第18話

「……落ち着いたか?」


 しばらく思い切り泣いてスッキリしたころ、稜が静かに聞いてきた。彼の腕の力が少し弱まり離れると、真澄は手で涙を拭いながら笑う。


「ごめん……何か止まらなくなっちゃって」

「……大丈夫」


 そう稜は言いながら、なかなか離れないことに真澄は気付く。今更ながら親密な距離が恥ずかしくなって、そうだ、と半歩下がる。


「内藤くんから連絡があって」

「……何だって?」


 稜の顔色が変わった。眉根を寄せる彼の表情は、どう見てもネガティブな感情だ。


「何か言われた?」

「え、いや。……何か、人が変わったみたいになってて、謝りたいから会えないかって」

「会ったのか?」


 なぜか稜の眉間の皺は取れない。真澄は無言で首を振って、これじゃ稜には伝わらない、と改めて声で否定した。


「ここに来る直前だったから、明日に……。今までの僕だったら、流されて会ってたと思……」

「明日の何時? 俺も行く」


 稜は真澄の言葉を遮った。

 ――彼の様子がおかしい。いつも話を遮ることなんてしないのに、今は不機嫌を隠そうともしないし、真澄からも離れない。真澄は彼の顔をじっと見るけれど、表情からは真意は見えなかった。


「稜?」

「真澄、危機感なさすぎ。嫌なことされてたんだろ?」

「そりゃ、そうだけど……」


 でも電話での内藤は、本当に反省したかのような態度だった。それが嘘だとは思えないのだ。

 すると稜は舌打ちする。それが少し怖くてまた半歩下がろうとしたら、腕を掴まれて引き戻され、両肩を掴まれた。


「煽った俺にも責任あるか……。いいか真澄、俺も行く。なるべく人がいる、ファミレスで会って」

「ちょっと待ってよ。何で稜まで……そこまでしなくても……」

「アイツと真澄の仲がこじれたのは、多分双方に原因がある。でもきっかけになればと煽ったのは俺。俺も責任を取らないと」


 何それ、と真澄は思う。確かに、最初は普通に友達だった内藤が、変わっていったのは自分に原因があると思う。けれど真澄を困らせていたのは内藤だし、稜が責任を取る必要はない。


「今から電話して約束してくれ。絶対俺も行くから」

「わ、わかった……電話するから離れて」


 真澄は稜の胸を両手で押すと、案外素直に離れてくれた。何だろう、今の稜には逆らえない何かがある。

 スマホを取り出すと、履歴から内藤の連絡先を呼び出し、電話をかけた。数コールで出た彼の声は驚いているようだ。


「あ、内藤くん? ごめん、明日のことなんだけど……」


 真澄は自分が都合の良い時間を伝えると、内藤は「真澄に合わせる」と言った。場所も、会ってくれるならどこでもと言うので、稜の家から近いファミレスを指定する。

 じゃあまた明日、と通話を切ると、稜がすぐそばで会話を聞いていた。


「稜? これで良い?」

「ああ」

「どうしたの? 稜らしくない」


 やっと椅子に座った稜を見届けてから、真澄はエプロンを着ける。すると稜は、大きく息を吐きながら両手で顔を拭くように動かした。


「……そうだな、俺らしくない。……悪かった。でも、心配だから明日はついて行っていいか?」


 真澄はわかった、と了承した。今回はちゃんと断ることができたけれど、自分でもまた流されて、内藤のいいなりになるかもしれないと思っている。少なくとも稜がいればそれは免れるかもしれないし、人目がある方が内藤は大人しいだろう。


「真澄……」


 呼ばれて先を促すと、稜は少し凹んだらしい、苦笑していた。


「俺は、いざと言う時に真澄を守ってやれない。それが悔しい」


 ――ハッとした。いくら心配だからと言ってついて来ても、稜は何かあっても動けないのだ。そしてそれは彼が一番よくわかっていて、一番もどかしく思っているのも彼だ。真澄は友達なのに守れなかった高校の同級生を思い出して、口の中が苦くなる。


「稜、……大丈夫。何かあってもそれは僕の責任だし、稜のせいにしない」


 ちゃんと助けを呼ぶよ、と言うと、そうじゃないんだ、と返ってくる。


「俺が、……俺自身が真澄を守りたいんだよ……友達として。普段は、身近な危険から俺を守ってくれてるだろ?」

「……」


 そんな考え、したこともなかった、と真澄は目を丸くする。すると軽く笑った稜は忘れてくれ、と立ち上がって自室に行ってしまった。

 いくら多少視力があるとはいえ、彼は白杖を使うほどのハンデを持っているのだ。初めてここで仕事をした時のように、置かれた椅子に突っ込んで転んだり、割れた点字ブロックの段差に足を引っ掛けたりしたこともある。見えていれば起こらないこれらは、やはり彼は視覚障がい者なのだと思い知らされるのだ。

