ああ、単純

うたた寝

第1話


『好き』って言われると好きになる、という話がある。

 この話を聞いた時、彼女は思った。『んなわけあるかい』と。それで好きになるのであれば、『好きです』と告白すれば全部成功するではないかと。

 もちろん、『好き』と言われて嬉しくない人は居ないだろう。よっぽど嫌いな相手からでも言われない限り、『好き』と言われて『何だてめぇこの野郎表出ろぉっ!!』とブチギレる人はまず居ないだろう。

 人間は承認欲求の塊。誰かに認められるのは嬉しいものだ。『好き』という言葉もこの承認欲求を満たしてくれる言葉ではあるだろう。誰かが好きになってくれるだけの価値が自分にはあった、ということだ。

『好き』という言葉には確かに、多少なりと魔力があるとは思う。言われた相手を嬉しい気分にはさせてくれるし、言ってくれた相手のことを好意的に思う、ということくらいはあるだろう。

 しかし、恋愛的な意味で好きになるか、と言われるとそこに対しては懐疑的である。思春期真っ盛りの女子でもあるまいし、こちとら大人の汚い部分を散々見てきて、その汚い世界で生きてお金を稼いでいる社会人様である。

『好き』と言われた程度で好きになるようであれば、そんな汚い大人の世界では生きていけないのだ。あっという間に何かの詐欺に引っかかるであろう。そんなピュアな心など、彼女は入社とともに捨ててきた。

『好き』と言われた程度では理不尽な大人社会に鍛えられ傷つけられてきた彼女のハートはビクとも


「俺は『好き』だけどなぁ」


 前言撤回。

 人は『好き』と言ってくれた人を好きになる生き物である。



 いや、言い訳させてほしい。いや、させてくださいお願いします。

 これは言われたタイミングと言った人がズルいのである。

 会社で彼女が上司に自分が発案した企画を見せに行った時、その会議でそれはもうボロクソに言われた。最初こそ言われた内容をメモに取り、『はい』と返事をしても居たが、内容はヒートアップしてくるわ、いつまで経ってもダメ出しが終わらないわで、途中もう元気もなくなり、言われたことに『はい』とさえ返せなくなった。

 いい大人だ。どんなに長くダメ出しされたところで泣くわけにもいかない。泣くのは我慢できた、と思うがちょっと自信は無い。ひょっとしたら目の端から零れていたかもしれない。

 大分詰められはしたし、あの上司の足の親指にレンガでも落ちないかなと呪いもしたが、言っている内容自体は筋が通っているような気はした。正論だとも思うが、言い方がいちいちキツイのである。そんな言い方しなくてもいいじゃん、と思う。それに正論だろうが何だろうが、自分が一生懸命考えた企画をボロカスに言われていい気分はしない。

 会議室から自席へと戻り、彼女は自分が作った企画書を見つめる。上司に言われた内容が頭の中で思い起こされ、才能無いのかぁ……、と彼女は堪えていた涙が溢れてくるのを隠そうと、企画書で自分の顔を覆っていると、


「俺は好きだけどなぁ、その企画」


 誰かが彼女の後ろを通った時、彼女に聞こえるようにそう呟いた。えっ? と思って振り返った時には、その人はもう通り過ぎて遠くに行ってしまっていた。

 何? 何今の? と彼女は動揺する。慰めてくれた……のだろうか? あまりにもスマートに通り過ぎられたものだから本気で何が起こったのかが分からなかった。

 自分が言いました、とアピールしてくることもない。何ならこっちが聞き逃すかもしれないくらいのボリュームだった。聞こえなかったらそれでもいいや、くらいの小さなボリューム。それで彼女のことをポツリと呟くように気遣ってくれたらしい。

 こちらの反応を待ちもせず、先輩は外へと行ってしまった。タバコは吸わなかったハズだから、コンビニにでも行くのか、あるいは外の空気でも単純に吸いに行ったのか。

 既に居なくなってしまった背中を未練がましく追おうとする。不思議と、会議室で散々詰められた上司の言葉がどこかに消えて、『好き』と言われた言葉だけが胸に残り、不思議な暖かさで包まれていた。



 普段からお世話になっている先輩ではあった。だから、元々好意自体はあった。頼りになって優しくて、いい先輩に恵まれたな、とこれは『好き』と言われる前から偽りなく思っていたことだ。

 しかし、恋愛対象として見ていたか、と言われると、そんなことは無かった。職場のいい先輩。そういう風に思っていた。恋愛対象として見るなんて考えたことも無かった。ところが、

「………………」

 先輩が女性社員と話していると、どこか複雑な感情を抱き始めた。何話しているんだろう、と気になって仕方がない。いや、当たり前に仕事の話なのだが、たまに雑談も混じるのだろう。笑い声が聞こえるとそんなにその女性と話すのが楽しいんですかふーん、とどこか嫉妬みたいな感情を覚えた。

 いかんいかんいかん、と彼女は顔を横に振る。そんなことでいちいち嫉妬など覚えてどうするのだ。仕事仲間と楽しく仕事をするのはいいことではないか。そのためには雑談の一つや二つもする。大体、あの二人は普段から話しているではないか。今まで見てきて何を急に……、

 あれ? 普段から話している、ということは、あの二人付き合っているのか?

