第57話


 ベアタは、隣の部屋のテレシアがフライパンを手に心配そうな顔で「どうかした?」と訊いてきたのに「なんでもないの!」と返すと、とりあえずラフを部屋へと上げた。


 室内に通しはしたものの椅子を勧めるでなく、自身は彼から目いっぱい距離を取ってリビングのソファの端に退く。つい先程まで寝ていた、自分の体温で温まったソファにラフを座らせるのは絶対に嫌だったので、〝フラッフィーふわふわさん〟――くまのぬいぐるみ。彼女ベアタの守護天使だ――を盾にするように抱えて先回りをした。

 表情を硬くしてフラッフィーと合わせて4つの目でめ上げると、ダイニングに所在無げに立つことになっていたラフは、居心地悪そうに肩を竦め、キッチン据え付けのダイニングテーブルからスツールを引っ張り出して腰掛けた。


 ラフが様子を窺うようにこちらを向いて訊いてきた。

「どうしてた?」

「何も……」 ベアタは正面からラフを見据えて訊き返す。「――…あなたは?」


「……忙しかった」

 ラフはその視線を正面から受けとめ、この一両日に起きたこと――彼がジーン・ラッピンから聞いて知ったことを含めて――を、一つ一つを語り始めた。



 アビレーで起こっている事態ことを憂慮するエヴェリーナ・ノヴォトナー準州代表が、オーレリアン・デュフィ戒厳司令官の解任と司令部の刷新を決意し、それを超党派で成すため、保守党の前準州代表るトマ・サンデルスに使者を送ったこと。

 その使者がジーン・ラッピンで、トマにはノヴォトナー代表からの親書が手渡されたこと。


 だがその日の午後に戒厳軍は先手を取って動き、トアイトン特別区を除く中部都市圏の全域で、政財界の要人、政治活動家、報道関係者、人権活動家といった〝社会に影響力を持つ者〟の身柄を保護の名目で確保、事実上の軟禁下に置いたこと。

 ラフの実家の在る富裕層街区トリックディストリクトも特殊部隊によって封鎖されたこと。

 封鎖の直前にトマ祖父は、ラッピンを準州代表の使者として軍守旧派の重鎮ベルンハルド・ボーリクヴィスト将軍に引き合わせることをラフに託し、2人はトアイトンへと向かったこと。


 トアイトンで会ったボーリクヴィストからは、ひとたび〝非常事態〟が宣言された以上、軽々に〝軍を割る〟ような行動はできないと諭されたこと。

 ……だが〝条件〟が整えば、統合幕僚会議は『デュフィの解任』と『戒厳の解除』の軍令を発するという言質げんちを取ることは出来たこと…――。



 そうしてラフが、彼らしい要所を押さえた簡潔な説明の言葉を一端切り、ソファの上のベアタの表情を窺うようにしたので、彼女はようやく〝相槌〟以外の言葉を口にした。


「――条件?」

 ベアタが質すと、ラフは〝簡単なこと〟を言うようにさらりと言った。

「戒厳の『必要規定』が解かれること――…〝テロの脅威が除かれた〟ことを、しかるべき筋から発するんだ」

 懐疑的に黙ってしまったベアタに、ラフは頷いて言う。

「ヘルムドソンが連絡を取る。……最後の〝細胞〟に」


 ベアタの瞳が何か言いたげに揺らいだが、彼女はここでは口を開かなかった。


「――でも、これを成すには軍を出し抜く必要がある……」 ラフはスツールから腰を上げるとソファのベアタへと近付いた。「…――そのために僕は〝対番きみ〟のたすけが要る」


 ラフはソファの脇まで来て傍らに屈むと、主人を守るべくふたりの間に入っていた〝フラッフィーふわふわさん〟の丸い頭越しに、〝対番ベアタ〟の落ち着きの失われた目を覗き込んだ。

 そうして噛んで含めるように言う。

「これは〝僕らPSIの事件〟だ。これ以上、軍の横暴を見たくないだろ?」


 まだ逡巡しているベアタにラフは頷くと、ジャケットの懐から一枚の身分証――彼女の公安調査部PSI捜査官のID――を引っ張り出して、ゆっくりと差し出した。


「こいつを片付けて、妹さんエンマを助け出そう」


 それでようやくベアタは頷くと、抱えていたフラッフィーを離して、ラフの差し出したIDへと手を伸ばした。

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