島津軍の太鼓の音が鳴り響き、鬨の声が聞こえる。だが、すぐに攻めてくる気配はない。

「報告。島津が辺りの者達の家を焼き、破壊しているとのこと」

 屋山の舌打ちが部屋に響く。いくら戦の習いとはいえ、慈しんできた民達の生活の場が敵によって消されていくのを見ているだけというのは忌々しい。ましてやこの数の差である。簡単に出撃できない高橋軍を良いことに、島津はしっかりと地固めが出来る。

「挑発に乗らず、守りを固めるように伝えよ」

 民を放っておくのは心苦しいが、わざわざ見え透いた挑発に乗る道理もない。

「殿、民は如何致す?」

 屋山が怒りを必死に噛み殺したような表情で尋ねてくるが、冷水をかける為、静かに紹運は口を開く。

「口惜しいが、彼らをこの城に入れては兵糧が持たぬ」

「殿、それでは民が行き場を無くしますぞ」

 吉田の訴えは間違っていない。だが、城に入れたところで高橋に呼応したと見なされ、殺されるだろう。慈悲の手を差し伸べてもいずれ地獄を見ることになるのなら、やむを得ない。

「島津が民に間者を紛らわせることもあろう。この城には入れぬ」

 吉田は釈然としていないと首を少し捻っている。数人の為に大勢の無力な者を見捨てるのかと言いたいのがよく伝わってくる。だが、全ての理由を話す訳にはいかない。

「島津はすぐにでも攻めて来よう。三の丸の兵にはよく支度するように伝えるのだ。他の者も油断するな」

 皆が頭を下げ、急いで出て行く。紹運もまた誰もいなくなった部屋で一つ息を大きく吸って吐くと歩き始めた。

 本丸は主戦場ではない。だが、誰かに話し掛ければすぐにでも斬りかかってきそうな気を将兵全員がまとっている。はたして島津の戦意はどれほどだろうか。既に島津の主力が精鋭ではないと知っている。戦功を立てるだけにしか頭にない連中の士気を如何に落とすか。

「百貫島砦に攻勢を仕掛けた由」

「あの砦は決して奪われてはならぬ。直ちに五十の兵を差し向けろ。それから三原に弾も矢も惜しむなと伝えよ」

 島津の動きは紹運の思う通りに進んでいる。この城を攻めるために必要な道と要所に築いた砦もまた良く働いている。やはり、自らこの日の戦の準備を万全にしてきた甲斐があった。

 遠くより聞こえる兵の声。さらに様子を見ようと紹運は櫓へと駆け上がる。島津の旗印が百貫島砦と虚空蔵砦から聞こえてくる。

「虚空蔵にも三十の兵を向かわせい」

 かの砦は岩屋城の大手口となる。二つの砦はどちらかが落ちた時点で岩屋の命運を大きく左右する要所。だからこそ紹運は信頼のおける三原と福田を置いた。福田は一人で兵十人の役割を果たせる勇猛な将。三原の百貫島よりも少ない兵を向かわせても大丈夫だろう。 

「島津も簡単には引き下がることはないな」

「島津軍の陣を見るに、国衆の後ろに島津がおるので御座いましょう」

「ならば、国衆も容易に下がることもままならぬな。功も立てずに退けば味方から矢が飛ぶ」

 無理やりにでも士気を盛り上げなければならないほど、国衆の戦意は低く。それを誤魔化すために国衆は兵を捨て駒にしている。

「高橋様、夜を待っては如何か?」

「……ならぬ。夜襲は敵も警戒しておろう。それに、数で押され、壊滅を免れぬ。今は守備に徹する」

 敵は拙速で来ている。ならば、こちらは巧守を貫く。紹運の役目は捨て身の時間稼ぎなのだ。


 ゆっくりと目を開ける。夢と分かっていたからか、特に寝汗をかいていない。まだ日は昇りきっていないが、夜通し警戒している兵の足音が聞こえる。

 紹運は深呼吸をして静かに気合を入れ、外へと出る。未だに焦げたような臭いがあちこちから漂う中、本丸は傷一つ付いていない。これがいつまでもつか。考えてはいけないことが頭をよぎり、強く頬を打つ。

