第9話
「高岩さん?」
黙った真澄が気になったのか、稜が呼んでくる。彼を見ると、視線はやはり合わないけれど、冷静にこちらを見ていた。
(何だ……)
やはり原因は、自分だったのだ。親身になって話を聞いて、助けてあげなきゃと同情し、それが行き過ぎて相手を暴走させていた。そしていざとなったら、愛想笑いをして逃げていた――高校の時と同じじゃないか、と。
もちろん、必要以上に真澄に依存した相手にも問題はあったのだろう。けれど、それを許したのも真澄だ。
「脇崎さん、聞いてくれる?」
「なに?」
真澄は話した。高校の時に同性の同級生に執着され、偽善者と突き放されたあと消息不明なこと。そしてそれが真澄の心を傷付け、叔母と知り合いがいないこの場所に来たこと。それなのに、大学でも同じように執着されていることを。
「なぜか今、冷静にこの話ができるのも不思議で。……脇崎さんには何でか抵抗なく話せちゃった。どうしてだろ?」
「俺は別に……」
本当は思い出したくもないできごとなのに、稜といると不思議と話せる。それは容姿のことだったり叔母とのことだったり……やはり稜には、人の心を開かせる何かがあるのかもしれない。
しかし稜の方はなぜか顔を背け、口元を手で押さえていた。
「ずっと友達がいなかったからさ、話しかけられるだけで嬉しくて、つい何でも聞いてあげたいって……」
でもそれが、結果的に相手を甘やかし、付け上がらせる原因になっていたのだとしたら、真澄は態度を改めるべきだろう。本当は、それに気付いていたのかもしれない。けれど、ちゃんと向き合おうと思ったのは、稜がちゃんと真澄と付き合ってくれるからだ。対等な関係とは、双方が気を付けてこそ成り立つものだから。
「ああ……うん。高岩さん、心の距離感バグってる感じはする……」
なぜか顔を逸らしたまま大きなため息をつく稜。真澄は慌てた。
「う……ごめん」
「ああうん。責めてない大丈夫。……何だろ、心臓に悪いなこれ」
「え?」
言葉の後半が聞こえなくて真澄は聞き返すけれど、稜は何でもない、と笑う。
「高岩さん、もしかして今までの人たちに、今と同じような感じで話してた?」
「……どういうこと?」
真澄は稜の質問の意図がわからず、聞き返す。好意を持って接してくれるなら嬉しいし、同じように接してあげたいと思うのは、普通のことだと思うけれど。
すると稜はなるほどね、と呟いた。
「悪い意味でモテてたんだな。根が素直なんだ、うん」
「そんなことはないと思うけど……」
「俺と初めて会った時ほど警戒しろとは言わないけどさ、仲良くなってもある程度距離は必要だよ?」
「そうだね……うん、気を付ける」
稜の話にそれもそうか、と納得すると、稜は唐突に真澄の大学に行ってみたい、と言い出した。
「普通の大学ってどんなのか気になる」
どうやら稜は、好奇心旺盛らしい。新しいもの、知らないことを見聞きすることは、点字翻訳にも役に立つそうだ。
「点字を読む人は、生まれつき目が見えない人だけじゃないから」
「……そうか。病気や事故で目が不自由になることだってあるよね」
そう、と彼は頷く。そういう人たちに向けて、とくに小説の点字翻訳はセンスが必要らしい。稜と同じように、紙で本を読みたいという視覚障がい者もいるからだ。
すごいな、と真澄は思う。稜が示す興味は、大元を辿ればすべて点字に繋がっている。そこまで彼が夢中になる点字とは、どれだけ面白いのだろう?
「……と、それよりも。その困った人にはちゃんと言わないとね。嫌なことは嫌だって」
「う、言えるかなぁ……」
真澄は苦笑して肩を竦める。しかし稜は微笑んでいた。
「大丈夫、言えるよ」
「……」
優しい、けれど力強い声。稜のその声は、不思議と真澄の自己効力感を高めるのだ。何だかできそうな気がする、とそんな風に。
そして同時に、真澄の胸は高鳴る。自分は本当に、変われるかもしれないという期待と、稜がそれを信じてくれている、という嬉しさで。
普通なら、無責任なことを言うなと思うだろう。真澄も、稜と出会って間もないころにそう言われたなら、笑ってスルーしたかもしれない。けれど、彼は想像以上に多くの人に接してきていて、その経験則から言っているのだと、勘でわかる。
なぜなら彼は、自分が生きづらかったからこそ、苦しむ相手に寄り添える人だからだ。
「……ありがとう。頑張ってみるよ」
「うん」
真澄は胸に落ちた、少し熱いものを握るように胸の前で拳を握る。何かあればすぐに連絡くれていいから、と言う稜に、真澄は再度笑って「ありがとう」と伝えた。
それから稜に、大学で具体的にされたことを聞かれて正直に話した。警察に相談するべきだとハッキリ言われたが、真澄が調べたところ、軽微なものはとりあってくれないことが多いらしい。
金額にしても、脅迫された状況にしても、危険があるとは思えなかった真澄は、大丈夫と言って稜を宥める。
自分のことで、こんなに心配して怒ってくれる人は、両親以外初めてだと笑ったら、彼は何だか複雑そうな顔をしていたけれど。
◇◇
「そういえば、高岩さん名前は何て言うの?」
約束通り、稜の社会見学で真澄の大学を二人で歩いていると、彼はそんなことを聞いてきた。今はプライベートな時間だし、別に良いかと教える。
「真澄……。じゃあこれから真澄って呼んでも良い?」
「え、うん。……良いよ」
キャンパス内に入ってから、稜はずっと楽しそうだ。彼は福祉系の専門学校に通っていて、雰囲気も規模も全然違う、とはしゃいでいる。
