はちわめ

「やらかしたぁ…」

椿は浴槽で頭を抱える。

椿が自分を守るために傷つけた相手は、黒井の代わりに護衛の任についた守間清臣という人。

例の、イケメン転校生。

椿は、人の顔と名前を覚えるのが苦手だ。

顔がいいだけに、椿も覚えていられるだろうと思っていたのに。

ほんとに、やらかした。

明日から学校、どうしようかな。

っていうか護衛、なんだよね。

これから先への不安を、そして少しのわくわくを感じる。

そんな場合じゃないのかもしれないけど、非日常に胸が膨らむのは椿だけじゃないはずだ。

思い切り体を沈める。

肩、首、顔まで湯船に浸かる。

息を吐いた泡がぶくぶくと、水面を大きく揺らす。


くぐもったアラームの音がした。

椿は寝返りを打った。

まだ寝ていたい、そういう椿の意志とは裏腹に、頭はだんだんと冴えてくる。

今起きなければ、すっきりとした目覚めにはならない。

でも、やっぱり眠い。

椿の脳はまたゆっくりと眠りに落ちていく。

「お嬢、起きてください。」

聞きなれない声に、椿は勢いよく起き上がる。

寝返りのせいか、目の前にあったのは壁で、慌てて振り向いた。

「転校生!」

「守間清臣です。」

訂正をありがたいと思えるわけもなく、椿は寝起きだったことも忘れたように、慌てふためく。

「ここ、私の部屋だよ!」

清臣はわかってる、とでも言うように眉を顰めた。

「お嬢が起きないからです。」

まさか寝坊かと思って、枕元にある自分のスマホの画面を軽く触る。

すぐに明るくなった画面には、6時50分の文字。

「あと10分は寝れたのに。」

「それじゃあ、遅刻ギリギリじゃないですか。」

「そんな顔して真面目なんだ。」

「どう言う意味ですか。」

まだ7時になっていないと言うことは、椿が設定したアラームはならないはずだ。

清臣の手元にあるスマホを見て椿は理解する。

「わざわざ、自分でアラームかけなくてもいいのに。それに、女子の部屋に勝手に入っちゃダメでしょ。」

「お嬢に何かあったら、俺の責任になります。」

やっぱり真面目だな、と思って、椿は諦めたようにベッドから降りようとする。

「……鍵、開いてた?」

昨夜、閉めた記憶はあるが、何せ自分の記憶力は信用していない。

「合鍵あるんで。」

椿はあんぐりと口を開けている。

「なんですか。」

相変わらずの仏頂面が言う。

椿は返す言葉もなくて、また諦めようとした時、けたたましい音を立ててアラームが鳴った。


「お、今日は早いねー。」

椿が教室に入ると、葵が真っ先に見つけて声をかける。

「初日だしね。」

適当に言い訳を返す。

転校生のことなんて口が裂けても言えない。

家が特殊な環境であることもそうだが、それ以上に、イケメン転校生の取り合いは水面下で始まっている。

もしうっかり、仲がいい(と思われる)ことを口にしてしまえば、誰から攻撃されるかわからない。

「赤点回避も夢じゃないかもねー。」

そう、ただでさえ、成績で厳しい学校生活なのに、人間関係でも苦労はしたくない。

ようやく取り戻した平穏な学校生活を、もう失いたくない。

椿はこっそりため息をつく。

清臣には早く起きるようにと、軽く説教された。

寝起きの顔を見られるのも予想外だった。

林間学校の時、クラスメイトにアホっぽい顔と言われた顔だ。

恋愛対象じゃなくても、見られて嬉しいものじゃない。

おかげですっきりとした目覚めになったけど。

今更のように思う。

どうしてこんなことに、なったんだ。


「お嬢、一人ですか?」

教室で部活組と雑談したあとの昇降口は閑散としている。

いつも、帰宅部や部活のない生徒が多くいる時間は避けているのだ。

しかしそのせいか、声がよく響く。

椿は少し焦って、周りを確認する。

それから小声で清臣に言った。

「人がいるときは、敬語やめない?」

清臣は仏頂面をさらにしかめる。

「変に思われるかもしれないから。」

一応納得したのか、眉間に刻まれた皺はスッと消えた。

「あと、お嬢呼びも。」

頷いたのかわからない、微妙な頭の動きに椿は清臣な表情を見て判断しようとしたがそれも無理だった。

あまりに無表情すぎる。

できれば、学校で二人でいるところは見られたくないが、仕事で隣にいようとしてくれる相手に、そんなことは言えない。

「なにか用だった?」

少し間を置いて、清臣は言った。

「一緒に帰りませんか。」

平坦な声のトーンのせいで、その言葉の意味を理解するのに少し時間がかかる。

椿は少し迷いながら返す。

「い、いよ?」

切れの悪い返事だったからか、清臣の表情が険しくなった気がする。

ただそれを確認する間もなく、清臣は自分の靴を取り出し始める。

どうか、目撃されませんように!

椿は心の中で祈る。

「え、椿?」

よく聞きなれた声がして、椿は膝から崩れ落ちそうになる。

神様に祈りが届かなかったのか、間に合わなかったのか、とにかく終わった……

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