 そして稜自身が真澄を守りたいと言ったのは、彼の本音なのだろう。昨日のお泊まりから稜の繊細な部分が見え始めていて、真澄はきゅう、と胸が締めつけられる。

 大切だから守りたいと思うのは真澄も同じだ。稜を自分の得意な分野で支えたい。苦手な分野は、稜が支えてくれている。


「持ちつ持たれつ……だよね」


 気にしないで、と言ったところであとの祭りだ。稜は多分、自分の視覚障害を改めて強く、自覚させられたのだろう。

 彼なら持ち前の好奇心と向上心で、見えないことが普通だったから、と気にしない性格になりそうだけれど、やはり真澄も見たように、晴眼者との差別を受けていたのもあるかもしれない。


「……僕が、できることで稜を精一杯サポートするしかないよね」


 ――そうだった。初めは、家事代行も必要ないと一人でやろうとしていた稜なのだ。そして、必要以上に手を出そうとする介助サービスの人に嫌気が差していた。


「そこが、稜のジレンマなのかな……」


 なまじ視力があるからこその差別とジレンマ。そして真澄は、そこをどう支えたら良いのか考えている。友人として。


 しばらくして、二階から稜が降りてくる音がした。キッチンの掃除をしていた真澄は、手を止めて彼がリビングに入ってきたのを確認する。


「真澄?」

「ここだよ。どうしたの?」


 パッと見いないと思ったのだろう、探すように声をかけられ、真澄は返事をする。正確にキッチンの方を向く稜に、やっぱり耳は良いんだな、と思う。


「明日アイツに会う前に、会わせたい奴がいる。時間あるか?」

「え、……じゃあ、稜の家の前の依頼が終わったらすぐ、ここに来るよ」


 でも、会わせたい人って? と真澄は尋ねる。すると稜は頭をかきながら顔を背けた。


「その、……最近ちょいちょい話題に出る奴」

「幼なじみの?」


 稜は返事の代わりにため息をついた。不本意ながら、という雰囲気がひしひしと伝わってくる。


「俺の目の代わりになってくれる奴って、そいつくらいしかいなくて」


 稜いわく、真澄に何かあった時、一緒に助けてくれる人を呼びたかったらしい。しかし、稜と真澄の関係を知っていて、晴眼者となるとその人しかいないらしく、とても嫌だけどお願いしたのだとか。


「っていうか、僕に会いたがってた人でしょ? 稜が僕のことを話したんじゃないの?」

「……俺が健常者の友達ができたって言ったら、どんな経緯いきさつで? ってなるだろ……」


 なるほど、と真澄は思う。彼は自ら真澄のことを話した訳じゃないらしい。ではなぜ、その幼なじみは真澄のことがわかったのだろう?


「じゃあ、どうして僕のことを知ってるの?」

「……シャツ」

「え?」

「着るシャツ、どうしても見えやすいものを選んじまうんだよ。自分しかいなかったから、テキトーになってて……」


 さすがに毎日真澄が来るとなれば、多少気を遣わないと、と思って選んでいたらしい。

 なるほど、と思う。確かに、出会ったころは鮮やかな青色のシャツを着ていた。ここのところ、着ているところを見ないなと思っていたのだ。


「シャツもよれてないし、顔色も声色も明るくなった。何が起こったって詰め寄られて……」


 さすが稜より好奇心があると言われる人だ、それで根掘り葉掘り聞かれて話したらしい。

 だからか、と真澄は納得した。彼が幼なじみのことをあまり話したがらないのは、自分のかっこ悪いところが露呈するからだったらしい。

 真澄は思わず笑った。夜道が怖いのに強がったり、同じシャツを着回していることを恥ずかしがったり、かっこつける稜がかわいいと思う。


(……いや、背は高くて見た目はかっこいいんだけど)


 心は広くて強いのに繊細。本当はズボラなのに見栄っ張り。だんだん稜の色んな側面が見えてきて、楽しい。


「笑うなよ……傷付くだろ?」

「ごめん。もしかして最初、バナナばっかり食べてたのも、料理が難しいとわかってヤケになった?」

「……まあ、そんなとこ」


 手先はそんなに器用じゃないんだ、と椅子に座る稜。


「俺の杞憂なら全然良い。けど、万が一ってこともあるから」


 気を取り直したように言う稜には、先程のような不機嫌さはない。心配してくれてるんだな、と心がくすぐったくなった。


「わかった」


 真澄は微笑んでそう返事をすると、稜もくすぐったそうに笑った。

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