辺りを見回すと遠くに吉田の姿を認めた。近付くとこちらに気付き、律儀に頭を下げる。

「殿、お目覚めで御座いますか」

「うむ。兵の様子はどうだ」

「やはり皆、疲れておるかと」

 そう言う吉田も夜をしたためか、目の充血がひどい。

「左様か。おそらく島津は今日も攻城を仕掛ける。お主は今が内に寝ておけ」

「いえ、某は平気で御座います」

「そうはいかぬ。こちらに参れ」

 やはり見ていた夢は当時の統虎をこの若き吉田に重ねてしまったからだ。高橋紹運の息子として生まれ、親の顔に泥を塗るまいと必死に生きていた。

 足を止め、吉田を一瞥するとすぐに歩を進めた。あれだけ強く立花家のためだけに生きろと命じたのにかような道連れを送り込むなど何と愚かなことをしたのだ。

 盟友の道雪に拒否しても何度も頭を下げられ、不承不承、立花家に養子に出してから少しはまともになっていると思ったが、阿呆なのは変わりない。家臣である吉田を見ればよく分かる。

 若い彼がここまで真っ直ぐなのは主の性格があるからだ。それを利用しているのだとしても、送り込むこと自体、いらぬ選択だ。

 道雪より統虎のことを支えるよう命じられたはずの由布と小野は何をしていたのかと直接叱り付けてやりたいぐらいだ。何なら書状を送り付けてやりたい。

 そう思っている内に吉田にあてがわれている部屋へと付いた。

「少しでも良いからここで眠れ。後は私がやっておく」

「殿お一人では危のう御座います」

 吉田は驚いて、部屋と紹運を交互に見る。まさか本当に寝るように言われるとは思っていなかったようだ。

「将が倒れては兵の士気が落ちる。構わぬから寝ておけ。それとも、私一人では何か起きた時に不安か」

「滅相も御座らぬ」

「ならば」

 紹運は部屋を顎で指すと吉田も慌てて部屋へと入って行った。

健気で大将のために尽くしてくれるのはありがたい。だが、張り切り過ぎて空回りしてもそれは無駄なことだ。死のうが負けようが決して褒められることではない。恥とされ、主に責められ、皆から嘲笑われる。皆を守る立場にある者としてそのようなことを自分の目が黒い内は絶対にさせたくない。

「今日も晴れる。島津は朝より攻めて来よう」

 問題はいつまで島津が攻撃を仕掛けてくるかだ。士気が高くても兵の少なさと疲労はいずれ顕著になる。いつになれば豊臣の援軍が来るのだろうか。

「いかん」 

 頭を振って紹運は邪念を外へと放り出す。この戦はあくまでも今、島津を進ませないようにするためのもの。先をたくすのは統虎らであって紹運ではない。

 だが、常に勝つことを求められ、大友の先を軍事面から任されていた紹運にとって、自らの決断は思ったよりも難しいものだった。普段ならこの城を守るだけでなく、他の城との連携や援軍到来の時期をも計算して戦略を考える。

 この戦はただ岩屋城を守るだけ。他の城も援軍も無い。単純だが、難しい。全てをこの城で賄い、他を頼ってはならない。どこかが誤っていても、補えるものがない。全てを完全なものにしなければならない。重圧は凄まじかった。屋山や三原の助言はあったものの、最後は全て紹運の判断になる。ましてや数の差は歴然であり、一つでも誤りがあれば、戦の始まった日に城は落ちていた。

(ひとまず、それは避けることが出来た)

 たった一日の戦を終えただけというのに、紹運の体は遠征を一カ月してきたような疲労感に襲われていた。兵たちがいなければ近くにあった正面の門柱にもたれかかっていただろう。

