目の前に人がいる。自分が口を動かしていないのに相手は一回一回相槌を打っている。

 夢だ。

 紹運はすぐに分かった。

 目の前にいるのはここにいるはずのない人物だからだ。

 何を話しているのか分からないが、内容は分かる。

 場所と話している相手に記憶がある。厳かなはずなのに心はとても充実していて、春の風を受けているように心地よい。このような心持ちで話していただろうか。

 そこまでは覚えていない。

 いよいよ話も終わるだろうという頃に相手にあることを問いかけた。迷わずに答えた相手に自分は厳しい口調で叱り付けると刀を差し出し、こう言った。

『いざとなればこの刀で私を殺せ』

 つばをうつ。

 武人が絶対にそうすると誓う伝統ある作法。

 わざわざさせるまでも無かった気がしたが、伝統を重んじるのであればすべきだった。城内にある桜の木が風によって部屋に入ってくる。

 目の前で儀式が終わる。

 お互いに顔を見合うと相手は寂しさをどこか滲ませながらも覚悟を持った良い表情をしている。

 これで成すべきことは出来た。

 肩を撫で下ろすと体中の力が抜ける。空中を舞っている綿毛のように軽い。

 これほど気分が良い心地は人生で初めてかもしれない。

 戦場に身を置く武人とはいえ、人である以上、欲はある。

 ずっとこのままでいたい。

 そう思ったと同時に背中に激痛が走った。体が一気に重くなり、地面に叩き落されたような感覚になる。

 辺りを見渡そうにも先程の光景が嘘のように視界が真っ暗だ。ただ、体中の血が一気に外へと溢れ出るような感覚だけが生きている。

 振り返らなければ。だが、適うことなく意識を手放した。

 それと同時に目が覚めた。

 紹運はそっと背中に手を当てる。痛みは感じない。

「夢でも痛みを感じるか……」

 懐かしい夢だった。

 もう何年前のことか覚えていないぐらいだ。息子に渡したあの刀はもう必要ない。渡した当人がもうこの世にいてこの世にはいないような存在となっている。

(まさか、息子も私と同じ道を辿るとはな)

 紹運は元々、高橋家の嫡男ではなく、吉弘家の次男として生まれた。

 吉弘家は大友家臣の中でも筆頭格で、吉岡、臼杵と共に三家老として宗麟に重用された。吉弘は軍事面を任され、紹運は元服した後、父の鑑理と兄の鎮信と共に各地を転戦した。

 武勇を高く買われた紹運は永禄十二年に宗麟の命により大友に反逆し、空席となっていた高橋家の主と、岩屋城と宝満城の二城を継いだ。

 高橋家は先代の主を追放され、大友から差し向けられた新たな当主にどのような顔をするのか。皆が不安を覚えたが、紹運は情深く、私欲無しと讃えられた人望で彼らを見事に統治した。

 あの頃の苦労は筆述し難い。自身の日記にも紹運は高橋家を継いだばかりのことをあえて記さずにいた。思い出すだけで憂鬱になる。

 よく家として機能していたものだ。

 独立した大名家であれば間違いなく、すぐに滅ぼされていただろう。苦労した甲斐があったと紹運は自分で自分を密かに褒めた。

 口にすれば驕っていると家臣に言われるかもしれない。もっとも、そのような家臣など高橋にいない。

「申し上げます。島津軍は国境を越え、真っ直ぐこちらを目指しているとのこと。その数、三万」

 風が吹くと徐々に近付いている夏の気配を和らげてくれる。

 しかし、今この場にいる者にはそのような風情じみたことを味わう余裕などなかった。

「筑紫はどうなった」 

「既に島津に城を落とされ、降伏した由。今はいずこかに捕らわれている模様」

 因果応報だ。並の国衆ならともかく、それなりに力があって、名の通っている筑紫は日和見でいつまでも通用するはずが無い。あの勝ち誇った笑みがやつれているのを思い、声高らかに笑ってやりたい。もちろん、絶望的な戦の前に家臣の前でそのようなこと出来ないので、眉根に力を入れる。

「あい分かった」

 報告に来た兵は櫓を降りて行く。紹運はずっと外を見続ける。幸い、敵の行軍は思っていた程、速くない。

「殿。敵の軍勢をこの岩屋城で押し止めるのは不可能。殿は手はず通り……」

 ずっと側に控えていた配下の将の言葉を手で遮ると男は警告するように口を開く。

「屋山。その話は今すべきではない。直ちに皆を集めろ」

 そう言うと紹運は付き従っていた屋山と櫓を降りる。急ぎ足で城内を進み、軍議を行う十数畳ある部屋へと向かう。表情は全く動かない。動かせば城内の将兵に不安を与えるばかりである。

