3 魅力

第8話

 それから、真澄は稜と連絡先を交換した。

 仕事とプライベートを、一緒にするのは良くないと思いつつも、自分の話を聞いてくれる稜は真澄にとって貴重な存在だ。土日の比較的時間がある日には、稜の家に出勤し仕事を終えたあと、プライベートの時間として稜と話したり、出かけたりすることになった。今も、ダイニングテーブルに着いて、麦茶を飲みながら話をしている。

 稜はバイトで点字翻訳の仕事をしているらしく、将来もその道に進みたいと話してくれた。


「歌詞とか、思い入れのある本の点訳とか、結構需要があるんだよ」


 稜の点字への興味は幼いころからあったようで、街中の至る所にある点字を読み漁っていたそうだ。目が見えないのに読めることが楽しかった、と彼は言う。


「けど、まだまだ行き届いてないって思うんだよね」


 それは、真澄も稜と出会って感じたことだった。点字ブロックがある場所は限られているし、しかもあろうことか破損している箇所もある。先日、まさにその割れ目に稜が足を引っ掛け、転びそうになったのは記憶に新しい。介助として真澄がいなければ、稜は派手に転んでいただろう。


「一人ひとり、見え方が違うから全員が満足するようにはできないけど」


 視覚障がい者が最低限、普通に過ごせる世の中になってほしい、と稜は点字を通して声を上げ続けているらしい。

 稜が一人実家に残って、やりたいことがあると言っていたのは、この点字の勉強だったのだ。そしてそこまで稜が熱を注ぐ点字翻訳に、真澄も興味を持った。


「とくに気合いが入るのは、本の翻訳。点字図書館にないものとか」

「……点字図書館?」


 稜と話をしていて楽しいのは、知らないことばかりだからだ。新しいことを知るのは楽しいし、それを話す稜も楽しそうにしている。そんな彼を見ていると、心がくすぐったくなって嬉しい。


「最近は音訳って言って、本を音声にした録音図書とかもあるんだ。そういうのを貸し出す施設だよ」


 なるほど、と真澄は思う。稜がパソコンを扱う時にイヤホンをしているのは、画面読み上げソフトを使っているからなのだ。


「サブスクでもあるよね、朗読した本が聴けるサービスが」


 真澄はそう言うと、稜は「すごくお世話になってる」と笑う。

 プライベートの時間は、真澄もタメ口で話すことになった。だからかすごく距離が近い感じがして、照れくさい。


「でも、紙をめくって読むっていう行為に、俺はすごく憧れるんだよなぁ」


 それはすごくわかる、と真澄は思う。真澄も紙で読む本の方が、どちらかと言えば好きだ。便利な物が増えてきて、隙間時間に色んな暇つぶしができるようになった世の中。けれど、ゆったりと紙の本を読むような余裕が、欲しいと思う。


「それ、何だかわかる……」

「本当? ……やっぱ高岩さんと友達になってよかった」


 稜は本当に嬉しい、とでも言うように笑った。真澄も、初めての健全な関係の友達ができて、素直に嬉しいと思った。少なくとも、稜は友達だよねと言って無茶を要求しないし、介助をする真澄を偽善者と罵ったりしない。


「……僕も、脇崎さんみたいな人と、友達になれてよかった」


 真澄は少し照れくさくなりながら、本音を呟く。本当に、最初は苦手だと思ったことが嘘かのようだ。そして今みたいな関係に落ち着いているのは、稜が真澄を尊重してくれたからに違いない。


「……」


 しかし、稜の反応はあまり良くなかった。驚いたような顔をしていたけれど、そのあとに苦笑して「ありがとう」とポツリと言っただけだ。


「……あー、高岩さん? 良ければ今度、喫茶店に行ってみたい」


 稜は気を取り直したように、声音を戻した。週末は稜の社会見学と称して、二人で出かけることがルーティンになりつつあるので、真澄はその一環だと思って返事をする。


「良いよ。でも、喫茶店なら家族で行ったりしないの?」

「もちろん行ったことはあるよ。でも、ああいう所って介助が必要だし」


 そう言われて、真澄はなるほどと思う。点字のメニューなんて見たことがないし、バリアフリーでもない所が多い。そう考えると、視覚障がい者に関わらず、障がい者は出掛ける場所にも気を遣わないといけないんだなぁ、と感じた。

 そしてそれが、生きづらさを感じていた自分と、なぜか重なる。


「そういえば、脇崎さんは見えない訳じゃないって言ってたけど、眼鏡はしないの?」


 矯正したら見えるだろうに、と先日思った疑問をそのままぶつけてみる。けれど稜は眉を下げただけだった。


「眼鏡しても、視力は上がらないんだ。だから弱視。でもコンタクトしてるよ」

「……」


 真澄は、自分の無知さに恥ずかしくなった。そして五体満足なだけで、いかに不便が少ないのかを思い知る。ごめん、と謝ると、稜は笑って気にしてない、と言ってくれた。


「カレーのパッケージは顔を近付けて見てたよね?」

「ああ、あれくらい近付けば文字の輪郭はわかるから……」


 でも、いちいちそれをやっていられない、と言われて、それもそうかと真澄は思う。それなら人の手を借りたり、画面読み上げソフトで読んだりした方が早いからだ。

 稜のことを知れば知るほど、彼が想像以上に逞しく生きていて、自分の無知さを思い知る。けれどそこで稜と比べても卑屈にならないのは、稜が丁寧に教えてくれるからだ。そしてそんな稜に、真澄は少しでも力になれたら、と思い始めている。言うことはハッキリしているけれど、彼はきっと慕われるのだろう。初めて稜の名前を聞いた時に、思い浮かんだ気骨稜稜という四字熟語が、本当に稜を表す言葉なのだと、強く感じる。


