7 重なる指先

第20話

 帰り道は、二人とも無言だった。稜の家に着き、真澄は早速エプロンを着けて仕事を始めると、稜がついてくる。


「……どうしたの?」

「真澄、……怒ってる?」

「え、何で?」


 真澄は手を止めて彼を振り返った。稜の歯切れが悪いのは、自分に原因があると自覚している。そしてその理由を隠そうとしていることも、稜にはバレているようだ。


「話がしたい」

「わかった、仕事終わってからね」


 変に突き放しては怪しまれる。そう思って真澄は笑顔で答えた。それなのに稜は、腑に落ちない顔で「リビングにいる」と言って去っていく。


「ふう……」


 真澄はため息をついた。

 自分でも、どうしてこんな態度になってしまうのか、よくわからなかった。稜は怒っているのかと聞いてきたけれど、それは半分、当たっていると思う。

 真澄は咲和に嫉妬したのだ。そして、文句を言いながらも咲和を受け入れている稜にも。自分の目の前で、自分より仲睦まじい姿を見せられて、稜の一番ではないのだと思い知らされた。真澄は稜の多くいる友人の一人なのだと。

 もっと言うと、互いに軽くボディタッチをするほど親密な関係に、真澄は嫉妬した。

 稜に触るな、と思ったのだ。


「……」


 真澄は掃除する手を動かす。

 咲和は目も見えるし耳も聞こえる。盲ろう者でもないのに、指点字で会話する必要はない。だからこそ、真澄に聞かれたくない話をしていたのは明白だし、実際真澄の容姿に関することだった。稜がずっと否定していたのは、真澄が容姿にコンプレックスを持っているのを知っているから。彼は真澄が嫌がるからと制止していたのに、咲和は聞かなかった。


「……稜は彼女いたことあるんだし、指点字も使えるし、あれくらいの接触は気にしないのかな……」


 恋人であれば手ぐらいは繋ぐだろう。稜から元カノの話を聞いた時は何とも思わなかった。稜の特別でありたいと思う気持ちは、友情としては重たすぎるのではと思う。


(でも……)


 彼の役に立ちたい。少しでも障がい者の方が、過ごしやすい日々を送ってくれたらと思う。だから家政士やヘルパーの資格に興味を持った。


(稜が……正確には稜のお父さんが、今後も僕を雇ってくれるとは限らないのに……)


 そう思って真澄は自分の考えに矛盾が生じることに気付く。家政士もヘルパーも、稜のためだけに取る資格じゃない。なのに、この家以外で働き続けることを想像していなかった。

 もちろん、単発でも仕事は受けているし、ありがたいことに好評もいただいている。けれど一日の終わりには稜の家で仕事をし、稜と他愛もない話をして自宅に帰ることに、真澄は大きな安心感を抱いていた。


(稜……)


 心の中で彼を呼ぶ。すると胸の中で小さく暖かな火がつき、甘く締めつけられた。


「いや、……違う……」


 真澄は首を振る。重くならないようにしなきゃと思ったはずだ。だから稜を独占してはいけないし、自分とだけ仲良くして欲しいと思うのは間違っている。

 ――じゃないと、自分もあの時の同級生と同じじゃないか。自分はあんな風に稜を縛りつけたりしたくない。稜には稜の世界がある、それを邪魔するのは嫌だ。

 真っ直ぐで、言うことはハッキリしているけれど優しい稜。ハンデがあっても、自分にできることを探して、世界を広げている彼。こんな風に堂々と生きていけたら良いなと、憧れは確かにあった。それ以上でもそれ以下でもないはずだ。いや、それ以上の気持ちなどないはず。


(違う……違う、違う……っ)


 それ以上の気持ちってなんだ、と真澄は手に力を込める。友情は友情だ、それ以外にはならないはずだろ、と自分で両頬を叩いた。目をつむると、瞼の裏では元同級生がこちらを見て、目線で何かを訴えている。

 ねぇ、見てよ。こっちを見て。気付いて……。

 その子が、真澄の姿に変わった。媚びた目をして見上げて、甘えた声で擦り寄ってくる。

 ――認めろよ。真澄は僕に縋りつかれても、何も言わなかったじゃないか。嫌だったら嫌と言えばよかったんだ、この偽善者。

 真澄の顔で、声で、元同級生と同じことを言ってくる脳内の男は誰なのか。足元がふらついてその場に座り込むと、また偽善者、と声がする。

 あの時、拒みきれずにいた自分をずっと後悔していた。消息不明で真偽もわからないとはいえ、あの子は真澄の心にずっと居座るほどの傷をつけた。

 稜のそばにいれば大丈夫のような気がしたのに、ミイラ取りがミイラになった気分だった。自分はあんな風にしない。そう思っていたのに、あの子と同じ感情を自分は稜に向けている。

 認めろ。もう一度、脳内の誰かが囁く。

 嫌だ、と真澄は泣いた。この関係を壊したくない。穏やかで、優しい気分にさせてくれる稜が大切なんだ、と。

 ――好きだから、このままの関係でいたいんだ、と。

 真澄は涙を拭う。今は仕事中、切り替えなきゃと顔を上げた。あまり同じ場所を掃除していると怪しまれる。しっかり涙を拭いてから立ち上がり、料理をしようとリビングに向かった。

 稜は点字タイプライターで点字を打っていた。ガチャガチャと重たい音を立て、時折考えているように止まる。集中しているみたいなので、真澄は邪魔にならないよう、静かにキッチンに入った。