 一度、自分の部屋に戻ると一枚の書状を取り出し、躊躇いなく燃やした。

 紹運が軍議を行う部屋に入ると既に配下の将は全員揃っていた。上座に座ると全員の面を上げさせる。

「島津が筑前に入った。進軍路から間違いなくこの城は落とさねばならぬ。故に、我らは一丸となってこの岩屋城を守る。良いな?」

 普段なら、頭を下げるはずの家臣達は紹運の言葉に戸惑いを隠せていない。目を見開いて隣の者と話し始めたり、紹運の方を向いて呆然としている。

「殿。畏れながら殿は先頃、岩屋城より宝満、立花山城に退去すると殿自ら仰せられたのでは?」

 努めて冷静な声で筆頭家老の屋山中務が紹運に言上する。

 昨日まで島津が筑前に入るのを見届けた後、宝満城に退去する手筈だった。

 かの城は文字通り宝満山の連山である仏頂山付近に建てられ、急斜面の多い山の環境をも利用した砦が連なる要害である。筑紫には奇襲でやられはしたが、島津のような正攻法での攻めには十分に対応できる。

「如何なることでございましょうや」

 屋山以外の家臣も頷いて紹運の方へ視線を向ける。すると、紹運は「すまない」と頭を下げた。

「先頃までお主らに申していたことは偽り。私はかねてよりこの岩屋城にて島津を迎え撃つ覚悟であった」

 再び家臣達がどよめき、紹運に「何故!?」と迫る者もいる。

「岩屋こそ、守りに最も適すと思ったが故に」

「恐れながら、この岩屋は宝満、立花山よりも遥かに劣る城。せめて……」

「屋山の申す通り、この岩屋は宝満の支えで、砦の如きもの。されど、私が退けば島津が宝満、立花山に迂回するのは明らか。この岩屋は孤立する」

 少しだけ雰囲気が悪くなった。そのようなこと、紹運に言われずともここにいる家臣達は皆、承知している。だからこそ、家臣がここで捨て駒となり、紹運が万全を期して迎撃する。そう決めていた。 

 だが、岩屋城を迂回されると撤退した意味が無くなるだろう。

 宝満では戦うことの出来ない女子供が多くいる為、彼等を養う兵糧も必要となり、籠城戦の期間が短くなる。

 立花山では島津軍は紹運の主である大友家の豊後に進軍する可能性もある。

 堅牢さで劣っても、豊後への分岐路の前となる岩屋で紹運が戦うことで、島津は豊後に軍を集中させにくくなる。筑前の名家である高橋家の当主を簡単に見逃しては、島津の沽券に関わり、戦上手と名高い紹運を背後に残すという憂いもある。

「私は大友に仕え、多大なる恩を受けてきた。高橋という家を継いだのも主のおかげ。今、大友が危機ならば、お救いする。それが武人の筋だ」

 紹運は家臣達を見回す。先程までの喧騒が嘘のように静まり返り、皆が言葉に耳を傾けている。よく外様の自分にここまで従ってくれるものだと紹運は皆に頭を垂れたくなる。しかし、その前にやるべきことがある。

「私は岩屋に残る。異論のある者、家族を思う者、咎めぬ故にこの城を出るが良い。今宵、今一度軍議を開く。よいな?」

 紹運は部屋を出ようと立ち上がる。

 はたしてどれほどの家臣がここに残るのだろう。最悪一人か二人ぐらいしか残らない可能性もある。

 その時は、この城を放棄することになる。

「その必要は御座いませぬ」

「この三原紹心。未来永劫、地獄の果てまで殿にお仕え致す所存」

「福田民部、たとえ死しても殿をお守り致す」

 それらに続いて次々と頭を垂れる家臣達に紹運は目を見開き、口元を緩ませた。命知らずな者達という訳ではなく、心底から自分と共に死のうとしている。

 馬鹿馬鹿しいと思えるが、ここにいる者達は皆武人。死ぬことを恐れている者は人であるからいるだろうが、受けた恩を返す好機ならば、如何に命の危機に晒されようとも恐れはしない。

