さんわめ

「今の心境はどうですか?」

「オリンピック選手でもないのに。」

簡素な家具に多少の飾りをして、女の子らしい部屋にしていた椿の部屋は、さきほど運び込まれた段ボールでごちゃっとしていた。

「でも、オリンピック選手並みの平常心だったよ。」

「それはどうも。」

兄(仮)に適当に返し、椿は立ち上がる。

家族会議から二日が経った。

始終、申し訳ないとか、反省とか、悲しみとか、そういう表情で話す母だったが、椿はいたって淡々としていた。

なんでも、祖父の老齢を理由に、父はマフィア業に専念するらしい。

マフィアが副業だとか、本業だとか、よくわからないなぁ、と思う。

とにかく、両親は父の実家がある田舎に帰るそうで、椿はどうするかを聞かれたのだった。

椿が父のあとを継ぐことを強制することは全くないそうで、ただ、今まで通り家族四人で暮らすかどうか、と言う話だ。

絶対に、タイミング間違ってる、と椿は言いそうになった。

もう受験はとっくの昔に終わっている。一貫校だからと、気を抜いてばっかりの椿が入試にチャレンジするのも無理な話だ。

椿はほとんど迷わず、ここに残ることを選んだ。

念願の一人暮らしと、少し浮かれていた椿の気持ちはすぐにしぼんだ。

この奇妙な兄二人と暮らせ、とのことだった。

兄たちは、ほとんど家にいることはないらしく、実質一人暮らしだから、と椿の心を読んだかのように、父に言われた。

そしてもう一つ――

「お嬢、段ボールは足りますか?」

はい、と椿は固くうなずいた。

祖父と父の間くらいの年齢の男性――椿の護衛らしい。

父がマフィアになれば、身の危険は本格的に迫ってくるらしく、ボディーガードのような存在が必要になるらしい。

だが、腐っても父は祖父の息子なのだから、以前も危険はあっただろう。

その疑問を口にすると、以外にもあっさりと「いたよ。」と言われた。

つまり、以前から影ながら見守られていたというわけだ。

椿はかなり周到な環境で、世話をされていたらしい。

今まで気づかないほどバカだったのか、それとも、彼らが優秀過ぎるのだろうか。

椿はよくわからない世界に突然放り込まれて、もはや考えることをあきらめ、そのまま受け入れようとしていた。

慣れない「お嬢」呼びも、いちいち抵抗するのはやめよう、と誓ったのだった。

「なにかお手伝いすることがあれば、声をかけてください。」

護衛――黒井さんは、小さく礼をして部屋を出る。

物腰柔らかで、丁寧。ボディガードと言うよりは執事の品格だ。

両親は、この重大な事実を椿に話すことをかなり長いこと躊躇していたらしく、引っ越しは一週間後、といわれたのだった。

あの日の翌日から、「家の人」という父の部下たちがぞろぞろとやってきて、家の片づけを進めている。

両親たちがこの家を退去するのも、おそらく一週間後だろう。

絶対、タイミング間違えてる。

椿はまた、別の意味でそう思ってしまったのだった。


「ねえね、バイバイ。」

牡丹の小さな手が、椿の手から離れる。

「うん、またね。」

「プルプル(電話)、してね。」

おっけー、と椿は指で丸をつくる。

かれこれ五分近く、似たようなやり取りを繰り返している。

これから、家族と会える時間は格段に減る。

この可愛い弟が、椿の知らないところで成長していくことを考えると少し悲しい。

「さぁ、行こうか。」

父が優しく牡丹に言う。

「あい!」

まだ幼い弟には、別れの意味は分かっていなさそうだ。

新しい家で、私がいなくて泣くかな、そうであってほしいな、と思う。

「牡丹。」

椿は牡丹に向けて大きく腕を開く。

「ねえね、大好き!」

小さくて、柔らかくて、温かい牡丹の体をギュッと抱きしめる。

少し、早くなっただけだ、と椿は思う。

いつかは家を出る、その時期が早くなっただけだ。

「じゃあね。」

精一杯の笑顔を向ける。

牡丹は父に抱えられて、それでも椿を見ようと、暴れながら大きく手を振っている。

「じゃあ、椿、元気で。」

「着いたら連絡してね。」

家の人が運転する黒塗りの高級車に乗り込む家族。

なんだか、椿の知っている家族とは違う存在になってしまったような気がした。

それでも、後ろの窓を覗いて必死に椿に手を振る牡丹は、やっぱり椿のよく知る家族だった。

「いってらっしゃい!」

牡丹の声が聞こえる。

やだな、逆だよ。

いつも、椿が学校に行くときと変わらない声。

あぁ、と椿は思う。

こんな些細な別れなのに。

どっちの兄かわからない、優しい手が椿の肩をたたく。

とめどなくあふれるなみだを隠すように手で顔を覆った。

たしかによくわからない世界だけど、遠くに行くのかもしれないけど、でもきっとすぐに会えるから。

家族がいなくなって、敵もいるかもしれなくて、怖いけど、でも、大丈夫。

椿は言い聞かせるように言った。

「いい姉ちゃんだな。」

優しい声で、兄は言った。


二人の兄と暮らすのは、都内のタワマン、二十五階の3LDKくらいの家だった。

家賃は月100万という途方もない値段だったが、都内でこの広さ、高さでこの値段は安い、と兄は喜んでいた。

そして、ほとんど家にいないという兄たちは、最も広い部屋を椿の部屋として与えてくれた。

かなりの至れり尽くせりで、椿は少々困惑している。

この家の家賃は、8割が父から、残りの2割は兄の収入から出ているそうだが、父も兄もそんな大金をポンと出せることに驚愕した。

さらに兄は、月5万円を小遣いとして椿に暮れるそうだ。服とか、コスメとか、そういう類のものを買うのには必要だ、といわれたが、それにしても多い。遠慮する椿だったが、兄にはあっさりはねのけられた。

引っ越しを済ませてから、兄たちは本当にほとんど家にいなかった。

それどころか全くだ。

贅沢な暮らしだと思う。

別に悪いことはしてないはずなのに、背徳感がうっすらとあった。

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