 プライベートで話しているならいざ知らず、会社内で仕事の話をしているわけなので、フツーに考えれば単純に仕事で関わることが多いから話しているだけなのだが、その辺のことを考える余裕など無いらしく、彼女はズーン……、と落ち込み始める。

 仮に仕事の話しかしていない、としても、今の彼女からすると先輩と話ができることが普通に羨ましかった。割り振られている仕事上、彼女は今先輩と話せる機会があまり無いのである。いいなー……、と嫉妬とは別の感情でも話している女性を見てしまう。

 今まで気にも留めなかったハズの、他の人との会話が気になってしまう。今まで話し掛けてほしい、なんてそんなに強く思わなかったハズなのに、話し掛けてほしいと思ってしまう。

 明らかに今までと違う感情が自分の中で芽生え始めたのが分かった。そんなわけない、そんなわけない、と必死に否定をしようとするが、否定したところであまりに説得力が無さすぎる。それは分かっているものの、何とか自分の心の中でこれを恋心だ、と出張しようとする自分を一人ディベートで論破しようとする。

 何を勘違いしているのだ。先輩は彼女の考えた企画が好きだ、と言ってくれたのだ。彼女が好き、とは言っていない。それにあの時は慰めもあって言ってくれた部分もあるだろう。本心かどうかも分からない。

『好き』って貴女の感想ですよね? とまで言いかけたが、いや、そりゃそうだな、と思って飲み込んだ。『好き』は個人の感想。自分の気持ちの問題である。ということは、裏を返せば、好きではない、という気持ちに戻すことだってできるハズだ。

 自分の中に芽生えてしまったこのモヤモヤとした感情。日常生活にまで支障をきたしてきて厄介である。スーパーで買い物をしている時でさえ、先輩は何を買っているんだろう、とか考え始めてしまっている。私のことどう思っているんだろう、と夜も眠れなくなったりする。朝起きて彼女は第一声自分に突っ込んだとも。乙女かっ! と。

 第一、好きになる理由としていかがなものかと思う。『好き』って言われたから好きになるなんて、何かすっごい軽い女みたいではないか。

 そう。これはただの気の迷い。弱っている時に不意に優しい言葉を掛けられたから、その嬉しい感情を恋だと錯覚しようとしているのだ。

 忘れよう。忘れるのだ。これは『好き』という魔法の言葉に踊らされているだけなのだ。

 何かを忘れるのに一番手っ取り早いのは酒を飲むことなのかもしれないが、生憎彼女は下戸。記憶を無くすほどの酒量を飲もうものならリアルに命の危機である。新しい恋……、は確かに忘れられるかもしれないが手っ取り早くはない。

 では一旦忘れる、ということは置いといて、このモヤモヤとした感情を切り替えるにはどうしたらいいだろうか? と考え、彼女は髪を切りに行くことにした。普段であればまだ切りに行くタイミングではないのだが、気分転換に新しい髪型にチャレンジするのも悪くあるまい。

 そうして出来上がった新しい髪型を彼女は鏡越しに見つめる。自分だとあんまり似合っていないようにも見えるがプロが切った、ということは似合っているのだろうか? ……まさか失敗してないよな?

 先輩が見たら何て言うかな……? とか自然に考え始めている辺り末期である。先輩に見せるために切ったわけじゃないだろうがぁっ! と彼女は心の中で吠える。

 ……とはいえ、何と言われるのか、はちょっと気になる。似合ってないなんて言われようものならもう坊主にでもするかもしれない。

 ……いやいやいや、そんな理由で坊主になんてしないからな? 大体気付くかどうかも分からないし、話し掛けてくれるかも分からない。

 気付いてほしいのか、ほしくないのか。話し掛けてほしいのか、ほしくないのか。揺れる乙女心のまま彼女がコソコソ出社すると、

「あれ? 髪切った?」

 第一声即座に気付かれた。それだけでちょっと嬉しくなって頬が緩むが、緩んだ顔を見られたくない彼女は顔を伏せながら『はい……』と小さく返事をしてコソコソと自分の席へと向かおうとすると、

「いいね。俺その髪型好き」

「………………」

 皆さん知っているだろうか? 人は『好き』って言ってくれた人を好きになるのである。

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