 紹運はこの場を後にして、裏へと回る。どこかに間者が紛れていないかと思ったが、その様子は無い。

 ただ一人を除いて。

「そちらから話しかけぬのか」

「話しかけようとしたら話しかけられた」

 不機嫌そうだ。気配を悟られたのが気に食わなかったらしい。だが、もう慣れている以上、隠すも何もあったものではない。

「で、何の用だ?」

「島津に動きあり」

 一瞬で二人の間の空気が変わった。先程まで少しだけあった穏やかな雰囲気が落ちてきた岩によって潰されたようだ。

「どのような?」

「それは分からない。けど、それなりに注意した方が良いよ。何せ、伊集院が動いている」

 本気になったということか。これで島津をここに止めるのがなお難しくなった。動いたことを悟ってもその内容が分からない以上、数で劣るこちらが下手に動くことは出来ない。

「多分、こちらには決して知られたくないんだろうね」

「厳しいか?」

「一人じゃ、まず無理だ」

 舌打ちすると紹運は頭をかく。早くも島津はこの戦が正攻法ままだと膠着状態になると悟ったのだろう。いずれそうなるとは思っていたが、動きが早過ぎる。

「伊集院か?」

「さぁ。そこまでは分からない」

 間違いなく伊集院が絡んでいる。決して口にしないが、互いに確信している。

「島津がここまで焦るのは?」

「豊臣だろ。それはお前も分かっているはずだ」

 国衆の寄せ集めを紹運ほどの将と相対するのに使っているのだ。それが分かっている時点で少しでも頭が働く者なら島津の実態を悟れる。

「探ることは出来ぬか」

「無理だ」

「受け手になれと?」

「元からそうだろう」

 ふざけているのか。

 怒鳴りたいが、兵も休んでいる。早朝から気分の良くない起こされ方などされたくないだろう。代わりに舌打ちを相手に与えてやると低く抑えられた笑い声が聞こえてきた。

「久々に機嫌の悪い処を見た」

「ふん。これ以上怒らせたくなくば、さっさと島津の動きを探ってこい」

 返事をしないまま相手の気配が消えた。言われた通りに動いてくれたのだ。だが、紹運にはその代償として激しい疲労感がのしかかった。心中に押さえ込んでいた思いや負の感情を拷問で観念した時のように一気に吐かされた気がする。もう一度寝直して気分を切り替えておきたい。吉田を強引に眠らせた以上、そのようなこと出来るはずもないが。

(せめて、吉田と会うのがあれよりも後ならば)

 今は何事も後手後手だ。紹運も正直なところ、この状況が疎ましい。

「やはりどこかで夜襲を……」

「なりませぬ」

 驚いて声のした方へ振り返る。一間(約一、八メートル)ほどの所にここにいないはずの人物が立っていた。

「三原……」

 三原の表情は厳しく、どこか悲しそうだ。はたしてこんな三原を今まで見たことがあっただろうか。紹運は記憶を辿ってみたが、彼がこれほどはっきりと表情を変えたことがない。

「この戦は岩屋が捨て石となる戦。ましてや既に島津に徹底的に抗うと宣言された殿が自ら死を近付けるような決断をされては皆が殿のことを嘲笑うでしょう」

「……何故にここにいる」

「島津の攻勢がなお激しくことは必定。すぐに援軍を送り込めるよう、上申に参ったので御座います」

 ゆっくりとした歩調で三原は紹運の隣に立つ。表情は既にいつも通りの落ち着いたものに戻っていた。高橋家を継いでから三原のことはよく分からないままだった。表情筋が何を考えているのか読み取ることも難しく、どのような時でも落ち着いている。まるでこの世の理も無常も全て思い通りと言うように。

 大友家の軍師であった角(つの)隈(くま)石宗(せきそう)のようだ。三原も角隈も相手の心を見透かしているような気味悪い目を向けてくる。だが、角隈が生きていた頃に向けられた目より、三原のそれは何も感じない。どうしてかと聞かれれば紹運はすぐに「知らん」と答えるだろう。三原にこんなくだらないことを聞く訳にもいかない。

「まぁ、良い」

「はっ?」

「援軍のこと、承知したということよ。すぐに二十の兵を向かわせよう」

「かたじけのう御座います」

「……待て」

 三原は配置に戻ろうと進めていた足を止め、振り返る。

「いつからそこへいたのだ?」

 紹運の問いが意外だったのか、三原は首を傾げる。

「いつからと……私はお願いを申し上げた際に殿を見つけた次第で」

 長い沈黙が落ちる。普段、家臣のことを疑うことがあっても、表に出さないようにしてきた紹運でも、気になってしまう。先程のやり取りは家臣には絶対に秘匿としてきたこと。しれれば紹運に何か裏があるのではと疑われ、不敬な者がいると城中を探す人が必ず出てくる。

 先程まで話していたのは紹運にとって絶対に欠けてはならない人物だ。それこそ、宗麟から授かった愛槍よりも数段上にいる存在だ。奴と比べれば申し訳ないが、家臣など砂粒ほどの価値しかない。だから、知られてはならないのだ。

