にじゅうわめ
「臣!」
椿が満面の笑みで清臣に向けるのは一学期の成績表だった。
5~7の数字がまばらに並ぶ、決していいとはいいがたい成績だったが、椿は満足げだった。
初めて赤点全回避!と笑う椿は、上機嫌で終業式を終えた。
「臣が勉強教えてくれたおかげ。」
椿は一筋縄ではいかなかった。
かなり丁寧に時間をかけて教えれば、基礎は理解できた。
だが、その「丁寧に時間をかける」ことが教えるときにとても大変だったのだ。
なにか、お礼をする、と椿は言ったが、清臣には思いつかない。
物欲はほぼ皆無だし、現状、何も不満はない。
ただ一つ、思いつくものと言えば――
清臣は心の中で首を横に振る。
何かを求めてはいけないから。
相変わらずの鋭い視線が椿を睨みつけるように見ている。
椿はそれに顔を引き攣らせる。
だが、もうすっかり慣れてしまった椿は、多分清臣のそれが生まれつきのものだと信じている。
時々、太陽たちに、清臣を囲む女子たちに見せる笑顔には納得いかないけど。
今、椿が冷や汗をかいているのはそれとは全く異なる理由だ。
「やっぱり、お嬢に管理させるべきではなかったですね。」
ごめんなさい、と椿は縮こまって言った。
祖父母の、そして両親や弟の住む岡山県に帰省するための新幹線の切符をあろうことか直前になって椿がなくしたのだった。
物の管理は苦手な椿だが、最近は無くしものも減って安心していた。
それが仇になったのかもしれない。
焦る椿を尻目に清臣はズカズカと椿の部屋に入ると、あっさりと本棚の隙間から見つけてしまった。
ほとんど椿が慌てていた時間で、新幹線に間に合うギリギリの時間になってしまった。
……普通に恥ずかしい。
椿への説教がすんで、二人はようやく座席に着いた。
祖父の家までは片道六時間ほどかかる。
「それにしてもよく、すぐに見つけられたね。」
清臣は腕を組んだままギロリと椿をその鋭い瞳で見る。
うっと、椿は喉を詰まらせて視線を逸らす。
「物が少なくて助かりましたよ。」
相変わらず不機嫌そうな声だったが、椿はその言葉にホッとする。
物をなくすことが多かった椿は、綺麗な部屋を保つために最低限の物だけを部屋に置いている。
それでも自分では無くしものは見つけられないけど。
「そういえば、臣の地元ってどこ?」
椿が聞くと、清臣の反応はワンテンポ遅れる。
自分から言ったくせに、椿の『臣』呼びには慣れていないらしい。
「……同じです。」
そうなんだ、と椿は驚くような相槌を打つ。
「じゃあ、どこかで会ってるかもね。」
椿の祖父母は、母方も父方も、どちらも同じ地域に住んでいる。
だから、少なくとも年に二度はあの地域に帰省していた。
あの町で遊んだ名前も知らない子どもたちの中に、清臣がいたかもしれない。
「さぁ……。」
歯切れの悪い返事もいつものことだった。
「あんまり、外で遊ぶたちでもなかったので。」
確かに、この顔で外で遊ぶ活発な姿は想像できない。
とはいえ、きっと清臣にはかわいい子供時代もあったはずで。
どんな子供だったのだろうか。
あの母親で、きっと苦労した時代はあったのだろうが。
清臣の過去を知ることは、それこそ彼の核心に迫ることだが、それよりもずっと手前にあるはずのことすら椿は知らない。
好きな食べ物、趣味、普段どんなことをしているのか。
聞いて「ない」と返されても納得がいってしまうのが悔しい。
ファンの女子には懇切丁寧に対応してるのに。
あの子たちの方が清臣のことは知っているかもしれない。
椿の方が一緒にいる時間は長いのに。
今はこんなに近くにいるのに。
椿は深呼吸でもするように深く息を吸う。
「ねぇ、臣……」
椿はいいかけてぐっと口をつぐむ。
耳をすませば聞こえるほどの小さな寝息がしていた。
どうやら、眠ってしまったようだ。
椿は八の字になった眉を下げて笑う。
夜は本職であるはずの、別の仕事、つまり暗殺業をしているのかもしれない。
それとも清臣は夜も、椿のために睡眠時間を削ってくれているのだろうか。
何かあった時、すぐに駆けつけるために。
そうだったらいいけど、そうじゃなくても、普通の高校生には抱えきれない仕事量だ。
「ありがとう。」
椿はそっと、清臣にだけ聞こえるような声で言う。
「着いたー!!」
椿は青空の下、大きく伸びをする。
清臣はまたも怪訝な顔でそれを見ていた。
「いい旅になったみたいでよかったですよ。」
椿は伸びをした姿勢のまま固まってしまう。
いつのまにか眠りに落ちていた椿は、目的地の駅に着く直前になっても起きず、清臣に叩き起こされる形で目を覚ました。
「ご苦労をおかけしました。」
清臣はため息混じりにいう。
「いいですよ。これくらい、俺の仕事のうちなんで。」
そのあとにぼそっと、俺も寝てたし、と呟いたのを椿は聞き逃さなかった。
椿は駅のエントランスをぐるりと見渡した。
「迎え、来てないね。」
祖父の車は目立つからすぐに見つかる。
