にじゅうさんわめ

ヤバい……どうしよう。

清臣が、どこにもいない。

この人混みの中で、もし刺客がいたら……

気づけないし、気づけたとして、避けられる自信はない。

清臣に命を救ってもらったことが、椿が清臣を必要とする理由になっていたのだ。

自分一人で自分の命を守れないことは十分わかっている。

清臣の前では遠慮して見せているけど、本当は、清臣がいなければ不安で仕方がない。

死という恐怖が迫ってくる。

かろうじて保たれていた冷静な思考が椿を人混みから遠ざける。

椿はキョロキョロと辺りを見回しながら、屋台が並ぶ通りを抜けて行った。

とにかく連絡を取らなければいけない、とスマホを取り出して気づく。

私、臣の連絡先を知らない。

なにかはわからないけれど、嫌な予感がする。

大体、人混みがすごいからと言って、清臣が椿を見失うはずがないのだ。

それは今までの生活を振り返ればわかることだ。

花火を見るためか、場所取りをしているカップルや家族連れがちらほらと見えるだけで、木が陰になって屋台の光もあまり届かない。

椿は体中の毛が逆立つのを感じた。

誰かが、椿の手首を掴んで物陰に引き寄せる。

不意の強い力に、椿は抵抗することもできなかった。

「なっ……」

声を出そうとしても、すぐ背後からもう片方の手で口を塞がれてしまう。

混乱する椿の脳内に解決の糸口が見えたのはすぐ後のことだった。

覚えのある気配だったのだ。

「お嬢、少し静かにしていてください。」

耳元で聞きなれた声が言う。

清臣だ。

肩に入った力が抜ける。

椿は瞳だけを動かして、清臣の方を振り返る。

思いの外、清臣との距離が近くて椿の心臓はドクリと跳ねる。

シトラスの香りと、清臣の少し高いような体温がはっきりと感じられる。

狭い物陰にいるから、どうしても体が触れてしまう。

清臣は、椿の手首を掴んだままだし、遠慮する素振りも見せない。

むしろ、逃げ出すのを恐れるように、椿を強く引き寄せている。

きっと、異性だから、とか気にしないタイプなんだろう。

それに、仕事だからって、深く考えていない。

椿はそれがどうしようもなくもどかしかった。

心臓が大きく鳴っている。

椿は人一倍異性だということを気にしてしまう。

いや、この場合、清臣が無神経すぎるだけだ。

この音が清臣には聞こえていませんように、と椿は必死に祈る。

見上げた夜空には静かに星が瞬いていた。

不意に清臣が口を開く。

だいぶ声を顰めているのに、すぐ近くにいるせいで、はっきりと聞こえる。

「昼間に会ったアビスのメンバーが祭りに紛れ込んでるそうです。」

そりゃあ、京極家の人間だって祭りを楽しむんだから、アビスとやらのメンバーが祭りを楽しんだって不思議じゃない。

「それがなんでこんな……」

全く想像もつかない。

なんでこんな風に清臣に抱き寄せられなければならないのか。

いや、清臣は仕事上必要なことで、気にしてもいないかもしれないけど。

「お嬢の命を狙ってるんですよ。」

「なんでまた……」

椿の命というのは、そんなにも重いものなのだろうか。

「……少し前に、京極家がアビスの本拠地に殴り込みに行ってます。そこから逃げたメンバーが、報復のためにここへ来たんでしょう。」

椿は清臣の言葉を飲み込むのに時間がかかった。

「殴り込みに、ってなんで。」

「うちのシマでやりたい放題だったからです。不穏分子は早めに取り除くというのがボスのやり方なので。」

椿の頬に長いまつ毛が影を落とす。

やっぱり椿はこの世界には向いていない。

逃げられる運命でないことはわかっている。

それでも、椿は無慈悲な世界を素直に肯定することはできない。

「お嬢?」

清臣が聞く。

椿はまた、チラリと視線を後ろにやった。

「牡丹は?」

清臣はしっかりと答える。

「大丈夫です。豪さんがいます。」

その言い方に椿も少し安心する。

「ねぇ、私たちこれからどうなるのかな。」

椿の質問の意図が分からず、清臣は聞き返す。

「なんですか。」

「私と牡丹も、臣たちみたいに……」

こんなこと清臣に聞いたって仕方ない。

「お嬢がしたいようにすればいいと思いますよ。」

少しの沈黙があった。

「……お嬢は、どう思ってるんですか。ご両親のこと。」

また、少しの沈黙を置いて、椿は答える。

「なにも思わない、って言ったら嘘になるかな。」

あのときは、強がって気にしてない、なんて言ったけど。

裏切られたような気持ちになったのも事実だ。

「でも、拒否するわけにもいかないよね。」

「家族だから、ですか。」

椿は小さくうなずく。

「それにもう、逃げられないから。」

京極の名を背負って生まれてしまった以上、もう平穏な日常は戻らない。

「家族って、そんなに強いものですか。」

椿は清臣の母親のことを思い出す。

何も、答えられない。

「家族なんていなくても、生きていけますよ。」