「真か?」

「嘘など申しませぬ」

 他の家臣にも見られてはいけないが、最も見られたくないと思っていた三原がやり取りを知ってしまったかもしれない。体中から冷や汗が出てきて、ゆっくりと落ちていく。本当ならもう一度聞きたいが、最前線で戦う三原に変な疑心を植え付けるようなことはさせたくない。

「よい。もう戻れ」

「はっ」

 疑っている目をこちらに向けてこなかった。これでひとまず安心出来る。

(今だけ、か)

 三原は知将故になかなか表情を表に出さない。本当に先程のやり取りを見ていないのか。紹運の言動に疑いを持っていないのか分からない。三原と話していた時、紹運はかなり焦っていたのを隠しきれていなかった。

人を見る目が鋭いのが知将としての条件である。三原なら紹運の内心を読み取っていたとしてもおかしくない。真意を確かめようにも今は明日をも知れぬ戦の最中。

しかし、と紹運はふとある考えが頭をよぎった。だが、それはやってはならないと頭を一度横に振る。私情は歴史上の戦で敗因となると何度も父から教えられてきた。

 戦はこちらが圧倒的不利だというのに、私情を挟んだら島津が喜び、この城を半日もせずに落とすだろう。今から配置を変えても兵が混乱するだけだ。本丸から誰かに密命を与えて三原の下に向かわせてもそれほど信頼のおける者などいない。名のある将は皆、砦や出丸の守備に出ているし、吉田は立花の家臣である。

 改めて紹運は状況の絶望さを教えられた。元より死ぬのは覚悟していたため、恐怖は無い。だが、情深い彼にとって家臣から自らの失態で疑念を持たれるのは気分の良いことではない。それに、紹運も人である。えり好みではないが、それぞれに対して違う感情を抱いているのは致し方ない。

 今一度、三原のことを考える。彼も彼なりに高橋に忠誠を誓っている。分かっているが、一度疑うようなことがあればそれまでのことが全て疑惑へとなるのだから人は不思議なものだ。

(思い違いか)

 自然と溜め息がこぼれてしまう。だが、息を吐き終わると同時だった。

「……っ」

 背中に激痛が走る。様々な感覚が失われていき、体勢を整えることだけで精一杯だ。体の血の周りが一気に早くなり、心臓に負荷がかかるのが分かる。激しい目眩が起き、膝から崩れ落ちそうだ。

「はー……はー……」

紹運は周りを見て誰もいないことを確認すると深く、何度も深呼吸を繰り返す。徐々に痛みが消えていく。

「案ずるな……」

 自らに言い聞かせる内に異常な血の巡りによって熱くなっていた心臓の鼓動が落ち着てきた。これはいつぞやの夢の記憶。起きたことでも、これから先に起こることでもない。心身ともに完全に落ち着くまで意識的に大きく深呼吸を繰り返す。体の調子が戻ってくる。

 最後に大きく息を吐くと紹運は表に戻る。足取りに不安はあったが、すれ違う兵から気にされるようなことは無かった。

 近くにいた兵に床几を持ってこさせるとすぐに座り、戦略を練っているようにおとがいに手を当てる。実際には腕を膝の上に置いて、上半身が沈まないようにしているだけだが。それぐらい朝から疲れてしまった。

「殿」

 顔を上げると吉田が膝を着いていた。空を見上げると朝日が眩しい。どうやらかなりの時間、裏にいたようだ。

「よく寝たか」

「はっ、殿のおかげに御座います」

 吉田は鎧を付けている。普段なら歩くたびに聞こえる鎧の擦れる音で人が近付いているのに気付く。それが今、吉田は刀を抜けばすぐに届くぐらいの所にいる。

いくら疲れているとはいえ、今までこんなことは無かった。屈辱的だ。武人としても、家の主としても。だからとここで荒れるような真似をするほど、紹運は幼稚ではない。落ち着くように心に言い聞かせる。

「なら良い。日が昇りきれば島津は攻めて来よう。支度を進めるよう兵に伝えい」

「御意」

 吉田が去って行くのを見届け、紹運も立ち上がる。朝日は確実に空へと昇って行き、眩しさを和らげている。島津が動くのであればそれ相応の心構えをしておかなければならない。三原とのことは一旦忘れるように頬を自ら強く打った。