 まずはネギをみじん切りにし、豆腐を大きめに切る。にんにくと生姜のすりおろし、ネギのみじん切りをフライパンに入れて、ごま油で香りが立つまで炒める。すると匂いに気付いたのか、稜がカウンターまでやってきた。


「いたのか。今日のおかずは何?」

「麻婆豆腐と、春雨サラダ」


 辛いの美味そう、と笑う稜はこちらを優しい目線で見ている。それが落ち着かなくて、「作業しなくて良いの?」と促すけれど、キリが良いから休憩、とその場から離れない。


「キッチンにいる真澄を見てると、何か落ち着く」

「……」


 真澄は少し頬が熱くなった。稜だって好きな人がいるくせに、期待させるようなことを言わないで欲しい。


「見てるって……見えないでしょ」

「多少視力はある。……よかった、もう話してくれないかと思った」


 ホッとしたような稜に、真澄は居心地が悪くなった。声色である程度の機嫌がわかってしまう稜だ、自分の稜への気持ちがバレてしまったらどうしようと思う。


「真澄、何で怒ったのか教えて?」


 いつもなら、直球で強く聞いてくる稜なのに、今は真澄が嬉しくなるほど優しく尋ねてくる。やっぱり自分を大切にしてくれてるんだ、と思うけれど、これに甘えてはいけない。

 真澄はフライパンにひき肉と豆板醤を入れ、炒めながら答えた。


「……怒ってないよ」

「そう? その割には、真澄の声からは拒絶を感じるんだけど。咲和に対してじゃないなら、俺だろ? 教えてよ」

「……稜にも怒ってない」


 手を動かしながら、真澄はできるだけ平静に話す。


「僕、友達いないから……稜たちのような関係が羨ましかっただけ。っていうか、びっくりしたよ、内藤くんがあんな風に反省するなんて」


 真澄はあえて話題を変えた。彼と稜が会うまでは、あんな態度になることも想像つかなかった。一体稜は、どこまで気付いていたのだろう?

 すると稜は何かを思ったのか、少し間を置いてから話し出す。


「……まぁ、大学でアイツに会った時、発言からして独占欲丸出しだったし。真澄のことが好きなんだろうな、とは思った」


 稜いわく、好きなのに嫌なことをするのはなぜだろう、と考えたそうだ。そして出てきた仮説が、実は好意の裏返しなのでは、ということだった。稜と真澄が笑顔でいるところを見せつけ、真澄にとって居心地良い関係はどちらかを示せば、ちゃんと真澄が好きなら考えるはずだ、と。

 それを聞いて自分では気付かないものだな、と真澄は思う。元同級生ほどあからさまではなくても、その片鱗はあっただろうに。


(内藤くんのこと、知ろうともしなかったから当然か)


 元同級生とのできごとから、人と深く関わることを避けていたから当然と言えば当然だろう。それなのに、稜には家庭のこととかも話してしまっている。自分がどれだけ彼に心を許していたのか、いまさらになって思い知らされた。


「……塩麻婆豆腐と普通の、どっちが良い?」

「……じゃあ塩で」

「わかった」


 真澄が動くと、稜が目で追っているのがわかる。自分には稜がどんな風に見えているのかわからないけれど、動くものを追えるくらいには見えるらしい。

 フライパンに水と調味料を入れ、さっと混ぜると豆腐を入れて煮立つまで待つ。その間に春雨サラダを作っていった。


「真澄……」

「なに?」

「……何か、距離を感じる。怒ってないなら何が原因なんだ?」


 そう言う稜はいつもより優しい。黙って不機嫌を表すなと言っていた彼が、真澄の顔色を窺っていると思うと、彼も珍しく狼狽えているらしいと悟る。


「ごめん。自分の問題だから気にしないで?」

「……もしかして、咲和が真澄の容姿について話したことか? 本当に、何が原因? わからない……」


 稜は苦しそうに顔を顰めた。


「咲和は指点字で『真澄は綺麗すぎて女が嫌煙するタイプのイケメン』って言ってた。でも俺には外見が見えないし関係ない。真澄もそこに安心してくれてたんじゃないかと思ってたけど、違うのか?」


 良い感じだと思ってたのに、と稜は寂しそうに呟く。真澄は首を振りながら「ううん」と苦笑した。


「稜は僕が嫌なこと、一切してないよ。ただ……」


 真澄は手を止めて、稜を見る。切れ長の目はやはり視線が合っていないけれど、真澄の真意を探ろうと真剣だった。


「さっきも言ったけど、稜はほかにも友達がいるんだから、僕が独占しちゃ悪いかなって思っただけ」

「何でそうなるんだよ? 俺が真澄といたいからそうしてるのに」


 稜の言葉に、真澄は息を詰める。

 わかっている、稜が言うのはあくまで友達としてだ。期待する方が間違っているし、そうして痛い目を見るのも自分。勘違いしてはいけない。


「っていうか、僕が嫌なんだよ。元同級生の話をしたでしょ? 恋愛感情じゃないにしても、重くなるのは嫌なんだ」


 色々踏み込みすぎた自覚はあるよ、と言うと、なぜか稜はさらに苦しそうな顔をした。まるで傷付いたようなその表情を見て、嘘つき、と脳裏で自分の声がする。


「真澄……」

「ごめん。契約だから今後も仕事はするけど、資格についても色々調べなきゃだし、これ作ったら帰るね」


 そうしないとボロが出そうだったから、とは言えなかった。稜がすんなりと引く性格じゃないことは、今までの付き合いでわかっている。だからなぜ真澄が距離を取ろうとしているのか、今後もしつこく聞かれるだろう。そういう時は曖昧に笑って、咎められたらごめんと謝って逃げればいいのだ、――今までそうしていたように。

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