 鑑と呼ぶべき存在ばかりに頼もしさと感謝の念を抱く。元から高橋家の者として生まれず、養子として他家から来た彼に対する忠誠心が如何なるものか図れなかったからだ。

「ならば、皆は私と共に死んでも構わぬのか?」

「元より殿がこの城を出ると思うていたが故、誰が岩屋に残ると命ぜられようと命を散らす覚悟でござった」

 紹運もまたこの城で命を捨てるつもりであった。屋山の言葉は皮肉のように感じてしまう。苦笑いの代わりに小さく鼻で笑うと目を見開いた。

「此度の戦は大友を守る戦。主家の命運は我らにかかっておる。喜べ! かような戦に巡り会えしことを!」

 部屋に鬨の声が上がる。そして、外にいた兵も紹運らの声を聞き、地を揺らすような声を上げた。静かになるのを待ち、立ち上がった家臣を座らせ、要所要所の任を割り当てた。元より少ない兵を分けるのは心苦しいが、全てを本丸に置く訳にもいかない。その為、絶対に守らなければならない所にのみ将兵を置くことにした。全ての配置を言い終えると紹運は屋山を向く。

「紙と筆を」

「はっ」

 自らの名を書いて皆に見せる。

「この城にいる者全ての名をここに認めよ。足りなければ紙を足すのだ。我らがここにあったことを知らしめ、家族が誇れるように」

 並ぶように言うと家臣団は順に名を書き、血判を押す。紹運は内心安堵しながらその様子を見ていた。もう少し強い反対と抵抗があると思っていたからだ。

 だが、皆が去って屋山だけが残った途端、彼の向けてくる視線に強い怒りを感じた。それを見て他の者もそうなのだろう。彼の目は他の家臣の総意と言っても良い。

「皆、驚いていたな」

「当然かと」

 家老筆頭にさえ知らせていなかったのだから城内で紹運以外、知っている者などいない。当の屋山も未だに納得いかないと渋い表情をしている。年を重ねたせいでしわが寄りやすくなっているせいか、表情から考えていることが分かりやすい。

「敵を欺くにはまず味方からと言う。致し方ない」

「某はそれほどに信を得ておらぬと」

 怒りを買うことも恐れないはっきりした物言いに思わず苦笑いを浮かべたくなる。だが、屋山の言っていることは間違いない。一方で、紹運の中で最も恐れていたことが起きる可能性がある。

「お主が私よりこのことを聞き、素直に応じるか?」

「それは……」

 主君が道を外せば家臣はそれに従うことなく、多少強引なことをしてでも良いから目を覚まさせるという言葉が古来よりある。今の岩屋の状況に当てはめれば城に残ると紹運が言った時点で、屋山はおそらく無理をしてでも宝満か立花山へと退避させただろう。

「そういうことだ。故に、誰にも言わず、戦の支度が整った今日、私の真意を言ったまで」

「恐れ入り申す」

 口で言っても、屋山は紹運には生きて島津を討ってほしいと思っているに違いない。

「もはや殿が意思を変えぬのならば、某は従うまで」

「私は良い臣を持った。外様である私さえも受け入れてくれた」

「勿体なきお言葉で御座る」

 本丸からは砦などに配置されることになった兵が将の言葉に従い、走り回っている。彼らの中には生粋の武人ではなく、農民より駆り出された者も多い。それでも危機にさらされている大友を選んでくれた者達には感謝のしようがない。

「されど、もはや大友も危機に陥っておる。残念なことだ……」

「宗麟様のせいと仰るので?」

「……お主は?」

 屋山は黙り込んでしまったが、十中八九そうだと思っているのだろう。口に出さなくても分かる。

 大友がこのような未曽有の危機に陥った原因を辿ると島津と耳川で戦った時まで遡る。当時の宗麟は息子の義統に家督を譲りつつも権勢を維持していた。保護に留めていたキリスト教に妄執し、家臣と不協和音が生まれた。

 そして、日向の伊東から島津に侵攻を受けたために救援要請が入り、宗麟と義統はすぐに出兵を決めた。

 それまでは良かったが、宗麟は日向北部の寺社の破壊を行い、仏教、神道勢力のことを憂いた家臣との間で大いに揉めた。

 そして、三万の兵で島津軍五千との決戦に挑む。しかし、和平派と主戦派で意見がまとまらず、独断で動いた者も現れるなどしたことが仇となり、大敗を喫した。

 軍師であった角隅石宗や勇将で知られた斎藤鎮実など、多くの武将が戦場に散った。

 かの戦で失った歴戦の勇将、知将は九州全土に名の知られていた者ばかりで、大友家は軍の編成だけでなく、家臣団の整理をもしなければならなかった。

 一方の島津は日向を取り、大友から離反した筑前、筑後の国人衆らと連携し、勢力を拡大した。

 思い出すだけで唇を噛み締めたくなる。あの時、紹運は筑前にいた為、諫言をすることが出来なかった。宗麟の下に馳せ参じていれば何か変えることが出来たかもしれない。

 そうすれば島津に敗れることは無かっただろう。もしかすると龍造寺も大友に味方したままで、島津を追い込んでいたかもしれない。

 空想を思い描いても、もはや詮無きことだと紹運は首を振る。

 島津は久留米にもうじき到着する所までに進軍しているらしい。おそらく高良山か太宰府に本陣を置くだろう。ここは着陣の隙を突いて奇襲をかけたいが、日が上っている間は危険過ぎる。

