よんわめ

「ただいま…」

家に誰もいなくても挨拶はしっかりする。

それは椿が母から躾けられたことの一つでもあった。

「おかえりー!!」

玄関の壁に反響して留まった椿の声とは打って変わって、よく響く明るい声が部屋の奥から聞こえてきた。

聞きなれない声に靴が脱ぎかけのまま止まる。

兄だ。

そう気づいてから椿は靴を脱ぎ飛ばすと、小走りでリビングまで行く。

「おかえり。」

さっきよりは抑えた声で言うのは、ずっと笑顔の方の兄——憂だ。

興という名の無愛想な方の兄は、椿にチラリと視線を送るだけで、何かの作業をしていたであろうパソコンの画面に視線を移した。

兄たちがこの家に揃っているのは初めてかもしれない。

初日も、仕事を理由に憂の方はいなかった。

興とふたりきり、一言も喋らない地獄の雰囲気を思い出す。

椿は少し顔を顰めた。

「今日は、学校?」

他方、憂のほうはよく喋るようだ。

兄二人と交わした数少ない言葉の全ては憂との会話だ。

「いや、明日から。」

だよな、と返される。

ん?と思ったのも束の間、確認しただけだと理解する。

椿の友達にもこういう話し方をする人は時々いる。

「手、洗ってくる。」

「お、偉いじゃん。」

しっかり、妹扱いされている。

椿はそのことになんだかホッとする。

いつもは水をつけるだけの手を、しっかり石鹸で汚れを落とし、タオルで拭いた。

母は挨拶には厳しかったけど、こういうことには厳しくなかった。

「珍しいね。」

椿の一言に、憂だけが反応する。

「仕事休んだ。」

へえ、と椿は心にない相槌で返す。

年齢的に新入社員とかだよな、と思う。

そんな簡単に休みって取れるんだろうか。

椿はその疑問は口に出さないでおいた。

だって、兄はマフィアなのだから。

もう十分普通ではない。

「椿、進級祝いとかいる?」

椿は小さく笑った。

「いいよ。私もう高校生だよ。」

5万円という高額なお小遣いで十分だ。欲しいものには事足りる。

万が一、兄の好意に甘えるとして、欲しいものは思いつかないだろうし。

「夕飯食べた?」

椿の問いに答えたのはやはり憂だ。

「まだ。」

「じゃあ作るよ。」

もう時刻は7時を回っている。

両親と暮らしていたときも、今も、門限というのは設定されていないが、7時までには帰ろうと決めていた。

というのも、椿の護衛というのは四六時中、ストーカーのように着いて回らなければいけない仕事らしい。

出先に黒井がいることが何度かあって気づいた。

仕事は早めに終わったほうがいいだろうから。

「椿、料理できるんだ。」

ダイニングのライトはオレンジ、台所のライトは白で、その違いに少し目が眩む。

「できるよー。」

「独学?」

「料理を独学は難しくない?」

料理じゃなくても一人の力で頑張ることは難しいと思う。いや、誰かに教えてもらっても勉強は難しい。

「俺、独学でやったよ。」

「え、すご。」

兄は初めて会った日、“日本に帰ってきた”と言った。

どの国かはわからないが、海外にいたことは明らかだ。

いつから?

その疑問が頭をよぎる。

それを打ち消すように卵を割った。

椿が物心ついた時には彼らは家にいなかった。

本当に家族なのだろうか。

それは、兄への疑念というよりは、両親への疑念に繋がっていくのだ。

それでも、今は、兄の優しさに甘えるしかなかった。

今は、本当の家族と信じるしか……


椿は勢いよく体を起こす。

朝だ。

ベッド脇に置かれたスマホの画面をタップする。

早い。思わず声が出る。

いつもより1時間以上余裕を持って起きれた。

目覚めも良い。

アラームなしで起きれたのだから。

椿は手櫛で髪をとかしながらリビングへ出た。

電気がついている。

眩しくて目を半分瞑った。

「おはよう。」

一瞬、誰の声かわからない。

あぁ、兄か。

そう思って目を開ける。

朝ごはんのいい匂いがしていた。

まだ頭は起きてないな、そう思いながらダイニングテーブルに近づく。

モーニングのコース料理みたいな豪華なメニューが並んでいる。

「わ、おいしそー!」

椿の声に、台所から顔を覗かせたのは、憂ではなく、興の方だった。

一瞬、ひるんだ椿だったが、意を決して口を開く。

「これ、お兄が作ったの?」

心の中でガッツポーズをキメる椿。

実は、兄の呼び方は決まっていなかった。 昨日の夜もなんと呼んだらいいかわからず、適当に誤魔化し続けていた。

風呂に浸かりながら、髪を乾かしながら、眠りに落ちながら考えついたのが“お兄”呼びだった。

「兄ちゃん」「お兄ちゃん」「にいに」「兄上」

どの呼び方もしっくり来なくて、現実か、ドラマか、どこかの誰かがこんな呼び方をしていたような気がして、これに決めた。

兄——興兄きょうにいは少し驚いたような顔をする。

「うん。」

かと思えば、短い返事をして台所に戻ってしまった。

「顔洗ってくるねー」

そう言って廊下に出る椿。

まだ冬の寒さが残っている気がした。


「朝からこんな食えねえよ。」

戻ると、まだ眠気の残る声で憂兄ゆうにいが何か言っている。

「なー、椿?」

急に話をふられて戸惑う椿。

「なに?」

「朝からこんな食える?」

椿は少し考える。

「いけるんじゃない?」

絶句する兄に向かって聞く。

「お兄、少食?」

憂兄が目を剥いたのは、椿の食欲に驚いたからではなかったようだ

「興!!聞いたか!?“お兄”だって!!」

興兄はさも面倒くさそうにあしらっているが、椿は恥ずかしくて小さく俯いたまま、椅子に座った。

憂兄はいつまでも騒いでいる。

「食べていい?」

「どうぞ。」

興兄の静かな声が言った。

憂兄はうるさいからか興兄に顔を掴まれている。

久しぶりの賑やかな家に椿は春の日差しと共に体がじんわりと暖かくなっていくのを感じた。


「いってきます。」

結局、ギリギリの時間になってしまった。

いつもより一本早い電車に乗れるかどうか。

「あ、待って、椿。」

憂兄に呼び止められる。

「今日、午前で終わりだよな。」

母親並みに学校行事に詳しいな、と思いながら頷く。

「昼、一緒に食べよーぜ。」

椿の顔が少し明るくなる。

「うん!!いってきます!!」

明るい声が澄み切った青空に溶け込んでいく。

冬の寒さは残っているけれど、日差しはもう春らしく柔らかい。

黒井さんも、どこかにいるのかな。

そう思ってゆっくり歩こうとしだけどできなかった。

いつもより軽い足取りがどこか小走りで椿を運ぶ。


春、出会いの季節。

高校生、大人になっていく時期。

椿の、何もかもが新しい生活が始まる。






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