しいけど、二階ならね。」
椿たちの教室は二階にある。
太陽が差していたから見えないと思っていたのに。
「手、振り返してくれて、うれしかったよ。」
椿はクスリと笑う。
「でも、サッカー負けたんでしょ。」
太陽から聞いた話だ。
仁は肩をすくめた。
「清臣ってやつがすごい上手くてさ。」
清臣の名前が出てきて椿はどきりとした。
椿が仁と帰ることを告げたとき、清臣は何も言わなかった。
了解です、とだけ。
その淡白さは、まあ、いつも通りなんだけど。
「東君、サッカーやってなかったけ?」
仁は驚いたように椿を見た。
「覚えてたの?」
「私、球技苦手なのに、無理やり付き合わされてたじゃん。」
「それはごめん……」
仁はプッと吹き出す。
「でも、あそこまで下手だとは……」
想像以上に仁が笑うので、椿はむすっと頬を膨らませる。
「自分からボールにつっこんで……」
「東君が上手すぎただけ。」
「それはどうも」
仁はまだ笑っている。
「少しはマシになった?」
「なったよ。十年くらい経ったんだから。」
「そっか。」
仁の綺麗な瞳が椿の瞳をじっと見つめる。
「でも、椿は変わってないね。」
「東君のほうこそ。」
仁といると、あの頃の記憶が鮮明に思い出される。
純粋で、無邪気で、まだ何も知らなかった頃の自分、私たち。
「そうかな。」
太陽が分厚い雲の下に隠れる。
仁は変わらないと言ってくれたけど、私もきっと、変わってしまった。
「次は勝つよ。」
急に話が変わって、椿は少し混乱する。
「サッカーの話。」
仁はやさしい笑みで言う。
「サッカーやってたプライドあるし。」
「そういえば、東君って今までどこにいたの?」
風なんて吹いてないのに、小さな風が椿の髪を揺らす。
たぶん、さわやかすぎる仁の笑みのせいだ。
「イタリア。」
そう言えば、初日に先生がそんなこと言っていた気がする。
「私の兄もイタリアにいたって。」
「椿、兄弟いたの?」
そういえば兄のことは、椿でも最近知ったのだった。
「兄が二人と、弟が一人……」
「全然、そんな感じしなかった。」
椿はごまかすように笑った。
「どっちも年が離れてるんだよね。」
「そうなんだ……」
仁はつぶやいて、何気ないように後ろを振り返る。
それにつられて、椿もちらりと後ろを見た。
「清臣君は、どこ住んでるの!」
かわいらしい声。かわらしい瞳。
恋をしている乙女の顔。
「椿。」
仁の静かな声が名前を呼んだ。
椿の体をすっぽりと隠してしまうその体が、視界を遮る。
「見なくていい。」
清臣に触れる先輩の手。
別に、いいじゃん。
椿の願いは、清臣が椿というしがらみに捕らわれることなく、生きること。
だから。
「行こう。」
椿の手に触れるのは、仁の手のぬくもり。
清臣より少し体温の低い手が、椿の冷たい手に触れ、その手を引いた。
だんだんと人混みから遠ざかっていく。
「清臣ってやつはさ、やめときなよ。」
仁の顔は見えない。
「そういうのじゃないから。」
椿は思わず、強く言った。
夕日が仁を照らす。
ふっと、仁がわらった。
「安心した。」
「え?」
椿は無様にも口を開けて聞き返す。
「俺、やっぱり椿のこと好きかも。」
顔が熱いのは、夕日のせいだろうか。
椿はなにを言えばいいのかわからなかった。
その迷いが椿の開いたり閉じたりする口に表れている。
「ま、まだ二日しかたってないよ。」
椿は目を泳がせた。
仁は気まずそうに眼をそらすと、口を覆ってそっぽを向いた。
「……そうだよな、ごめん。早とちった。」
いつもより、人が多いように見える。
人ごみの中を椿はゆっくりと歩いていた。
夢の中にいるようにふわふわしている。夕日の熱がまだ抜けなかった。
――東君、そんな人だっただろうか。
昔は、確かに少し強引で、無邪気だったけれど、それ以上に、臆病で、優しかった。
犬一匹にビビッて泣いてしまうような。
交通カードをかざせば高い機械音が鳴る。
椿が変わったように、きっとあの人も変わってしまったんだろう。
椿が足を止める。
辺りの喧騒が消える。
米山美夏と、清臣。
――なんでここに。
米山美夏の手が、清臣の頬に触れようとする。
少女漫画のワンシーンのように、二人だけが彩られている。
まさか……
水の中にいるみたいに、喧騒は耳の中を反響して響く。
清臣は、椿のずっと遠くにいる。
椿はまた、歩き始めようとした。
そのとき、清臣の真っすぐな瞳が、椿をとらえた。
椿は、知らないふりをしようとしたけど、間に合わなかった。
椿は、足を一歩、踏み出したまま、止まった。
「お嬢……」
椿は目をそらして言う。
「邪魔して、ごめん。」
思ったより、乱暴な声だった。
清臣が怪訝そうに椿を見る。いや、不思議そうに。
椿は首を横に振った。
清臣の瞳は、なんで怒っているんだ、とでも言いたげだ。
「帰ろう。」
なんでかなんて、私が一番知りたい。
椿は清臣のほうを見ずに歩き出した。
今日は、厄日だ。
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