天正六(一五七八)年、九州が日向国にて大友は島津に壊滅的な敗北を喫した。島津は九州における一番の強大勢力となり、大友は衰退の一途を辿ることとなる。


 梅雨のせいか皆にも活気が見られない。これより城攻めだというのに、このまま戦を始めても決して良い方向へはいかないだろう。大友の将、高橋紹運は表情には出すまいと思いながら軍議の為に集った諸将を見ていた。

「敵に動きはあるか?」

「全くございませぬ」

 また沈黙が落ちる。ここ数ヶ月、このやり取りが朝昼晩と常に続けられていた。

 天正十四(一五八四)年、大友の家臣である高橋紹運は筑後へと出陣していた。序盤こそ様々な城を落としていたが、年を越してから敵が完全に守りを固め、打って出ることがなくなった為、膠着状態になっている。

「殿、やはりこちらから攻めては?」

「ならぬ。下手に攻めて龍造寺を刺激すればこちらが不利となる」

「されど、先の久留米での戦では我らは勝利したではありませぬか」

「それは敵がこちらに向かってきたが故ぞ」

 家臣は渋い表情のまま口を閉じる。こちらの兵も決して多いわけではない。仕掛けても被害が大きくなるのは目に見えている。敵もそれを知っているため、攻めに転じず、こちらが業を煮やすのを待っているのだろう。

 だが、このまま待っていてもますます士気が低下するのも確か。こちらが攻める側にもかかわらず、動かないのは道理に合わない。

(どちらにせよ、か……)

 何か手を打たなければならないが、なかなか良策が浮かばない。悪天候のように頭にも靄がかかっている。

かくなる上は、いっそ宴でも開いて強引にでも皆を盛り上げようかと思った矢先、陣幕の外が騒がしくなった。

「敵襲か!?」

「落ち着け」

 腰を上げかけた家臣をなだめ、様子を見てくるように命じる。

 しばらくして、外に出た家臣が一人の者を引き連れてやってきた。顔に泥を塗り、兵装はしていない。貧相で動きやすい格好をしていて、間者にも見える。

「この者が殿に話したきことがあると申されておりまする」

「かような男、その場で追い返せば良かったものを」

 家臣の一人がごみを見るような目で男を見る。

「されど、殿の御身に危険が迫っておると……」

 皆が訝しげに連れてこられた男を見ている中、紹運は目を見開いた。

「十時殿ではないか。如何した?」

 名を聞いて皆がざわめく。そのなかで淡々と泥を落とすと彼の細長い顔がより強調される。息遣いが荒いまま立花の家臣である十時連貞は紹運にこのような格好で申し訳ないと頭を下げた。

「左様なことはどうでもよい。して、なにがあった?」

立花家だけでなく、他国にも知勇兼備として知られる十時がこのように動くということはかなり大きなことがあったに違いない。おそらく凶報だろう。直感的にそう思ったが、内容は予想以上だった。

「戸次様が目を閉じられましてございまする」

 紹運の眉間に深くしわが寄った。

 家臣たちも騒然としている。

「いつだ?」

「三日前のことで御座います」

 道雪との思い出を振り返るように紹運は目を瞑る。立花道雪は大友の良心として、前当主の大友宗麟を何度も諫めてきた。

 また戦場に出て、激烈に知勇を振るう様は雷神と恐れられていた。

「ふむ……」

 既に齢六十を過ぎていたため、覚悟はしていたが、如何せん時期が悪い。

 兵法にて兵の数が多い方が勝つのは常道である。

 今の大友は敵の領内に侵攻しているにもかかわらず、一歩手段を誤れば数で劣るような状態。道雪はこの状況を覆すことが出来る将として大友の期待を紹運と共に背負っていた。

「このことが敵に漏れるようなことがあれば……」

「いや、遅かれ早かれ敵の耳に入ろう。戸次様ほどの方となればなおのこと」

「ならば、これよりは如何致しましょう?」

 片翼を失った鳥が飛べないように、勇将と知られる者が紹運のみとなった筑後遠征の軍を敵が見逃すとは思えない。

「このことを宗麟様は?」

「既に存じているかと」

「……直ちに兵を引き上げる。支度しろ」

 驚きの声が上がり、皆がそれぞれの意見で反対してくる。

 いきなり支度をすれば本国で異変が起きたと勘付かれる。敵の龍造寺や鍋島は大友に対する執着心は強いから勝ったと思い、追撃してくるだろう。敵だけでなく、味方も無暗に撤退すると不安を抱き、離反者が出る。