「いつ頃、島津は到着すると思う?」

「後、二日程かと」

 援軍を呼ぼうにも間に合わない。それどころか、差し向けてくれる者などいないだろう。紹運は小さく息を吐くと屋山と共に蔵へと向かった。

 兵達にも紹運が残ることは既に伝わっているようで、道を開けて、平然としている。蔵の中に入ると籠城の為に備えておいた食料や弾薬、武器などが揃えられている。しかし、その蔵には向かわずに紹運は水や酒を保管している方へと向かった。

「兵達に酒を分け与えよ。残すのは水だけで良い」

「はっ」

「あまり飲ませぬようにな。余るのであれば明日にもう一度与えれば良い」

 指示を出す為、屋山は去って行く。残された紹運は残っている水と兵糧を調べる。岩屋は宝満の砦として建てられた為、決して十分な量を備えていない。保って一ヶ月、無理をするとさらに半月はいけるだろうが、千にも満たない兵で数万の大軍を相手するのだから消耗は激しい。

 いつまで保つかも分からないが、万一、尽きた場合のことも考えなければならない。手っ取り早いのは民からの搾取だが、そのようなことが生真面目な紹運に出来るはずがない。

(否、後先を考えても意味などない)

 下手をすれば一日で落ちてしまう。紹運は眉間にしわを寄せ、蔵から出る。屋山には何も言わなかったが、紹運はこのような戦に自ら乗り出すことになろうとは夢にも思っていなかった。

「如何にして時を稼ぐべきか……」

 日向から北上している島津を迎え撃つ為、今の大友にはこちらに援軍を寄越す余裕などない。だからといって、撤退する訳にもいかない。国衆が反旗を翻し、豊後で挟み撃ちを食らい、あっさり滅亡するのが目に見えている。

 つくづく不利な状況だ。

 七月の暑さも相まって、考えるだけで汗が額を流れる。おそらく水の量もあっという間に減る。もちろん水源は整備されている為、さほど心配していない。

今は島津の動きを見る。籠城している状況から後手後手になるのは仕方ないが、数を見ても正攻法で立ち向かえるはずがないのだ。その紹運の思考を遮ったのは兵の声だった。  

「立花山城の弥七朗様より文が届いておりまする」

 促されて入ってきた立花の兵は恭しく頭を下げると「我が殿より書状にございまする」と文を前に出す。屋山を経由して渡された文は確かに紹運の長男である立花統虎の親筆だった。内容は読むまでもなく分かっていたが、岩屋から早く撤退してほしいということを必死に訴えていた。一応全てを読み切ると書を開いたまま屋山に渡す。