清臣は、どんなつもりでそんなことを言ったのだろうか。

「俺の仕事はお嬢の命を守るだけじゃない。」

微かな風が頬を撫でる。

ずっと遠くから喧騒がした。

「どこまでも、ついていきます。」

椿はフッと笑った。

「臣、そんなんだっけ?」

その瞳には少しの憂いが浮かんでいる。

「仕事なので。」

表情はわからないけれど、清臣はむすっとしているようだ。

面白くて、椿の笑い声はだんだんと大きくなる。

「静かにしてくださいよ。」

だって、と笑う椿の声は止まらない。

清臣は思わず敬語を忘れた。

「始めたのはお嬢のほうだろ。」

椿の目の端に涙が浮かぶ。笑い過ぎだ。

「私は、清臣がいないと生きていけないかもなあ。」

からかう椿に、清臣はため息交じりにあしらう。

「楽しそうでいいですね。」

不意にブッと、低い音がする。

スマホの通知音だ。

椿が自分のものかを確認する前に、清臣は俺です、と言ってスマホを開いた。

それでようやく、距離ができる。

椿は今度こそ肩の力を抜いた。

「もう大丈夫だそうですよ。」

戻りますか?と聞かれて椿はすぐに頷いた。

早くこの窮屈な場所から抜け出したい。

二人が物陰から、まだ少し人のいる場所へと戻ると同時に、会場にアナウンスが入る。

「10分後に、打ち上げが開始となります。会場にお越しの皆様は……」

椿が清臣を見る。

瞳からはどうしよう、と切実な思いがあふれ出ている。

清臣は少し考えた後、ちらりとスマホの画面を見た。

「行きましょう。」

まだ握られた感覚の残る椿の手首に触れた。

でも、清臣の手は椿の手をしっかりと握って先を行く。

「ちょっと、場所は……!」

「俺に任せてください。」

清臣の体温を指先からはっきりと感じる。

心臓の高鳴りを抑えられない。

この人はこんなに、頼りになっただろうか。

淡白で、人の心なんてないと思っていたのに。

そんな相手に、優しさを感じてこんなにも胸が苦しくなるなんて。

屋台の電光が通り過ぎる。

まぶしくて、にじむ視界の中で、清臣の姿だけがはっきりと見えた。


「お、来た来た!」

豪に抱き上げられた牡丹は椿を見つけるなり、手を大きく振っている。

思ったより元気そうだ。

「なになに?二人ってそういう感じだったの?」

豪は椿と清臣を見てにやりと笑う。

人の悪い笑みだ。

椿はハッとして手を離すが、清臣は気にも留めていないようだった。

ただ、豪にからかわれたことだけが許せないのだろう。

清臣は不快感をあらわにする。

「ごめんって。そう怒んなよ。」

豪は適当になだめた。

「ねぇね、こっち!」

牡丹は自分のすぐ隣をさして椿を急かす。

「だっこ!」

えぇ、と不満の声を漏らしたのは椿と、そして豪だった。

「坊ちゃん、俺じゃ嫌ですか?」

「やだ!」

わがままだなぁ、と豪は笑う。

やっぱり、この人は遠慮せずはっきりと言う。

「ちょっとだけだよ。」

豪から牡丹を受け取ると、ずしりとした重みが腕に乗る。

「重くなったねー。」

「でしょー!いっぱい食べたもん!」

この頃の子供は体重が増えると喜べるものだ。

「怖くない?」

椿が聞くと牡丹は元気よく答えた。

「うん!」


数分後……

「ねぇねー!!」

ギャーと大騒ぎしながら牡丹は涙を飛ばした。

花火の音より、牡丹の泣き声のほうが大きい。

「やっぱり……」

椿は困り顔で笑っている。

「子供はみんな通る道だよな。」

ちらりと清臣のほうを見た。

「清臣も、昔は花火にビビッて大泣きしてたよな。」

「でたらめ言わないでください。」

豪はハハッと笑って、よく冷えたビールを飲む。

清臣は仕事中、と顔をしかめる。

「あ、お前も飲む?」

清臣は不満げな顔をするだけで何も言わなかった。

「お嬢、変わりますよ。」

牡丹のことだろう。

椿の腕に限界が来ていたのも事実だったので、椿は素直に清臣を頼る。

牡丹は泣き疲れたのか、声も出さずさめざめと涙を流している。

椿の浴衣は牡丹の涙でびしょびしょになっていた。

涙のせいか、疲れのせいか、牡丹は椿の手を離れても何も言わなかった。

「あんなに怖がってたのに。」

椿は牡丹の頬をつつきながら笑う。

「子供は単純でいいよねー。」

「お嬢もたいがいですよ。」

椿は目を見開いて清臣を見る。

その表情のまま豪のほうを向いた。

豪はにこにこと笑うだけで何も言わない。

ぷくりと頬を膨らませた椿は、空に咲く大花火を見つめる。

透き通った瞳に、鮮やかな花火が映っている。

「なーに、見とれてんだよ。」

豪が清臣を小突いた。

椿は清臣の顔をまじまじと見る。

その視線から逃げるように、清臣は顔をそらした。

「別に。」

腕の中から、柔らかい寝息が聞こえる。

椿のくすぐったくなるような笑い声が聞こえた。

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