 もちろん、紹運も全て考えた上で撤退という決断を下したのだから、ここでもう一度やはり様子を見ようとは言えない。

「確かに、止まれば敵もすぐには悟ることは無い。されど、敵のみとは限らぬ。殿に恨みを抱く者が道雪殿の死を知れば、鍋島の如く証も無くすぐに攻めて来よう。下手をすれば筑前への退路を断たれかねぬ」

 筑前という言葉に皆が何かを悟ったように息を呑む。

 ここにいる者のほとんどが筑前を拠点とする立花と高橋の将や国衆。

 大友は筑前を完全に支配下に置いている訳ではない。支配している時もあれば出来ていない時もあるという状態を繰り返している。

 紹運も歯痒いと思っているが、なかなか決定打を打てずにいた。今回の戦で曖昧な支配に終止符を打つべく密かに躍起になっていたのだが、どうやら思わぬ形で事を終えることが可能になったかもしれない。 

「敵に道雪殿のことが悟られるのは時間の問題と思え。萩尾、成冨、その方らは先に宝満城へ向かえ」

 今ここで内に秘めた考えを言うことは出来ない。ひとまず、本拠である宝満城にいる皆の妻子を保護しなければならない。紹運はすぐに命を下すと他の者には迅速かつ隠密に支度を始めるように命じた。

「後は、あれがどう動くかだな……」

 誰もいなくなった陣幕で答える者はいない。はずだった。

「あの日和見は間違いなく動く。そうだろ?」

 喉が少しかすれている男の声が陣幕の裏から聞こえてきた。紹運はわざとらしく溜め息を吐くとその方向を見ずに口を開く。

「問題はいつ動くかだ」

「俺はすぐには動かないと思うけどな。かなりせっかちな指示を出したものだ」

「お前に何が分かる。あれの決断の早さは大大名のそれだ」

「そうか……」

「そうだ」

徐々に紹運の言葉遣いに遠慮がなくなってくる。おそらく、子供にはもちろん妻にもめったに見せたことはないだろう。

「お前も宝満城の方に行ってくれ。万一、何かあれば頼む」

「承知」

 背後の気配が一瞬で消えた。

 