大学だから、色んな人がいるので気にする人はそんなにいないけれど、稜が真澄の肩を掴んで歩いているので、そちらの方が悪目立ちしているみたいだ。
「じゃあ俺のことも稜って呼んで。あ、階段あるなら手前でスピード落として欲しい」
「わかった」
言う通り、真澄は段差の前でスピードを落とす。上りか下りか、そこで伝えるというのも稜と過ごしているうちに覚えた。
「上りだよ。三段」
「ありがとう」
灰色の階段を、稜は慎重に白杖で確かめながら上る。
「段鼻がわかりにくくて怖いな……」
「段鼻?」
聞き慣れない言葉に真澄は聞き返すと、「段差の端のことだよ」と教えてくれた。真澄は階段を見下ろす。確かに段鼻と言われる箇所に、黒く細い線が入っているけれど、視覚障がい者のためというよりは、デザインの意味合いが強いもののようだ。
「黒い線はわからない?」
「わからない。全部灰色」
そっか、と真澄は階段を上がりきると、段差はもう無いことを稜に教える。
大学も、改修工事をしてスロープなどのバリアフリー化を図っているけれど、圧倒的に健常者が多いのでどうしても後手に回りがちだ。今まで意識していなかった大学でさえ、こんなに不便なことがあるんだな、と真澄は足を進める。
今日は二人の予定が空いている時間で、フードコートに行くことにしたのだ。その時間なら同じゼミの内藤もいないだろうし、絡まれることもないと思った。
真澄は稜を席に座らせると、二人分の飲み物を買いに店へ行き、すぐに戻る。お待たせ、と声を掛けると、彼は微笑んだ。
「人の雰囲気も全然違うなぁ。やっぱり、青春を謳歌してるって感じ」
見えないのにも関わらず、稜にはこの大学がそういう風に感じているらしい。建物も明るい雰囲気で良いね、と楽しそうだ。
「そうだね。友達と遊んだり勉強したり……。僕はそうなれなかったけど」
「え、何で? 今まさに友達と大学にいるじゃん」
心底不思議そうな声がして、真澄はハッと顔を上げる。すると、顔をこちらに向けている稜は笑っていた。
「真澄も、こうしたいって思えばできるよ」
それとも、俺じゃ友達には役不足かな、と言われ、とんでもない、と真澄は両手を振る。
「むしろ僕なんかが友達で良いのかなって……何の取り柄もないし……」
「何で? 料理作るの上手いじゃん」
「だってそれは……必要に迫られて作ってただけだし……」
「それにしたって上手いと思うよ?」
稜はどうしても、真澄に料理上手のレッテルを貼りたいようだ。真澄は眉を下げると、名前を呼ばれる。
すると彼は立ち上がり、手で探りながら真澄の隣に座った。急にどうしたんだろう、と思っていると、「両手を出して」と言われる。言われるがまま手を出すと手を取られ、テーブルの上に置かれた。
何だかパソコンのキーボードを打つような体勢だな、と思っていると、真澄の両手の上に稜の両手が重なった。
「……だ、い、……じょ、う、……ぶ」
そう言いながら彼の指が、真澄の指をタップする。それは、稜が点字のタイプライターを使っている時のような動きだ。真澄は隣の彼を見る。
稜が柔らかく目を細めた。それが笑ったのだと気付き真澄は視線を逸らす。
「もしかして、点字?」
「そう、指点字」
スッと手を離した稜はそのまま隣にいるようだ、背もたれに身体を預けたが、微笑んだままこちらを見ている。
普段は顔を見合わせても、視線が合わないことが多い稜。今も少しだけズレたところを見ているのかな、と思うけれど、何だか照れくさくて真澄の方が視線を合わせられない。
「へ、へぇ……こんなコミュニケーション方法もあるんだね」
手話みたいだ、と真澄は言うと、盲者とろう者とのコミュニケーションは点字と手話が一番有名だよね、と稜は笑う。
「俺は真澄が生きてる世界を知りたいと思ってるけど、逆に、俺たちの世界も知って欲しいって思う」
「うん」
いつになく優しい声音の稜に、真澄の胸が熱くなる。彼から発せられる言葉の一つひとつに、大きな想いが乗せられているような、そんな感じがした。
(そうか……点字を勉強してるのだって、視覚障がい者の現状を伝えるためだって言ってたし……)
正直、知って欲しいと稜が願ったうちの一人に、自分がいて嬉しく思う。そしてやはり彼のために何かできることはないか、と思うのだ。
「指点字は盲者だけじゃなくて、ろう者にも使えるから便利だよ」
ただ、相手も点字を知っていないと無理だけどね、と稜は苦笑する。
「何だか覚えるの大変そう……」
真澄は率直な感想を漏らす。けれど稜は、「法則性があるから、それさえおさえれば」と言う。
「もう一度両手を出して?」
言われるまま真澄は両手を出すと、再び稜の手が重なった。
「あ、い、う、え、お。……この母音に、子音がつく。例えば、か行はこれ」
そう言って彼は真澄の指をタップした。どうやら「かきくけこ」と伝えたらしい。しかし今のは話の流れから真澄が予測しただけであって、何も言われず指をタップされても、到底理解できそうになかった。
「うー、やっぱり難しいよ」
「あはは、慣れだよ、慣れ」
稜は声を上げて笑う。初めて聞いた彼の笑い声に、真澄も嬉しくなって笑った。
こういう関係って、良いな、と真澄は思う。今までは口を開けば愚痴をこぼす関係ばかりだったので、やっぱり稜とは良い関係になれそうだ、と思った時だった。
「真澄? 今日はもう授業ないだろ、何でいるんだ?」
その声に真澄の肩がビクリと震える。見上げるとそこには、いつになく険しい顔の内藤がいた。
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