にじゅうはちわめ

「おはよう、椿。」

仁が爽やかな笑みで手を振っている。

その爽やかさがどこから来るのか椿にはわからない。

清臣にも見習ってほしいものだ。

「今日は髪縛ってるの?」

「うん、まだちょっと暑いし。」

昨日の朝はやる気がなくて、たまたま下ろしていたというのもあるし。

「似合ってるよ。」

「ありがと。」

屈託のない笑顔を見せる椿が、仁に心を許しているのは、見れば明らかだった。


「じゃあ、幼馴染ってこと?」

昼休み。まだ真夏の気配の残る鋭い日差しが窓から差し込んで、椿たちを照らしている。

奈乃香に迫られて、昨日、葵と唯華にしたのと同じ話を繰り返した。

「どうなんだろう……」

椿は煮え切らない様子で返す。

日差しを避けようと、腕を机の下にしまう。

視線が集まるこの感じが、椿はどうも好きじゃない。

仲が良くて、信頼を置いている奈乃香たちでも。

梨乃だけが、興味はないのだろうけれど、相槌を打ってくれているといった感じだった。

「モテモテだねぇ、椿。」

舞香がにやにやと音のしそうなくらい口角を上げて笑う。

否定したいけど、仁に関しては否定もできなくて、椿は曖昧に返事をした。

すぐに葵が口を開く。

「転校生――名前なんだっけ?」

恵那が答える。

「東仁。」

「あぁ……そうそう。東くんさ、もう馴染んじゃってるよ。」

ちらりと窓の外に目をやると、今日も飽きずにサッカーをしている。

そして、観衆も飽きずに黄色い声援を送っている。

誰かがボールを蹴るたびに、光を反射してきらりと光る。

椿はまぶしそうに目を細めた。

「こうやって見るとさ、まだ子供なんだなって、ちょっと安心するよね。」

つぶやいた椿に、唯華は小さく笑った。

「誰目線よ。」

椿はかたをすくめて、机の上に広げられたお菓子に手を伸ばす。

「でもちょっとわかるかも。」

梨乃がこういう会話に入ってくるのは珍しくて、椿は少し息をのむ。

「まだそんな遠くに行ってないって、思えるから。」

ボールを追いかける目には、まだ少年の無邪気さが強く残っている。

「……って、なに浸ってんの、私ら。」

葵のツッコみで、椿は肩の力が抜けたように笑う。

梨乃の目にあるいたずらっ子のようなからかいの色を見て、梨乃にからかわれていたのだと知る。

なんだか恥ずかしくなる。

また、お菓子に手を伸ばした。

この瞬間だけは、清臣が椿たちと変わらないって思えるから。まだ少し子供じみたところがあるってわかるから。

椿と同じだって思えるから。


――いつから、私、隣に立ちたい、って思うようになったんだろう。


それでも、彼はやっぱりずっと遠くにいるみたいだ。

あ、と唯華が小さく漏らす。

米山先輩が何かを――たぶん、ペットボトルを清臣に渡している。

遠くでよく見えないのに、先輩のかわいらしい笑顔ははっきりと想像がついてしまう。

それに対して、清臣がどんな風に応えるのかも。

仁が椿の視界の端に映る。

椿が視線を向けるのと同時に、仁は大きく手を振った。

うしろで、葵たちが沸いている。

椿の肩にグッと力が入る。

わからない。

こういう時……

「どうしたらいいの?」

唯華が窓を開けて、椿の腕を引いた。

「振り返すの!」

椿は少し困惑しながら、それでも、窓から少しだけ身を乗り出して手を振った。

なんとなく、仁が笑った気がした。

「ったく、初心なんだから。」

唯華が綺麗な形の眉を八の字にして、でも満面の笑みを浮かべている。

「だからモテちゃうんだよなぁ、椿は。」

「モテないよ。」

椿はため息交じりに言って、どすりと椅子に腰を下ろした。

人生で彼氏ができたことはおろか、告白されたこともないし、いい感じになったこともない。

恋愛はしたことあるけど、ずっと失敗続きだ。

「なんだかんだ言って、市野川も椿のこと好きなんだよ。」

市野川は、最近は落ち着いているとはいえ、ことあるごとに椿に嫌がらせをしてくる、小学生みたいな男子だ。

「まぁ、私は、あいつのこと嫌いだけど。」

葵が言って、奈乃香が同意する。

「それはちょっと毛色が違うって……あんなのに好かれても別に。」

たぶん、好きじゃないし。

本当に椿をからかいたいだけなんだろう。

好きの裏返しにしても、度を越している。だって、「整形」なんて。

別に、整形に悪感情を持っているわけじゃないけど、あいつは明確に悪意を持ってそういってくるから嫌なんだ。

予鈴が鳴った。

「うお!やばい!」

奈乃香が慌てて机の上の菓子を頬張る。