「殿……」

 屋山はすがるように紹運を見る。先程の軍議ではあのように言っていたが、やはり岩屋城代としては自らが命を投げ打ち、主に生き残ってもらいたいという思いが強いのだろう。

 おそらく他の家臣に本心を言えと聞けば屋山と同じ意見に違いない。だが、紹運は首を横に振る。

「私が先程の軍議であのようなことを言った以上、覆す訳にはいかぬ。人の和が崩れては岩屋どころか宝満さえも長くもたぬ」

 決意は変わらないと屋山に文を持ってきた使者を丁重に送り返すように命じる。

「弥七朗には申し訳ないと伝えよ」

 そう伝えた二日後に統虎の返事が返ってきた。親不孝とはよく言ったものだ。

 死ぬと言っていたにもかかわらずわざわざ援軍を寄越すなど、不出来な息子であると世の中に見せしめるようなものだ。

 ところが、その三日後にとんでもない報告が来た。

「立花山城より吉田左京様、殿にお目通り願いたいと兵を連れて参上した由」

 報告を聞き、怒りで体を震わせた。吉田に当たり散らすような真似はしないが、聞くべきことは聞かなければならない。

 現れた者はまだ肌の白さが残る若い者だった。

「何故に弥七郎は援軍を寄越した?」

「紹運様を父として見捨てる訳にはゆかぬと」

「かねてよりこの城に援軍はいらぬと申したが?」

「我が殿は紹運様をお見捨てするわけには行かぬと仰られ、某が」

「命ぜられたか」

「否。某が自ら参りたいと」

 紹運は拳を強く床に打ち付ける。空気が一気に凍り付いた。

「愚か者めが。私がどれほどの覚悟を持っておるか分かっておらぬ」

「紹運、偽りは申し上げませぬ。お逃げ下され」

「黙れ。その口、二度と利けぬようにするぞ」

 立ち上がって刀を抜き、吉田に詰め寄る。

「お待ち下され!」

 屋山と福田が形式通りに間に入る。

「若様の思い、某も十分に分かり申す。吉田もここが死地であることも承知でございまする」

「今、我らの役目は敵を足止めし、時を稼ぐことにございます。ならば、吉田の援軍は少なくとも、我らにとっては都合の良いことでございましょう」

「立花山とこの岩屋。どちらが堅牢な城か。お主らは忘れたか?」

 この問い返しには屋山も福田も口を噤むしかないようだ。少しでも筑前のことを知る者なら簡単に分かる。

「恐れながら。今の状況下で敵を領内の奥深くに入れ込むのは下策。ならば……」

「岩屋にいる兵は援兵の数を合わせても七百と少し。この先の城も兵は島津の兵の数と比べれば少数。少数の兵を分散させるのは兵法の道から外れておるわ。せめて宝満に援兵を送るべきであろう」

 慌てて吉田が周りを見ても他に誰も反論出来る人はいない。しばらく様子を伺い、誰も言葉を発しないのを見て、その首下に刀を近付ける。

「そなたの首を統虎に送り、戒めとせん」

「されど、この城は筑前に入るがための要衝故、戦略上誤りはないかと」

 三原の落ち着いた声は紹運の頭を冷やすだけでなく、部屋一帯の殺伐とした雰囲気を穏やかにさせた。鋭い目でそちらを見ても彼は涼しい顔で見てくるだけである。

「紹心の言なくば、命は無かったと思え」

 睨み付けながら刀を納める。

 部屋全体に安堵感が漂う。どうやら皆は本気で吉田を斬るつもりだったと思っていたようだ。

 無論、援軍に来た味方を殺すような阿呆な真似をするつもりなどない。ただ脅しをかけて吉田の本心を見定めたかっただけだ。本当に首を斬って他の家臣から信用を失い、誰かが島津に寝返られるようなことがあっては捨て身の時間稼ぎが出来なくなる。

「よもや、ここは敵の手中にある。真に覚悟は出来ておるのか?」

「無論にござる」

「……よかろう。兵を直ちに本丸へと集めい」

 脱兎の如く吉田は去って行く。一息入れたいが、家臣の手前、それは出来ない。

 だが、紹運にとってこの援軍はかなりの戒めになった。岩屋城に籠もり、時を稼ぐにしても保って七日程度だと考えていた。統虎からの援軍は紹運を生かして落ち延びさせたいと思う他に、岩屋城でさらに時を稼いでもらいたいという願いが込められている。

 戦支度を怠るような武将に育てたつもりはない。おそらく島津の数と勢いが予想以上のものであるのだ。

(弥七郎め。親を踏み台にするとは……良い差配をする) 

 思わず口元が緩みそうになった。舌を噛み、堪える。息子の成長を喜ぶのは戦が終わり、涅槃に向かった後でだ。

 吉田のことを屋山に任せて兵が多くいる二の丸へと通じる道の方ではなく、本丸の櫓の方へ向かう。見回りの兵がたまに来るぐらいで、少ない城兵も今は準備に急いでいる為、なかなか注意を払うこともない。

「随分と間抜けな兵たちだな。気付かないなんて」

 櫓の陰から声がかけられる。

 からかっている口調だが、怒る気にはなれない。

 士気が高いとはいえ兵は兵だ。紹運はそちらを向かずに空を見上げる。強い日差しに目をくらませる。

「何故にここに残った? 戦略は素人だが、宝満に戻った方が良いと私も思うぞ」

「ならぬ。宝満城には私を含め、皆の妻子がおる。彼等を戦から守るにはこの岩屋城こそ正しく決戦の地」

「なるほど、筑前に深入りさせないよう自ら囮になった訳か」

 影から姿を現さないその人は鼻で笑い、嘆息した。

「囮にしては餌が高過ぎやしないか?」

「自惚れだが、私以上に島津を引き付けられる者はおらぬ」

「違いない。ま、頑張れ」

「お前はどうするのだ?」

「無論戦うさ」

「そうか」

 感情が全くこもっていない口調で紹運が返すと互いにかける言葉が無くなる。

 額を汗が流れ、頬を伝い、無音で地面に落ちた。島津が攻めるとすれば暑さが極まる昼を避けるだろう。その心を見透かしたような声がかけられたのはすぐだった。

「武運を祈る」

「お前もな」

 互いに目を合わせることない。

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