 案の定、島津軍は昨日よりも激しく攻めてきた。櫓から旗印を見るとどうやら昨日とは別の者たちが攻めている。物量の差をまざまざと見せつけ、こちらの士気を削ぐ気だろう。

 無論、それだけで兵の士気が落ちるはずがない。前日にあれだけの兵を相手に城を守ったのだから嫌でもやれるという思いが強くなる。さらに士気を盛り上げるにはやはり紹運自ら前線に出るべきだろう。戦わずとも声を上げ、皆に激を飛ばして回れば、将兵には絶望の闇に灯る一筋の光のような存在になるだろう。

 心でよしと膝を打つと紹運は兵に馬を引いてくるように命じると上っていた櫓から降りる。付き従っていた兵から自らの愛槍を奪うように取る。

 平静を装っていたが、紹運も武人である。生きるも死ぬも戦場であり、敵を倒してこそ生き様を示せる。目の前で圧倒的不利な味方が奮戦しているのを見ていれば血も騒ぐ。気概を見せんとする紹運の心は昂っていた。体の熱が上がっているのが分かる。今ならどんな敵にでも討たれるようなことはない。

「馬はまだか?」

「殿、一大事に御座います!」

 本丸と二の丸を繋ぐ門から物見の者が馬に跨ったまま声を上げてきた。

「報告、水源が断たれた由!」

 隣にいた吉田から何かが折れるような音がはっきり聞こえた。

「誰ぞ! 水源を教えたのは!?」

 怒り狂った吉田は刀を抜き、あろうことか報告にきた兵に突きつけた。突然のことに兵は腰を抜かしたような格好になる。

「吉田。落ち着くのだ。この城の者ではない」

「何故に!」

「我らの家臣は皆忠臣である故」

周りの兵から感嘆の声が上がり、士気が戻っていくのが分かる。吉田も熱くなっていた頭に冷や水を浴びたのか、刀を鞘に戻した。

 だが、事はそれで収まるようなことではない。他の将たちが知ればそれこそ混乱を招く。黙っておいても補給が無くなれば兵たちも悟るだろう。何故言わなかったという不満が出るかもしれない。だからといって言えば、今の戦に影響が出る可能性も看過できない。

 とはいえ、人の口に戸を立てることは出来ない。ここにいる兵たちが知ってしまった以上、いずれ城内の者にも噂となって広まるかもしれない。 

「また各所の動きを見てこい。何かあれば直ちに知らせよ」

「はっ」

 物見はすぐに飛び出して行った。水が無くなろうと戦は続く。今、水源で頭を悩ませたところで島津との戦に終止符が打たれる訳でもなく、事態が好転することもない。

 仕掛けてきたのが島津である以上、このことは敵に知れ渡っているはず。それでも、攻城を止めないのよはやはり豊臣の援軍を恐れてのことだろう。この城だけで見れば、水源と攻城で二乗の苦しみを味わうことになるが、大局的には被害を拡大させる好機だ。

 勢いに乗って島津は総攻撃を仕掛けてくる。そこを怯まずに叩けば必ず多大な被害を与えることが出来る。

(はたして、こちらと敵、先にどちらが膝を着くだろうか……)

「殿、水源のこと如何いたしましょうや」

「知らせる必要はない。この場にいた者らだけが知っていること。伝えよ。もしこれより先、本丸にいる者以外でこのことを口にした者がいれば、ここにいる誰かの仕業として、見つけ次第容赦なく斬り捨てると」

 兵たちの空気が凍り付く。吉弘、高橋と十数年兵を率いていた紹運だが、酷薄な言葉を配下に言ったことは無かった。

皆は情け深い紹運の口から戦場での敵将を討ち取る時に上げる声以外で、しかも味方を殺すという言葉が出るとは誰も思わなかったのだろう。いつもなら城中に響くような返事が小さかったり、頭を下げるだけの者もいる。