袋を捨ててしまったので、食べるしかないのだ。

それにしても開け過ぎだ。

「あんたらも食べてよ。」

唯華と椿は顔を見合わせる。

「おなか一杯。」

「無理かなー。」

梨乃と恵那もそそくさと片付けを始めている。

廊下がだんだんと騒がしくなってきた。

サッカーをしていた男子たちと、観戦の女子が戻ってきたのだ。

「太陽!はっさん!食べてこれ!」

奈乃香が悲痛な叫び声をあげる。

「残飯処理かよー。」

「買いすぎ。」

椿も苦笑しながら、なんだかんだ食べている。

「誰だよ、こんなに買ってきたやつ。」

「わかるでしょ。」

唯華が言う。

太陽は周りを見渡して笑った。

「京極じゃね?」

「違いますー。」

「葵と奈乃香だよ。」

これまた唯華が言う。

「なるほどね。納得。」

椿はお菓子でいっぱいになった頬を膨らませて太陽をじとりと見た。

太陽は軽快に笑う。

「おい、授業始まるぞー!」

「やばいやばい。」

奈乃香は椿よりもほっぺたを満杯にしていた。


「椿ちゃん、これ。」

授業中、後ろから回されてきた紙に椿はドキッとする。

アリーナ席と呼ばれる教卓の目の前の席だというのに。

こんな度胸試しみたいなこと、誰が始めたのだろうか。

「誰に?」

なるべく先生に聞こえないように聞く。

「椿ちゃん。」

私に?と椿の目が聞く。クラスメイトは真剣な顔でうなずいた。

確かに、開いてみると『椿へ』ときれいな字で書かれている。

椿にはわかる。唯華の字だ。

『東くんが、一緒にかえりたいってさ。』

椿は思わず唯華のほうを振り返った。

仁の席は、唯華のすぐ後ろだ。

唯華は笑って、椿に何か言おうとしているが、椿には全く伝わってこない。

「おい、京極、どこみてんだ。」

椿は肩をびくっと震わせて、先生のほうを見る。

「そっちに黒板はないぞ。」

「……すいません。」

「よし、じゃあ、この問題解いてもらおうか。」

よりによって椿の苦手な化学。

椿は午後の眠気でいっぱいの頭をフル回転させる。

「……5」

「違う。」


「掃除だっる。」

葵が箒を持ったまま窓辺に寄りかかる。

「一週間に一回なんだからちゃんとやりなさいよ。」

かくいう椿もずっと同じ場所を窓拭きしている。

「だるーい」

てかさ、と葵は急に身を起こして椿の視界に入ってくる。

「一緒に帰んの?」

仁のことだ。

椿は手を止めた。

「大丈夫?」

何も言わない椿を葵は心配そうにのぞき込む。

椿はバッと急に葵のほうを振り返る。

「どうしたらいいかな!?」

葵は一瞬、唖然としたあと、すぐに呆れたような表情になる。

「あんたがしたいようにすれば。」

何の頼りにもならないアドバイスだ。

「でも、断る理由もないよね?」

葵はもう掃除をする気はないようだ。

「まぁね。」

椿は頷いて、また窓を拭き始める。

「椿はさ、守間くんと東くんだったらどっち?」

「何が?」

「私は守間くんかなぁ。」

「だから何が……」

葵はニヤニヤとからかいに満ちた笑みを浮かべている。

「付き合うなら!」

「だからね、守間くんはお互いそんな気持ちじゃないよ。」

なるほどねぇ、と葵は口角をますます上げた。

「じゃあ、東くんの一人勝ちかな。」

どういう意味、と椿が聞く前に葵は教室を見渡す。

「東くーん!」

「ちょっと!」

葵は急に仁を呼ぶ。教室中に、もしかしたら廊下まで響くような大声で。

「何やってんの。」

椿は小声で葵を諫める。

「椿だっていやなわけじゃないでしょ。」

「そういうわけじゃないけど……」

――そういうことじゃない。

「呼んだ?」

廊下にいたらしい仁が教室に顔をのぞかせる。

葵はもうすでに素知らぬ顔だ。

「私が呼んだ。」

仁はにこりと笑って椿の下へやってくる。

「どうしたの?」

「さっきの時間の、一緒に帰ろう、って手紙。」

「え!なにそれ……」

芝居臭さがない。

本当に知らないらしくて、椿は首を傾げた。

「あれ、勝手に唯華が書いたやつ。」

「あいつ……」

椿は今はいない唯華を心の中でにらみつける。

仁は険しい椿の表情なんて関係ないように言った。

「俺が書いたやつじゃないんだけど、椿が良ければ一緒に帰ろうよ。」

椿は少し考えた。

清臣の存在が気がかりだったから。

「じゃあ……よろしく、お願いします。」

椿がそう言ったのは、米山先輩の顔がよぎったからだった。

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