 しばらく後、筑前の有力国衆である筑紫広門が大友に反旗を翻し、あろうことか宝満城を奪取したという報告が紹運に舞い込んできた。

「忌々しい。筑紫の奴はこの機を狙っていたのであろう」

 普段、冷静な紹運もこの時ばかりは苛立ちを隠せずにいた。

「殿の仰る通り、戸次様の死はやはり国衆らの中でも知っている者はいるようですな」

 様子を見ようとしていた者らが焦りの色を見せている。紹運はそれらの視線を無視して卓上の地図をにらむ。

 筑紫は少弐氏の庶流を称して長らく筑前に土着し、誇りが高いため、反抗と恭順するを繰り返してきた。

 豪族からの成り上がりである龍造寺に付くのは意外だったが、大友の支配から脱するに形振り構っていられないのだろう。

「されど、筑紫は龍造寺側としてこの戦にも参陣していたはず。何故に筑前へと向かうことができたのか……」

「筑紫とて筑前の者だ。道には明るかろう……殿、如何なされた?」

 紹運は何かに気付いたように顔を上げ、慌てて外へと出た。遠くに見えるのは筑後の柳川城。その手前には城外にある龍造寺軍の陣。

「ともかく、撤退を急ぐ。決して悟られるな」

 それから大友軍はその日の夜には筑後より撤退し、戦後処理を終えて戸次の葬儀を終えた。

 紹運も立花や戸次の者たちと共に彼の死を弔いたかったが、そのような時間など無い。

 直ちに岩屋へと帰還し、兵を整えていた家臣と合流して宝満城へと進軍した。素早く陣を形成し、いざ攻めようとした時、紹運は攻城を中断せざるを得なかった。

 筑紫広門の娘が高橋の陣に来たのだ。

「父は宝満が城を奪いしこと、悔いておりまする。何卒、和睦を」

 筑紫は娘を紹運の息子と婚姻させ、両家の和睦の証としたいらしい。

 紹運はすぐにでも諾と返答したかったが、家臣たちの雰囲気を悟り、即答を避けた。

「そなたの申すことは分かった。今日は休まれよ」 

 紹運は控えていた家臣に命じて広門の娘を下げた。頃合いを見計らい、皆に意見を聞く。

「筑紫の娘などの甘言に惑わされてはなりませぬ」

「左様、我らが油断したところを襲うつもりで御座ろう」

 重臣たちは徹底的に反対し、他の者もそれに同調している。だが、今の高橋軍の兵には道雪の死による厭戦気分が蔓延していたる。さらに筑後よりかなりの早さで撤退した為、兵の疲労も濃い。

 実際に戦う兵が付いてこなければ戦など意味を成さない。それこそ、先の戦のように。

「三原、お主はどうだ?」

 迷った末に紹運は自身同様に頭巾を被った三原紹心を見る。最も冷静な彼はまだ意見を述べていない。

「……ひとまずは、筑紫の案に乗るべきかと」

 一度目を瞑ると三原は穏やかな口調で言った。皆が怒りと疑念の目を向ける。どこ吹く風と紹運を見てきた。

「既に殿はご決断されているのでは」

 自分の心を見透かされるのは良い気分ではないが、実際にその通りだ。

 普段は筑紫という大友と同じぐらいの歴史ある家に宥和的な手段しか取れなかったのが、向こうから和睦を申し入れてきたのだ。

 島津の北上もあるため、戦線が減るのはありがたいとしか言いようがない。

 家臣たちを黙らせ、すぐに筑紫の娘を呼び、広門の下に戻るように伝えた。

 その内心、紹運は眉根を強く寄せていた。

 ありがたいことだが、この状況で筑紫が大友に付こうとする理由は一つしかない。豊臣と大友が盟を結んでいることを知っているのだ。日ノ本の片隅にある九州の半分を支配する島津と日ノ本の中心を支配し、朝廷さえも味方にした豊臣とを天秤にかけたに違いない。

 しかし、その手土産が宝満城とは思わなかった。城を奪った後に知ったのだろう。筑後から迂回して戻った理由にならない。

 紹運は浮かんだ仮説に顔を上げたくなった。道雪の死を知っていて、大友を滅ぼそうするなら龍造寺にも密告して一気に攻めてしまえば良かった。そうせずに筑前に戻ったのは龍造寺の目から逃げる為とすればどうなる。

「三原、筑紫の下に手練れの者を向けろ。決して油断するなとな」

「承知」

 日和見で生き残るのが一番難しいと言われる。

 体現している筑紫は正しく九州の狐だ。

 紹運は島津のことも忘れそうになるぐらい彼を思い、背筋を凍らせた。


 そして、筑紫はあっさりと宝満城を明け渡し、婚姻の儀も滞りなく進んだ。紹運は彼と話を交わしたが、決して表情を崩さず、常に警戒を解かなかった。筑紫も分かっていたようだが、自分に危害が及ばないと悟ると紹運に構わず親しげにしてきた。

 それでも距離を取っていた筑紫だったが、一度だけ不意に耳元に近付いてきた。

「豊臣に急ぎ援軍を願うよう宗麟殿にお伝え致した方が良かろう」

 耳元で囁かれた紹運はやはりかと唇を噛みたくなったが、公の場、しかも停戦と婚姻というめでたい時に苦い表情は出来ない。

「さぁ、皆の者、今宵は大いに楽しもうぞ」

 筑紫は少し冷めてきた雰囲気を盛り上げようと杯をかかげ、一気に飲み干す。歓声が上がり、また笑い声が部屋を包む。

「……言われずとも分かっておるわ」

 最後まで紹運が油断することはなかったが、特に変な事態が起きずに両家の和睦交渉は終わった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る