「前まではルーペで無理やり本を読んでたけど、スマホがあれば拡大できるし、さらに音声で聴ける」


 便利な世の中だよね、と言う稜は、楽しそうだ。真澄も笑う。


「脇崎さんは、本当に読むことが好きなんだね」


 そう言うと、稜はまた、口を開けたまま止まった。そしてやはり何かを考えるように間を置いて、そうだね、と返してくる。


「……どうした?」


 何となくその間が気になって尋ねてみる。すると、稜は気まずそうに言った。


「高岩さん、モテない?」

「ええ? 何で?」


 思ってもみない言葉に、初めて言われたよそんなこと、と苦笑すると、稜はまた何かを考えている素振りを見せる。

 一体、どこをどうしたらそんな考えになるのか、と真澄は不思議に思った。今まで真澄の近くにいた人は、存在自体が鬱陶しいと言った叔母と、執着した挙句、消息を絶った高校生時代のアイツ、真澄を見かける度に絡んでくる内藤と、ろくな人がいない。そう思ったら、まともに話してくれる稜は本当に貴重な存在だ。


「……思えば、まともに友達らしい人できたの、脇崎さんくらいですし」

「……そうなの? 友達くらいいるでしょ一人くらい」


 そう言われて、真澄は苦笑した。いたら大学以外の時間を全部、バイトに充てはしない。むしろ高校の時の一件以来、人を避けてすらいたかもしれない。


「……多分僕、人と仲良くなるの、苦手で……」

「……あー……なるほど」


 真澄の言葉に稜はなぜか納得していた。どうしてと聞くと、最初はすごく警戒されてたから、と返ってくる。


「う、ごめん……」

「いや、良いよ。原因があるってわかったし」


 真澄は黙った。それはもしかしなくても、叔母のことを言っているのだろうか。稜のせいじゃないのに、失礼な態度を取ったかもしれないと思うと、申し訳なくなってきた。


「ごめん……」

「だから、俺は気にしてないって言ってるし、別に高岩さんを責めてない」


 すぐに謝るのなしって言ったよね、と稜は苦笑している。また同じことを言われてしまった、と肩を落とすと、「ほら、何考えてるかわからないよ」と言われた。


「いや、……何度も同じこと言われてるから、自分はダメだなって……」

「どうして?」


 普通に尋ねられ、真澄は戸惑った。どうしてと言われても、すぐに答えられないことを質問しないでほしい。答えがわからなくて、焦るから。


「同じ間違いをするのは、理解してない証拠……だから?」

「じゃあ、高岩さんは理解してないんだ?」


 今度こそ、真澄は言葉が出なかった。違う、そうじゃない、と思うけれど、今の発言をしたあとでは説得力はない。

 すると、稜はふっと笑う。それは嘲笑するものではなく、優しい、力が抜けた笑みだった。


「大丈夫だよ。高岩さんは人付き合いに自信がないだけじゃない?」


 俺も人付き合い上手くはないけど、と彼は苦笑する。


「環境が高岩さんをそうさせたってのは、何となくわかったから本当に気にしてないよ。ただ、その癖止めないと変な奴寄ってきそうだから」

「……」


 どうしてわかるのだろう、と真澄は稜を見た。彼はこちらを向いているけれど、やはり視線は合わない。なのに、真澄の心の中がわかっているかのようだ。

 目は見えないのに、彼は本当に人の機微にとても敏い。それは、自分が苦しんできたから寄り添おうとしているからなのか。


(すごいな……)


 やっぱり憧れる。こういう人ともっと早く出逢っていたら、自分の人生は少しくらい変わったのだろうか。

 ――この人といたら、自分も少しは変われるのだろうか?


「脇崎さんって、すごいよね……」

「え、何で?」

「本当に、僕の心読んでるんじゃ、って思うくらいわかってくれるし、自分も頑張ろうって思わせてくれる」

「……う」


 人と話していて、こんな気持ちになるのは初めてだ。しかし稜はなぜか呻いて、その口を手で押さえている。


「どうした?」

「……いや。俺、目が見えない分、ほかの感覚が鋭いらしくて」


 視覚障がい者にはよくある話らしいね、と真澄も頷く。とくに聴覚や触覚が鋭敏になると、何かの記事で読んだことがあった。しかしそれだけで、真澄の心の裡を言い当てることができるのだろうか。


「それは今置いといて。高岩さん、もしかして現在進行形で変な奴に困ってる?」


 やはり気付かれていたらしい。ぴたりと言い当てられて、真澄は苦笑した。


「何か……小さいころからよく絡まれるんだよね。容姿をからかわれたり……」

「ああ、だから容姿のこと言われると嫌なのか」


 そう、と真澄は肯定した。そしてやっぱり不思議だ、と思う。自分の見た目は鏡で見るのも好きじゃなかったのに、普通に稜とそれについて話していることに。


「だからなのかは知らないけど。大学でも絡まれて……前にちょっと話した、スーパーのバイトを辞めた理由」

「友達が会計を忘れたってやつ?」


 あれは高岩さんもやったの? と聞かれて、真澄は首を振った。しかしすぐに、これでは稜に伝わらない、と言葉で否定する。


「友達じゃないよ……最初はそう思ってたけど」


 そう、内藤も最初は話しかけてくれて、こんな自分に話しかけてくれるなんて、良い奴だと思ったのだ。だから彼の愚痴などを親身に聞いて、彼の助けになるのならと代返などを引き受けて……。


「……」


 真澄はヒヤリとした。とあることに気が付いてしまったからだ。

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