椿は最近知ったのだが、それは日本ではなかなか見ないドイツ製の高級車だからだった。
「ちょっと電話かけてみる。」
すると、清臣がそれを手で制した。
「いや、俺がやります。」
「いいのに。」
椿が首を傾げると、清臣は無愛想な顔をさらに顰めていう。
「厳しいんですよ。」
椿は清臣のいう通りに、スマホをしまう。
そこまで時間もかからずに繋がったようだ。いつもよりさらに険しい声で清臣は話している。
やっぱり、無愛想なのが清臣の普通なのかもしれない。
椿は少し離れて待っていた。
「ねえねえ。」
声をかけられて振り返ると、見たことのない顔がそこに二つ。
口調から椿は完全に察する。
田舎でナンパって……
年齢は大学生くらいに見える。
だが、東京で見るようなおしゃれさはなく、白ティーにジーパンといういかにもな服装だった。
「お姉さん、めっちゃスタイルいいじゃん。」
お姉さん、と言われるような歳の差はない。
なんだか老けている、と言われたような気がして椿はムッとした。
「顔もかわいい……って、君あれじゃない?」
椿の表情から不機嫌さが少し消える。
椿のことを知っているのだろうか。
「あー、そう、あれだ。京極んとこの孫娘だ。」
その言い方に椿の防衛本能が反応した。
「ちょうどいいや。ちょっと来てくんね?」
焼けた黒い腕が椿の手を掴もうした。
けれど、その手が椿に触れる前に、それを止める人がいた。
「目を離した隙に……なにやってるんですか。」
清臣だ。清臣の手が男の手首を掴んでいる。
椿は肩をすくめる。
声は椿に向いていたが、目はしっかりと相手に向いている。
「なんだ?お前。」
ガラの悪い声が怒鳴りつける。
それに続いて、小さな呻き声が上がった。
おおよそ人体からするものとは思えない、メキッという何かが潰れるような音がする。
清臣が握る男の手首が青くなっている。
あ、これヤバい。
椿は本能的に察した。
骨が悲鳴をあげている。
「お前よぉ!」
もう一人の男が清臣に向けて拳を振り上げた。
清臣は男の腕を離すと、もう一人の男の拳を受け止める。
「お前、京極の番犬だな。」
清臣はそれには答えない。
また抵抗しようとする男の腕を捻ると、冷静な声で言った。
「ここで騒ぎになるのはお互いにとってもよくないでしょう。」
その声はあたりを静まり返らせるほどの威圧感を持っていた。
「来るなら、堂々と本家の門を叩くんだな。」
情けないことに男たちはヒッと喉を鳴らす。
だが、それでは格好がつかないと思ったのか、引き下がらない。
「んだよ、自分たちの縄張りで俺らに自由にさせといて、口先だけの腰抜けなんじゃねえの!」
言い終わる前に、相手の後ろから迫った影がその頭をグッと鷲掴みにして振り返らせる。
「このまま、首の骨折ってあげてもいいんだよ?」
不気味な笑みが、男の怯え切った顔を覗き込む。
清臣よりもずっと重い圧。
関係ないはずの椿でさえ、怯んでしまいそうだった。
パッと手を離すと、抜けそうな腰に必死に力を入れて、何とも情けない男たちは逃げの姿勢をとった。
「今夜にでも、その手首の治療費は届けに行くよ。」
満面の笑みだが、その裏には底知れない黒い感情がある。
「じゃあねー。」
ひらひらと手を振りながら言われると、男たちは、逃げていいのかもわからないのか、ぎこちない動きになりながら去っていた。
一見、優しげなその顔は手についた汚れをパンパンと払うよに叩くと、その笑顔のまま清臣を見る。
「臣、成長したね。少し前ならすぐにつかみかかって吠えてたのに。」
椿は呆気に取られて二人を見ていた。
もしかしたら、それが清臣の可愛い子供時代なのかもしれない。
「お嬢、お久しぶりですね。」
嘘っぽい笑みは椿を見た。
どうしてもその顔が思い出せなくて椿は無意識のうちに首を傾げていた。
「ほとんど初めましてかな。最後に会ったのは10年前とかだから。」
それなら、まだ小学校に入りたての頃だ。
だとしても、記憶にはあるはずだ。小1のクラスメイトの顔はギリ思い出せる。
椿は自分の記憶力の無さを悔やんだ。
「ちび助がこんな綺麗なお嬢に成長してるとは思いませんでしたよ。」
「豪さん、あまりお口が過ぎると、怒られますよ。」
豪さん、と呼ばれた彼はへらりと笑う。
だが、椿はそれよりも、その声の主が黒井であることに顔を輝かせた。
「お久しぶりです!!」
黒井は変わらず何の曇りもない瞳で微笑む。
「お元気でしたか?」
「はい!」
孫娘を見るかのような顔で黒井は椿を見ている。
「それはよかったです。清臣くんとはどうですか?」
「はい!……あ。」
椿は濁った返事をする。
黒井はなおも優しい表情で眉を上げた。
「いろいろご迷惑をおかけしてます……」
朗らかな笑い声が響く。
「いいことです。」
黒井は清臣の方を向いて言った。
「清臣くん、お疲れさまです。」
なんだか黒井がいると、和んでしまう。
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