じゅうにわめ
初めて清臣が起こしに来なかった。
早くに起こされることに慣れてしまっていたせいか、椿は時間通りに起きてしまった。
どれだけ待っても清臣は姿を見せず、嫌われているかもしれないという疑念が事実になりそうなことに悲しみながら、朝の支度を終えた。
窓から差し込む朝日は、だんだんと初夏のものに変わっていた。
いつもは下ろしている髪を、高く結んだ。
髪の束を揺らしながら玄関を出ると、そこに明らかにやつれた様子の清臣がいた。
「おはよう」
毎朝、挨拶だけはしている癖で、思わず口にした言葉も、気持ちよく決まらなかった。
「大丈夫?」
ためらいながら聞くも、いつもよりさらに不機嫌な様子の清臣に、椿はひるんだ。
「大丈夫です。行きましょう。」
全く信用できないくらい、大丈夫ではなさそうだ。
学校でなにかあったんだろうか。それとも家?
昨日、ふと考えた家族のことを思い出す。
少し後ろからついてくる負のオーラに、椿は口をつぐんでいようと決めたのもつかの間、くるりと後ろを振り向く。
ポニーテールが輪を描く。
「なんかあった?」
清臣の暗い瞳が、椿を見た。
「どうしてですか。」
その声色の低さ、鋭さに、椿は返事を探せなくなった。
「なんでって……なんとなく、だけど。」
またやってしまった、と椿は顔を曇らせる。
大して親しくもない相手に聞かれるほど、うっとうしいことはないだろう。
「お嬢には、関係ないです。」
そうだよね、と小さくつぶやいた椿の言葉は、青空に溶けて消えた。
「じゃあね。」
椿がクラスメイトに手を振って電車を降りる。
少し離れてついていく。
椿は清臣が疲れているように見えたらしいが、疲れているわけではない。
少し考えなければいけないことが、増えただけだ。
清臣はチラリと横に視線をやる。
スーツを着た会社員風の男だが、その体格に隠しきれないものがある。
住宅街に入って、人気が十分に少なくなったころに、もう一度男のほうに視線をやって、迷いなくその男のほうに向かって行く。
「おい。」
肩をつかむと、全く動揺を見せない様子で振り返る相手。
清臣より二回りほど高そうな年齢と体格。
この仕事に就いてから初めての対戦。だが、緊張はしない。
「なんだ、お前。」
椿の命を狙うとすれば、喧嘩慣れしたヤクザあたりだ。本場の暗殺者が来ることはまずない。
「バレてるぞ。」
低い声で脅しをかけると、相手は簡単に乗ってくる。
「ガキのくせに俺に勝つ自身でもあんのか。」
ちらりと椿に視線をやる。
男が構えの姿勢をとった瞬間、清臣の長い脚が、男の左ほおにケリを入れる。
白い歯が一本、口から飛び出す。
「ってぇ~!」
起き上がるのも待たず、清臣は男に追撃を続ける。
拳銃を使うよりも、ナイフを使うよりも、清臣は自分のこぶしを使うことのほうがずっと得意だ。
なにか言おうとする男に、しゃべらせる隙も与えないまま、清臣は殴り続ける。
指の隙間から、血が垂れる。
額の汗をぬぐって、清臣は呼吸を整える。
やりすぎたな、と思う。
無性に腹が立っていた。
でも、これでいい。
殺さないように、痛めつける。
組織の敵はそうやって排除しろと教えられてきた。
男はかすれた呼吸を繰り返している。
それを尻目に、清臣は仲間に連絡を取る。さすがにこのままにしておくわけにはいかない。
ふいに男が、かすれた息を吐く。
思わず目をやる。
男は、目だけを清臣に向けて笑っていた。
「ばーか。」
その言葉に、清臣はすぐに走りだす。
まさか――
清臣が足を止めたことは気づいていた。
椿は角を曲がった先で清臣を待つ。
むかしから人の気配には敏感だったが、それにはきちんとした理由があったようだ。
あの親の元に生まれたから、もともと殺し屋としての素質を持ち合わせていた。
まさかそんな因果関係があったとは思わなかったけど。
五時半過ぎの住宅街は、家の明かりこそ灯るが、不思議なほど静かだ。
椿は後ろにあった塀によりかかる。
こうなってもなお、実感がわかない。私が、マフィアの娘だなんて。
つまり、父は人殺しだったわけだ。
果たしてそれは正しいことなのか、医師として働いている父が多くの人の命を救っていることを知っていたからこそ、わからなくなる。
なにか、理由があるのか。
ダークヒーローなのか、ただのヴィランなのか、それを知るすべも椿は持ち合わせていない。
兄や両親に直接聞くわけにもいかないから。
キッと甲高いブレーキ音がして、椿は顔を上げる。
黒いワンボックスカーが、目の前に停まっていた。
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