紹運はそれらを無視して物見に目を移す。

「戦況は?」

「敵は昼になり、攻勢を弱めております」

 動揺が拭えていない様子の物見だが、任務だと毅然と答えてくれる。

 島津が包囲を始めて三日。おそらく最初に予定していた日数は今日までだろう。午後からの戦に変化がある。紹運は結論付けると今度は吉田を見る。

「今が内に兵を休めよ。交代で敵の様子を見るのだ。吉田、悪いが先に休ませてもらうぞ」

「高橋様は朝より指揮をお取りになっております故、ごゆるりと」

 気圧されているのか吉田も声が小さい。かなり抑えている方だが、そこまでなのか。とりあえず頼むとだけ言うと紹運は本丸にある簡易的に作られた寝床に戻る。皆にそう見せかけて気付かれないように裏手へと回る。

 そして、今朝と同じ所に立った。ここは有事の際、誰もいなくなる。背後が急斜面の山で動物もここから登ってくることは無い。安心している訳ではないが、ここに辿り着くまでには鬱蒼とした林の中を通るため、敵が近付けば気配がすぐに分かる。

 近くの物影にいる輩に嫌というほど鍛えられた紹運ならそのようなこと容易い。

「周囲には誰もいないよ。何なら見張ろうか?」 

「ああ」

 それを合図に紹運は影にいた者の所に、影にいた者が紹運のいた所に立つ。

「あまり声を上げるなよ」

「……」

 言われるまでもない。紹運は頷きもせずに持っていた愛槍を構える。長く息を吐き、瞑っていた目を大きく見開く。右足を踏み出し、突く。それから振り上げ、斜めに振り払う。一回間を置くと体全体を使って飛び跳ねる。いつもだが、空中だとなぜか時間がゆっくりとして、相手の動きがはっきりと見える。今この場に敵はいないが、どこかから飛んできた緑色の葉が目に止まる。

 不意にそれが島津の家紋、丸に十の字が描かれた旗に見えた。踊らされた歯痒さは戦場での怨念とはまた違う怒りが湧き、民を利用された無念さと合わさって、槍を握る手に一層力がこもる。そして、一瞬だけ葉が止まったように見えた。

「……っ!」

 声を上げそうになったが、飲み込むように唇を噛んだ。否、何も無ければ兵たちにも聞こえるぐらいの雄叫びを上げてしまっていたかもしれない。着地すると葉は地面に落ちていた。優雅に揺れていたはずが矛先に捕まり叩き落されたのだ。

 体の力を抜くように紹運は始めた時と同じくらいの長さの息を吐く。先程よりも心が軽くなった気がする。

 紹運にとって民の裏切りほど悲しく、心を痛めつけられるものはない。今まで身分など関係ないと対等に接してきたが、やはりどこか彼らを守ってやっているという思いがあったのかもしれない。だから領民の誰かが水源を教えた。岩屋の水源は武人も商人、農民問わず、皆同じ所からひいている。無論、戦時の際、城に取り込む水は他にもあるが、有力な民の中には知っている者もいる。もはや詮索する気も起きないが、悔しさは募る。

 もう一度だけ、紹運は槍を横に力強く払う。風を切る音が遠くから聞こえる喧騒をかき消した。槍を下ろすと終わったと言う代わりに影から元いた場所に戻る。向こうの姿はとっくに無い。既に物影に戻ったのだろう。

 紹運がいた場所から足元をならす音が聞こえる。万一誰かがここに来た時の配慮だろう。すわ侵入者かと騒がれては紹運も面倒だ。

「よく耐えたな」

「ふん。お前が『こちらを』見張っていたからな」

 向こうはしてやったりと口角を上げているのだろう。紹運が声を上げそうになった時、殺気に近い視線を感じた。

「危うかった故な」

「お前には適わぬな」

「いつになく素直だな」

 向こうは本当に驚いているようだが、言葉を返すことが出来ない。それだけ衝撃だったのだ。完全に信じていた訳ではないが、民に裏切られるというのはこの地を託された者として情けない。

「あまり気に病むな。それに、此度は俺が悪い」

「え?」

 思わず生返事をしてしまったが、向こうはその反応に何か言ってくることもない。本気で詫びているようだ。

「島津の動きは分かっていた。されど、それだけだった」

「何を……俺は、お前には感謝しているのだぞ。何か動きがあると思うていた故に、物見の知らせにも動じることは無かった」

 そこまで言って紹運は失言だったと慌てて口を噤む。だが、既に遅い。

 間者にとって、敵の情報は自身の糧となる。より詳しいほど、ありつける報奨は大きく、主の信頼を得られる。だが、今回は情報を知らせつつも未然に防ぐことが出来なかった。これを屈辱と言わずに何とするのだ。ましてや、向こうは紹運との絶対的な信頼関係を築いているにもかかわらず、期待に応えることが出来なかった。

