前哨

第56話


 ラフ・サンデルスがジーン・ラッピンを伴い、ボーリクヴィスト将軍の許にトアイトンまでの道程みちのりを往復する間、アビレーを中心とする中部都市圏では〝軍によるサローノ避難民の事実上の隔離〟に抗議する〈サローノ系市民〉と、軍を支持し戒厳を是とする〈排外主義者〉との衝突が拡大していった。

 加えて軍を支持する〈排外主義者〉には親地球派や極右が連帯を示し、他方、〈サローノ系市民〉の側には、過激な排外主義に異を唱える人権擁護派の若者や、地球からの分離独立を叫ぶ運動家までもが近づいている。


 この時点で両者の対立は顕在化こそしていない――戒厳下の治安部隊が辛うじて抑えていた…――が、アイブリー市民の分断は、市中の至る所で確実に進んでいた。





 テレビに映るアールーズスタジアム前、……〈サローノ系市民〉と彼らに同調する人権派と〈排外主義者〉の一団との睨み合いを、ベアタは生気のない目で見ていた。

 あれから数度、スタジアムへと足を向けたが、公安調査部PSI捜査官の身分証IDをラフに突き返した彼女は、もうアイブリーの兵士が固めるフェンスの先に入ることが出来なくなり、エンマと会って話すことは出来ていない。

 特別捜査官の身分を失った彼女には、もう何も出来ず、何もすることがなかった……。


 呼び鈴が鳴るのを聴いた。ソファから立ち上がる気力が湧かずに無視を決め込む。

 呼び鈴は鳴り続ける。

 それでようやく根負けしたベアタは、立ち上がってドアへと足を向けた。


 無意識に頭に遣った手先が、もう2日もブラシを入れていない髪の、彼方あち此方こちを向いて跳ねた毛先――元々納まりが悪いのだ…――を感じ、ばつが悪くなって口元を引き締める。

 が、すぐに〝もうどうだっていいわ……〟と、捨て鉢な思いに、ふん、と鼻を鳴らし、ドアの前に立ったのだった。


 チェーンを外すことなく扉をわずかに引き、玄関先エントランスに立つ人影――…呼び鈴を鳴らした人物――を確認する。


 ――…っ‼


 ベアタの目が見開かれた。その視線の先、玄関先に立っていたのはラフ・サンデルスで、彼のズラせたサングラスの上の目が、こっちを向いて笑いかけている。

 反射的に身体が動いた。


「――ちょっ‼」 ベアタの挙動を察知したラフが、悲鳴のような声を上げる。「待て!」


 ベアタは構わずに押戸を閉めた。

 途端に〝悲鳴のような声〟は悲鳴に変わり、それから呻き声となった。


「――…うっそだろ……くそっ……指が……」


 扉越しの呻き声。喰いしばった歯と歯の間から漏れ出てきた途切れ途切れの言葉……。


 ベアタは頭が真っ白になった。

 指を挟んだ感覚はなかったが、ラフのくぐもった声が呻き続けている

 あの勢いで扉を押したのだ。

 骨折か、ひょっとしたら指が潰れてしまったのかも……。


 …――わたし……ラフの指を潰してしまった⁉


 ベアタは、チェーンを外して飛び出した。玄関前にうずくまったラフを確認するや、その傍らにひざまずいて覗き込む。


「ラフ! 手、だいじょうぶ? 怪我はひどい? ごめんなさい……、わたし…――」


 動顛し蒼白な表情かおのベアタが震える声でそう訊くと、ラフは、握った右手――左の手で包み込むように強く押さえたが、力を入れ過ぎて白く、小刻みに震えている…――を彼女の眼前に突き出した。息を呑んで覗き込んだ目の先で、彼の両の手が〝パッ〟と開かれる。


 そうして両の掌が〝握って開いてぐっ ぱっ〟をするのが2回ばかり繰り返されて、ようやくベアタは、ラフは怪我などしておらず、それが扉を開けさせるための芝居だったことに思い至れた。


「――不用心なんだよ、君は。この状況でそんなふうに飛び出してきて、危ないだろ」


 ここ数日聴いていなかったラフの暖かみのある中音域の声に、51%くらいの〝安堵〟と49%くらいの〝憤り〟の入り混じった表情と声音になってベアタは応じた。


でしょ! ……指が潰れたんじゃないかと…――あーもう! 信じられない!」


 そんなベアタのわりと本気の〝怒りの視線〟に、ラフは、近くのコンビニにヘーゼルナッツ&ミルクのカップアイスを買いに行くべきだろうかと考え始めた。

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