次に目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。

 隣には、父と母がいた。

 母は泣いていた。父も、いつもの勢いが無くなっていて、ずっと俯いていた。

 腕には包帯が巻き付いていた。薄暗闇じゃわからなかったけど、皮だけでなく肉も結構深く抉れていて、出血もヤバかったらしい。しかも、骨にひびが入っていた。

「傷痕は残るだろうね」

 お医者さんからそう言われて、母は一層激しく泣いた。

 父はずっと腕を組んでいて、こめかみの辺りに青筋を浮かべていた。

 唯一笑っていたのは、私だった。

 母にスマホを取ってもらうと、左手でギプスを撮影した。そして、ある人に送信した。

 すぐに『何があった?』と返信が来たので、『里帰りをしていました』と返した。

 すると、一分もしないうちに返信が来て、『帰りの足はあるのかい?』とあった。

「ありません」

 本当はバスを予約していたけど、私は大笑いしながらそう返した。

 また、十秒としないうちに返信が来た。


『じゃあ、迎えに行くよ。場所教えて』


 その宣言通り、その日の十五時前に、病院の前に赤色のミニクーパが停まった。

 扉を開けて出てきたのは、バーテンダーさんだった。

「明美さん」

 私は彼女の名を呼び、駆け寄る。

 袖なしワンピースを身に纏った彼女は、サングラスを外し、私に手を振った。

「やあ、久しぶり。怪我、大丈夫かい?」

「ええ、もちろんです!」

 私は精いっぱい笑って言うと、ギプスを装着した腕を上げた。

 が、すぐに眩暈がして、明美さんの胸に倒れ込む。

 明美さんは私を抱きしめると、犬でも愛でるみたいに、頭をめちゃくちゃに撫でてくれた。

「久しぶり。あんたがいなくて寂しかったよ」

「たかが三日なのに」

「小うるさい客の相手をしなくちゃならなかったからね」

 そう言って、私の頬を摘まみ、もちもちと捏ねる。

「それで、退院の手続きは?」

「さっき完了しました」

「そっか。カバンは?」

「モバイルバッテリーしか入ってませんよ」

 私は得意げに言うと、着ていたワンピースの裾を摘まんだ。

 それを見て、明美さんは満足げに笑う。

「そうか、じゃあ、帰ろうか」

「はい」

 頷いた私は、明美さんのミニクーパに乗り込もうとした。

 その時、背後から父の声が聴こえた。

「おい、何処へ行く」

 病院から飛び出してきた父は膝に手を付き、肩で息をしていた。

 遅れて母も出てきて、父よりも半歩前で立ち止まった。

 二人とも、今までに見たことがないような顔をしていた。

「もうどうでもいい。好きにしろ。だが、せめて傷は治していけ」

 顔を上げた父は、息も絶え絶えにそう言った。

「そうよ。父さん、確かにあんたに酷いことしたけど、全部あんたのためやったんやからね。せめて、もう少しここにおってよ」

 母もそう投げかけてくる。

 それを聞いた明美さんはにやりと笑い、私の頬を撫でた。

「だってよ。どうする? 店はバイトに任せてるから、一週間くらいはここで観光しても良いけど」

「いや…」

 私は首を横に振った。

「もう十分です」

「そうかい」

 明美さんは肩を竦めながら頷いた。私の背後に回り込むと、後ろから私を抱きしめる。

 私はドキッとしながらも、明美さんの手に私の手を重ねた。

 その意味深な動作に、父も母も青ざめた。

 私の頭頂部に顎を乗せたまま、明美さんは二人に言う。

「ということで、あんたらの娘さん、私がもらっていくよ」

「おい…」

 父が迫って来ようとしたから、手で制する。

「まあ待ちなよ。そんな深い意味はない。ただひょんなことから、仲良しになっただけさ」

 ねー? と、明美さんが同意を求めてきたから、私も頷く。

 父は舌打ちをした。

「その女に優しくされたからついていくんだろう? そうやって、楽な方へと流れていくと、将来後悔するぞ。戻ってこい」

「かもね」

 頷いたのは、明美さんの方だった。

 明美さんは父の方は見ず、私の喉の辺りを撫でながら続けた。

「この子はまだまだ世界を知らない。きっと、こんな女にかまけてる場合じゃないんだろうね。でもまあ、良いじゃないか。その時はその時。目が覚めたなら、また別の場所に泳いで行けばいいんだよ」

 顔を上げる。

「息ができるのが一番だよ」

 それじゃあね。大丈夫、悪いようにはしない。

 明美さんはそう言って、父と母に手を振ると、私を助手席に押し込んだ。

 自分は運転席に乗り込み、アクセルを踏み込むと、迫ってきた父を跳ね飛ばさんとする勢いで走り出す。

 大きく揺れたミニクーパは、地面に黒い痕を残しつつ道路に出た。

 後は、快調に走り出す。

「わー、やっちゃった」

 明美さんは窓を開けながらそう言った。

「あんな怖い親父さんに啖呵切っちゃった…。鉈持って取り戻しにやってきたらどーしよ」

 それから、恨めしそうな目を私に向ける。

「くそ、お嬢ちゃんがいる手前、カッコつけようとしたのが運の尽きだわ。私は誰からも恨まれることない、平穏な人生を望んでいるのに…」

「ご、ごめんなさい」

「うそうそ」

 すぐに態度を翻す明美さん。

 前方はしっかりと見つめ、入り込んでくる風に髪を揺らしながら言った。

「じゃあ、適当にドライブして帰ろうか。ってか、私長時間運転して疲れてるんだよね。休憩がてら、どこか行こうよ。ってか、お嬢ちゃん地元の人間でしょう? 美味しいところ無いの? あ、そう言えば、ここ堂々咲製菓の本工場がある町じゃない? あれ食べたい。私あれ食べたい。社長おすすめの、『あまねけーき』ってやつ」

 潮風に誘われるようにして、ミニクーパは開けた道に出ると、延々と続く直線を滑るように進み始めた。

 右に見えるのは、目を細めてしまうくらいに青々とした海。くっきりとした地平線を、赤と紫を混ぜ合わせたような光がなぞっている。渡り鳥の隊列は私らをあざ笑うかのように、ついたり、離れたり、またついて、散らばっていった。

 鼻先を掠めた潮の匂い。

 あまりにも心地よくて、私は大きく吸い込んだ。喉の奥に甘いものが溜まったかと思うと、肺が、陽だまりの縁側のような熱を帯びて膨れ上がる。

「で、どうするの?」

 そう言いかけた明美さんは、私の様子を見て息を呑んだ。

 そして、笑う。

「どうよ。息、できる?」

「できます」

 その答えに、明美さんは天井を仰ぐと、あっはっは! と笑った。

 その拍子に、ハンドルが右に逸れて、危うく堤防に衝突しそうになる。

 慌ててハンドルを左に切り、何とか元の車線に戻った明美さんは、改めて言った。

「そりゃあよかった」

 窓から見えた空に、鱗雲が見えた。

        完

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Breathe in the deep sea バーニー @barnyunogarakuta

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