 悟った時、紹運の口からはすぐに出さなければと思った言葉が出た。

「……すまない」

「謝るのは止めてくれ。余計に惨めに思える」

 ならばどのような言葉をかければ良い。口にするほど紹運も阿呆な人間ではないが、気の利いた言葉をすぐに口に出来るほど聡くない。

 視線は合わせていないが、こちらを責めている目を真正面から向けられているようだ。

「で、次は何をすれば良い?」

 俯いていた顔を上げ、振り返る。紹運はいつの間にか向こうと背を向け合うように立っていた。

「本来なら誰が水源を教えたのか知りたいが……」

「そんなことしている暇などない」

 首肯する。水源を奪還している間に城を奪われる可能性もある。耐えて城を守っていた方が時間は稼げる。

「ともかく、今は国衆がどう動くかが知りたい」

「了解」

 国衆と一概に言えども、多くの者が参陣している。どことは言っていないにもかかわらず、すぐに飛び出して行ってしまった。

「あいつも焦っているではないか」

 からかっているのではない。同情しているだけだ。だが、どうしてもその言葉があれに最も適していると思い、口にしてしまった。

「されど、俺も同じか」

 溜め息を吐くが、もう拾ってくれる相手はいない。

 紹運が表へと戻ると将兵がこぞって寄ってきた。

 島津の攻勢が激しくなっている。さらなる増援が欲しい。各所より同じような報告が次々と飛び込んできている。全てに応えることは出来ないが、紹運はきっぱりと断ることはせずに守れと指示を繰り返した。

「吉田は?」

「ここに」

「私の代わりに各地を鼓舞して回れ、私からの言となれば皆も奮起する。水源のことは、黙っておけ」

「承知。殿は」

「情勢が変わった。私がいなければ各所よりの兵が混乱する。ひいては、各所の混乱を招く」

 早く行くように促すと吉田は一目散に馬へと飛び乗った。

「報告!」

入れ替わるように物見が戻ってきた。吉田が一旦馬を止めたが、紹運は首で砦のある方を指して促す。物見は紹運の指示には気付かず、馬を下りて駆け寄ってきた。

「敵の龍造寺、鍋島が撤退した模様」

「なんと」

 周りも紹運と同じような反応を示し、喜びの声も上がっている。だが、肥前の国衆は全く城攻めに加わっていない。

「敵の動きは?」

「国衆のほとんどが城攻めを開始している由」

紹運からすれば実に都合が悪い。なるべくなら本隊を引っ張り出したいが、揺さぶりをかけようにもかける余裕はない。舌打ちしたくなる衝動を堪え、紹運は櫓に上る。本丸の将兵全員の視線が集まる。込められた皆の不安が紹運にも重圧として圧し掛かる。

紹運は息をゆっくり吸って吐く。ここで押し黙っていても不安をますます与えてしまうだけだ。

「島津はこれより総攻撃を仕掛けてくるであろう」

 少しでも学がある者は紹運を見たまま目を見開いている。都合の悪いことは隠すべきこともある。島津との兵力差を考えれば総攻撃をかけられればひとたまりもないことは皆が分かっている。現に、兵の中には顔を行ったり来たりさせている。

「これは好機である!」

 全員が顔を上げた。紹運は口角を吊り上げ、余裕をみせる。決して虚勢を張っているわけではない。だが、何も言わなければ皆は内心怯えていると捉えるだろう。示すにはきちっとした理由を示さなければならない。

「良いか。我らは勝つのではなく時を稼ぐのが真の目的。それを忘れてはならぬ。幸いにも肥前の輩が撤退した。敵は国衆の総力を挙げ、我らを倒さんとしておる」

 区切るところを間違えたかと思ったが、兵の表情が引き締まっているように見える。紹運ならどうにかするかもしれないと思っているのだろう。正直なところ神仏でもない紹運にはどうすることも出来ない。

「これよりさらに厳しい戦となる。されど、私は諦めぬ」

 結局は武人としての意地にすがるしかない。三原のような冷静な者がいればすぐにまたか、と思われてしまうが、幸いそのような者などいない。笠をしていない兵を見ると頬がかなり紅潮している。

「大友を守るためなら悪鬼羅刹に身を堕としても良い。故に、皆は何も恐れることなく戦ってほしい」

 強い口調で言うとそれに応えるように皆の声が上がる。先程の蔓延していた不安感は払拭された。

(あとは、前線だな)

 吉田は実直だ。紹運に言われるがままにその通りのことを言うだろう。特に着色など付けるような真似はしない。水源のことは黙っておくとしていつ言うべきだろうか。

 本丸の全兵にいつでも出撃できるようにと命じ、蔵の状況を見に向かう。銃弾や矢はまだまだある。一つ頷くと付いてきた兵に全てを運び出せる準備を整えるように指示を出す。向こうが仕掛けてきたなら、こちらはそれ以上の備えをもって対抗しなければならない。

「さて、今日を凌げば……」

 おそらく国衆は自分たちの力では無理だと思うだろう。馬鹿でも人は二度同じ屈辱を味わえば愚かであると分かる。もしかしたら敵わないのではないか。このまま被害を出したまま時が経てば、豊臣の援軍と共に大友が逆に反撃される。

(あわよくば……)

 そこまで思って、いかんと小さく頭を振る。勝利への欲が頭を幾度なくよぎってきたが、今のそれはかなり強烈で、何でだと思えるほど、確信に近いものがあった。

(よもや、勝てる策がどこかにあるというのか?)

 時を稼ぐことばかり考えていたせいで見落としていたことでもあるのだろうか。紹運は必死に頭を探る。だが、解決への道筋など、どこにもない。

 やはり気のせいだろう。苦笑の代わりに溜め息を吐く。同時に武人の勘というやつだろうか、三原が頭に浮かんだ。だが、有り得ないと頭を振った。

 長らく高橋を支えてきた彼はたとえ紹運に忠誠心が無くても、高橋の地である岩屋を島津に蹂躙されるのを面白く思うはずが無い。すぐにでも策を提言してくるはずだし、戦場の中で、自ら向かうことが出来なくても伝令に書状を持たせてくるだろう。

 そこまで考え、紹運は思わず声を上げそうになった。三原は水が断たれたことを知らない。もしかするとそこに勝利への道が隠されているのかもしれない。

 すぐに決断した。紙と筆の支度をさせ、何かあれば遠慮なく報告するように家臣たちに伝えると近くの部屋で三原に書状を記し始めた。あえて彼だけに水源のことを言うのは賭けだ。言わなかったことに不満を抱き、流言をするかもしれない。

 だが、島津は国衆の攻勢をこちらが防げば必ず大きな動きを見せるはずだ。既に手を打たれてしまったのだからこれ以上、遅れを取る訳には行かない。

 逆に大きく動くことで、島津が綻びを見せるかもしれない。水源が断たれたことに感謝しなければならないのだろうか。否、と紹運は頭を振る。兵はおろか、民さえも水に事をかくようになってしまっては満足な生活などすることなど出来ない。

 もし、このような状況下でなければ、紹運は自ら民と城を裏切った者を見つけ出し、斬り捨ててやりたいと思った。城内の者でないことは分かっている。城から出れば必ず分かるし、島津側に問答無用で殺されるかもしれない。

 紹運は、島津は野蛮であると兵に吹き込んでいたし、忠義を考えれば怯えて島津になびくような者などいない。

(いったい、誰が)

 怒りのあまり、持っている筆からきしむような音がする。しかし、思っていても好転しない。

冷静になるよう言い聞かせながら書きあげると紹運は内容を確認する。水源のことをしつこく内密にしてほしいと何度も記した。三原ならこれを読めば秘匿すべきと悟るだろうが、ここは念を押しておくべきだ。一つ息を吐くと兵の一人に三原に送り届けるように指示を出す。

 人を信じるのはほどほどにするようにと父から言われていたが、その通りだと身をもって痛感するのが最後の戦になるとは。

 裏切られ続けた主の為とはいえ、何とも皮肉なものだ。苦笑を浮かべるしかない。もしかすると、人間とはそのようなものなのだろうか。

「殿、敵の攻勢がさらに増している由」

 兵の声が襖越しに聞こえてきた。

「二の丸より兵を出すように伝えい」

結局、その日のうちに城が落ちることも、三原から返書が届くことも無かった。

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